★今日のベビメタ
本日1月26日は、2016年、USツアーの追加公演(5/5ボストン、7/12シアトル、7/14サンフランシスコ、7/15ロスアンジェルスが発表され、2020年には、METAL GALAXY WORLD TOUR in Japan追加公演@幕張メッセ二日目が行われた日DEATH。
<2021年1月25日現在>
PCR検査数 累計6,397,540 2020年12月25日4,613,939 直近1か月1,783,601
陽性判定数 累計364,813 2020年12月25日209,980 直近1か月154,833
死者数 累計5,084 2020年12月25日3,105 直近1か月1,979
致死率 累計1.39% 2020年12月24日1.48% 直近1か月1.28%
(データ元:厚労省「新型コロナウイルス感染症に関する報道発表資料」)
昨日のNHKは、「新型コロナに感染した高齢者が自宅療養中に亡くなるケースが増えている」というニュースをしきりに流していた。
これだけ聞くと、「高齢の感染者が入院したいのに病床がひっ迫している」「お年寄りにうつさないようにもっと自粛しなければ」と思ってしまうが、これは肝心のデータをぼやかして、視聴者を一定の方向に導こうとする偏向報道である。
この報道の元ネタは「全国の警察が2020年3月から2020年12月までに取り扱った変死事案で、新型コロナに感染していた人が122人いた」という1月6日の日経の記事と思われる。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQODG061OU0W1A100C2000000
警察は、医療機関以外で亡くなったために死因が分からないケースを変死事案として取り扱い、検視や解剖を行って、死因や事件性の有無を調べている。
こういう事案を「入院できない高齢者が自宅療養中に亡くなったケース」として扱うNHKの報道姿勢にまず疑問を感じる。
さらに、「医療機関以外で死亡した人」の「母数」も示されていない。
日本の死者総数は、2019年(令和元年)に138万1093人(厚労省:人口動態調査、確定数)で、そのうち自宅で亡くなった人の割合は約13%=約18万人が自宅で亡くなっている。
2020年の人口動態データは、通例1月に速報値が発表されるが、今年はなぜか1971年の調査開始以来、初めて未公表である。2020年1月~10月までの月次速報値では約1万4000人減少している。
高齢化により増加する一方だった日本の死者数は、武漢ウイルスによって減ったのである。要するに厚労省は武漢ウイルスの社会的脅威度が低いことを隠蔽しているのだ。
それはともかく、とりあえず2019年のデータを10か月分に換算すると、例年、約15万人が自宅で亡くなっていることになる。
1月6日の日経記事では、122人のうち、事前に新型コロナ陽性判定を受けていたのは32人であり、残りの90人は自宅や高齢者介護施設および路上で亡くなったあと、検視の一環としてPCR検査をしてみたら陽性だったというものだ。
つまり、2020年3月~12月に自宅で亡くなった約15万人のうち、事前にPCR検査を受けて陽性だったが、その時点では入院の必要なしと診断され、自宅療養中に亡くなったのは、わずか32人(0.02%)だったというのが真相である。
あえて繰り返すなら、PCR検査とは、ウイルスの死骸のRNAも増幅してしまうものであり、日本のCT値は40~50サイクルと「無意味」に高いから、誰でも陽性判定になる可能性がある。
しかも2020年6月以降、厚労省の死亡判定基準は、「陽性判定者が亡くなった場合には、すべて新型コロナウイルスを死因とする」というものだから、自宅で亡くなった高齢者の本当の死因が「老衰」「土着コロナウイルスによる風邪から併発した肺炎」「誤嚥性肺炎」「もともとの基礎疾患」であってもわからない。
この32人はいずれも検査機関の医師の診断により自宅療養でよいとされたのだから、「新型コロナウイルスによって容態が急変した」のかどうかは、ケースバイケースであるはずだ。
それを裏づけるように、NHKの報道で事例としてあげられていたのは、糖尿病の基礎疾患があった90歳台の男性のケースだった。この方は、入院を勧められたが、本人の希望で自宅療養していたのだという。死因がどうあれ、これは「天寿」ではないのか。
つまり、「感染しているのに入院先が見つからずに自宅で亡くなる高齢者が増えている」という報道は、「無症状のあなたも高齢者にうつさないようにもっと厳しく自粛しなければ」という方向に国民をミスリードするための印象操作に過ぎない。
DYSTOPIAはこうして忍び寄ってくる。
1865年に発表されたフランスのSF作家ジュール・ヴェルヌによる『20世紀のパリ』は、ナポレオン3世治下、パリ万博の開催など、「理性と科学」を称揚していた19世紀フランスの社会的雰囲気に合わないという理由で、初めは出版を拒否されたという。
だが、「理性と科学」こそ、ユートピアではなくDYSTOPIAを生むと喝破した点で、ディストピア小説の嚆矢であるといえる。
あらすじは以下のとおり。
舞台は100年後の1960年。主人公である16歳のミシェルは、ラテン語や詩を専攻し、恩師の娘に恋する文学青年だった。
だが、20世紀のフランスは科学万能主義が支配した世界だった。
社会は「巨大な計算機」によってコントロールされ、「太陽に匹敵する照明」が街を照らし、地下や高架には鉄道が走り、大通りには「ガスで走る馬の要らない馬車」が行き交っていた。
そのため、交通渋滞や大気汚染が発生し、汚れた空気と林立する高層ビルの中で、人々は「石油から合成されたパン」を食べて暮らしていた。
政治は世襲政治家によって占められ、人々の心は荒廃し、コネクションや利益を求めて簡単に友達や家族を裏切った。
芸術は、作品そのものの価値ではなく、商品価値があるかどうかでのみ評価された。
ラテン語や詩に関しては優秀な成績で学校を卒業したミシェルは、恩師と同じ文学研究者を志していたが、結局、銀行の計算機係に落ち着く。
だが、パリを大寒波が襲ったことで銀行を解雇されて無一文になったミシェルは、最後に残ったパンを買う金で、恋人に贈る花を買うのだった…。
ドラマチックな出来事が起こるわけではないので、確かに作品として面白くはない。
だが、ここに描かれた20世紀の社会は、「石油から合成されたパン」以外はほとんど的中している。
ジュール・ヴェルヌは、人々の心を荒廃させた原因を、芸術を軽視する「科学万能主義」だとしているが、この小説中では、経済効率主義の方がより強い要因のように思われる。
「芸術は、作品そのものの価値ではなく、商品価値があるかどうかでのみ評価された」というのは、「売れてるか売れてないか」でアーティストを評価するマスメディアの風潮そのものではないか。
「社会をコントロールする巨大な計算機」は、20世紀には実現せず、21世紀の現在になってようやく真実味を帯びてきた。
ぼくらのスマホやパソコン端末は、すでにクラウドに常時接続されており、単一ではないが巨大IT企業が情報を統制するようになっている。
この小説では交通渋滞や大気汚染がDYSTOPIAの風景として描かれているが、実際にA.I.が社会の隅々までコントロールするようになれば、交通や大気も巨大コンピュータによって制御され、問題は解決されるだろう。
だが、本当のDYSTOPIAは、それだけでなく、デジタル化されたお金の流れによって人々の生産活動や消費行動、健康状態まで管理され、民主主義の根幹である投票という行為も、情報操作や経済的利益誘導によって、一握りの「世襲の政治家」の意図でコントロールされてしまう社会である。
それが空想にとどまらないことは、2020年に起こった「作られたパンデミック」やアメリカ大統領選挙、さらには、わが国の首相が「デジタル化」を政策の柱としていることでもわかる。
この小説の最後に、主人公が恋人のために、自分が飢えることもいとわず花を買うシーンは、「科学万能主義」に対峙しうるのは、「愛」であるという主張のように思われる。
もちろん、相手の娘だって、貧乏な「愛」より、社会的に裕福な男を選ぶに決まっているから、主人公に待っているのは、みじめな運命しかない。
「科学万能主義」によって経済効率を追求するのではなく、多少の不平等や不幸や失敗があっても、人々がそこそこの暮らしと、ささやかな「愛」に生きられる社会の方がいいと感じる心こそ、DYSTOPIAを回避するもっとも強いエネルギーになるとぼくは確信している。
(つづく)