リアリティの条件(5) | 私、BABYMETALの味方です。

私、BABYMETALの味方です。

アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ
本日11月27日は、過去BABYMETAL関連で大きなイベントのなかった日DEATH。

FM湘南ナパサ(78.3MHz)で、隔週土曜日に放送中の「湘南BEAT HOUSE」パーソナリティのMIHOさんのお手伝いで、ラジオドラマ『盗まれた黄金比率』(全3回)の音楽を担当することになり、今日はスタジオ収録でした。
メタルとは全然違う劇伴ですが、全曲オリジナルです。レコーディングにはDAWを使っていますが、基本1トラックで、ギター、キーボードとエフェクターのみで制作しました。
コンポーザーとしてのクレジットは櫂人(かいと)です。
第1回の放送予定日は12月5日(土)20:00~。可聴範囲は限られたエリアですが、よろしければ。

リアリティを「本当らしさ」と言い換えれば、その反対は「ウソ臭さ」だろう。
しかし、何度も言うように、リアリティとは「リアル」のことではなく、「ウソ臭さ」もまたウソそのものとは限らない。ウソがリアリティを持つことだってあるのだ。
その典型がこの連載の最初に挙げたプロレスである。
他所から来た、いかにも悪そうで強そうな悪役=ヒールに対して、地元を代表する正義の味方=ベビーフェイスが素手で戦う。試合は開始早々、ヒールが圧倒的な強さでベビーフェイスを痛めつけるが、観客ないし視聴者が望むように、最後にはベビーフェイスが逆転勝ちする。
興行成績ないし視聴率は、観客ないし視聴者が望む通りになるかどうかに左右され、それによって悪役も不可欠なキャストとして飯を食うのだから、そうなるようにあらかじめ筋書が決まっているのが、プロレスだった。
そのため、リングのマットは、ボディスラムで叩きつけられれば大きな音が出るが、実はたわんでレスラーの身体を守るようにできている。ヘッドバットやチョップ、キックを入れる際には、よく見るとレスラーは足でも大きな音を出して、いかにも凄い衝撃かのように演じていた。
それは心技体の競い合いという意味では、ウソの格闘技だったが、観客ないし視聴者はそこにリアリティを感じ、熱狂した。
だが、毎回同じように正義の味方が勝つのでは、ウソであることがバレてしまう。
だから、時には負けて「見せる」必要もあった。
致命的な故障や、決定的な局面での敗北により、精神的に打ちのめされ、絶望のどん底から這い上がって、悪逆の限りを尽くす悪役チャンピオンから王座を奪還するという数か月から数年がかりの筋書もあった。
こうなると、「本当は王子/王女なのに、悪い奴によって苦境に堕とされたヒーローの復活劇」という古典的なドラマツルギーに酷似してくる。
「シンデレラ」も「ライオンキング」も「美女と野獣」も、基本構造は同じだ。
本当は強くて正しい正義の味方なのに、悪役にチャンピオンの座を奪われ、そこから、数々の試練を経て、ついには悪役打倒を果たし、「本来あるべき」王座に返り咲く。これで、ファンはカタルシスを感じるわけだ。
つまり、勝ち続けるのではなく、「負け」をいかに織り込むかが、リアリティの源泉になるのだ。
連載1回で書いたように、アントニオ猪木は「やられっぷりの美学」の天才だった。


何せ、1972年3月6日、新日本プロレス旗揚げ興行@大田区体育館のメインイベント、対カール・ゴッチ戦で、猪木は負けるのだ。
試合後のリング上のインタビューで、猪木は「旗揚げの準備で練習時間が取れなかった」ことを挙げた。これにより、猪木は「実力が拮抗した者同士が戦い、その時コンディションの良い者が勝つ。」「新日本プロレスは真剣勝負である」ことを暗にアピールした。
もちろん、後から考えるとそれもまたウソだった。
だが、そこに観客は、アメリカンプロレス色の強い馬場プロレスとの違い=猪木イズム≒リアリティを感じたのだ。
武漢ウイルス自粛期間中、YouTube上には、長州力、前田日明、船木誠勝、蝶野正洋、獣神ライガーらのレスラーがかつての「秘話」を語る動画が一気に増えた。
そこでは、「あの試合はこういう経緯で行われた」「あの移籍はこういう背景があった」といった「リアル」が語られ、時には当事者同士の記憶がズレていたりもするのだが、それと、試合を見ていた当時のリアリティは明らかに違う。
当事者が直面している「リアル」と、それを見ている観客ないし視聴者の感じているリアリティは違うのだ。
「負け」は当事者にとって屈辱でも、どんなに同情しても直接影響があるわけでない観客にとっては、ヒーローの苦境は、這い上がるためのドラマの前フリだと受け取られる。
リアリティとは、当事者のものではなく、観客のものなのだ。
「リアル」とリアリティの違いは、今回の武漢ウイルス禍でも見受けられた。
このブログでは、一貫して武漢ウイルスは、感染者数×致死率から見て、インフルエンザその他の風邪ウイルスより社会的リスクの少ない感染症だと言ってきた。
発症し、症状や病原体の特定など、医師による診断を経て「患者」になるというこれまでの病気とは異なり、発症もしていない人に付着したウイルスを、PCR検査でウイルスの欠片を恣意的な増殖率で増殖させて、法律上隔離すべき「感染者」に仕立て上げるという、前代未聞の中国政府推奨の「診断法」が適用され、医療マフィアに莫大な利権が生まれるとともに、「感染者」が増えることを「この世の終わり」であるかのようにマスコミが報道することで、緊急事態宣言による「自粛」が要請され、経済活動をストップさせたことで、甚大な経済的被害と自殺者の増加が生じた。
その不自然さを、ぼくは「作られたパンデミック」と呼んできたが、「PCR検査を増やせばよい」「ロックダウンすれば感染者数が抑えられる」、そもそも「武漢ウイルス(新型コロナ)は死病である」という大ウソが、なぜかリアリティを持って受け取られた。
最近でも、「感染者が増加したのはGo Toキャンペーンのせいだ」という大ウソを、こともあろうに日本医師会会長や東京医師会の会長がコメントしている。
7月から夏休みにかけて、Go Toキャンペーンを利用して国内を旅行した人はのべ4000万人に上るのに、その中の「感染者」はわずか百数十名にとどまっている。
これは、感染を恐れて、あるいは金も暇もないために、Go Toキャンペーンを利用しなかった人たちの―とりわけ、今Go To キャンペーンの中止を巡って揺れ動く北海道、東京、大阪、名古屋といった地域の「感染者数」より、はるかに少ない。
「感染している人が少ない集団」が、「感染している人が多い集団」のところへ遊びに行ったら、何で「感染者が増える」のか。因果関係がむちゃくちゃである。
日本の「感染者」が増えているように見えるのは、40-45サイクルという高いCT値で運用されている日本のPCR受検者が増えているからに他ならない。
武漢ウイルスは、日本人のほとんどが免疫を持っている土着コロナウイルスの亜種に過ぎず、発症率が低く、発症しても風邪と同じように数日で治ってしまう。
免疫力の弱っている高齢者や基礎疾患保有者にとっては、インフルエンザや風邪と同じように危険だが、そうでない大多数の人々にとっては、「ただの風邪」と同じである。それをいちいち検査して、発症しないほどの欠片が鼻や喉に付着していても、高い増殖率で増殖してカウントするから、寒くなってウイルスの活動が活発になると、「感染者」が増えているように見えるというだけだ。
ところが、マスメディアは、こういうPCR検査のカラクリや核心的なデータを一切報道せず、「感染者数の増加が止まらない」「Go Toキャンペーンの影響ではないか」という憶測を垂れ流すから、多くの日本国民が、そこにリアリティを感じてしまう。
そもそも、2月に書いたように、武漢ウイルスの最も有効な処方箋は、『あなたはリスクに騙される』(ダン・ガードナー、ハヤカワ文庫)である。
あなたを襲うリスクの「確率」を計算すれば、適切な行動がとれる。
だが、ほとんどの人はこういう訓練を受けていない。
リスクに直面すると人間は本能的に「感情脳」が優先し、理性的な行動がとれなくなってしまう。
同書では、2001年のNY同時多発テロ事件後、飛行機に乗る人が激減し、その結果交通事故が増えたという事例が紹介されている。同時多発テロが起こる確率より、交通事故が起こる確率の方がはるかに高いにも関わらず、アメリカ人の多くが「自分もテロ事件に巻き込まれるかもしれない」と思い込んだのだ。
武漢ウイルスでは、1月の中国共産党政権による閉鎖された武漢市や、医療崩壊したイタリアやNYの病院内の「地獄」の映像の印象が強烈だった。


だが、ちょっと考えればわかるが、あれは特定地域の、特定期間に不用意な医療行政の下で発生した現象に過ぎず、同じことが衛生観念も医療制度も異なる日本全体で起こると考える必要はどこにもない。
現に日本では医療崩壊は起こっていない。まことしやかに「来月は東京もNYと同じようになる」と言ったコメンテーターおよびそれを放送したテレビ局のディレクターは丸坊主になるべきだ。
この秋、日本国民はマスコミが騒いでも、もう「緊急事態宣言を発出せよ」とは言わない。
そのことを、武漢ウイルスがインフルエンザより危険な病気ではないことやPCR検査のマヤカシを知ったからだとは言えないとぼくは思う。
「死病」のリスクの他に、日本国民はすでに春の自粛期間の本当のリスクを知っているから、「日本は死者数が少ない」というマスメディアも否定できない事実から、両者を天秤にかけて、「さすがに自粛はしなくていいんじゃないの」と、感情的に思っているだけだ。
つまり、今でも、大方の日本人にとって、武漢ウイルスは「死病」なのだ。
それがウソのリアリティということだ。
さて、ようやくBABYMETALである。
前回、BABYMETALは「リアル」によってリアリティが補完されていると述べた。
幼いころから、彼女たちは「キツネ様に召喚された美少女メタル戦士」という荒唐無稽なキャラクターを演じさせられてきた。そのキャラクターは、当然、現実には存在しないもの=ウソだが、彼女たちは、過酷なレッスンとライブパフォーマンスで、そこにリアリティを生じさせた。
「中高生としての生活は世を忍ぶ仮の姿」「さくら学院はアンダーカバー修行」という大ウソが、「ウソ臭さ」にならなかったのだ。
2018年に起こった苦境は、彼女たちの行く手に影を感じさせ、口さがないネットのアンチは「オワコン」とまで呼んだ。

だが2019年6月以降は、アベンジャーシステムの新生BABYMETALとなって、全米横断ツアー、汎ヨーロッパツアー第1ラウンドを敢行し、『METAL GALAXY』のBillboard 200ランキングは前作を上回る13位まで躍進した。これは56年ぶりに坂本九の記録を塗り替えるもので、日本語で歌うアーティストの日本音楽史上最高位である。
これこそ、絶望からの復活劇だった。


だが、正確に言うと、そこに感情的な意味でリアリティを感じているのは、ぼくらメイトだけである。
大多数の日本人は、ビルボードのアルバムランキングでは、すでに追い抜いたオノ・ヨーコやYMOや喜多郎や冨田勲やLOUDNESSは知っていても、BABYMETALを知らない。
知っていたとしても「日本より海外で大活躍している」「ビルボードで坂本九を抜いた」「イギリスのチャートでRock部門1位、ビートルズを超えた」といった「リアル」だけである。
それはなぜだろう。
(つづく)