リアリティの条件(4) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
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★今日のベビメタ
本日11月24日は、過去BABYMETAL関連で大きなイベントのなかった日DEATH。

テレビからリアリティが失われて久しい。
ぼくは直接経験していないが、戦後まもなく、繁華街に設置された街頭テレビのプロレス中継に、男たちは熱狂した。そこで流れていたのは、いかにもヤンキーという背格好のシャープ兄弟が、最強の柔道家だが、どうしても小柄に見える木村政彦をさんざん痛めつけたあと、ようやくタッチした大相撲上がりの力道山が「もう我慢できない」といったふうに怒りを爆発させ、空手チョップでシャープ兄弟をバッタバッタとやっつける映像だった。


もちろん、筋書のあるプロレス興行に過ぎず、タッグチャンピオンとはいえ、シャープ兄弟はアメリカ人ではなくカナダ人で、力道山は朝鮮北部出身で、大相撲を引退するまで日本国籍を持っていなかった。

だが、アメリカに敗れた敗戦国の大人の男たちは、「小柄な日本人が大男のアメリカ人をやっつける」ことにリアリティを感じ、涙を流して感動した。
書籍、新聞、雑誌、ラジオ、テレビしかなかった時代、テレビはもっとも多くの情報を、リアルに伝える媒体だった。「映像はウソをつかない」はずであり、「テレビで流れた」ことは疑いようのない真実だと思われた。
テレビの初期、ドラマでさえ生放送であり、収録映像であっても、フィルムが高価だったため、撮って出しが基本で、手の込んだ編集はできなかった。
テレビのドキュメンタリー映像がウソだらけなのが広く知られるようになったのは、1970年代に日本テレビのディレクター矢追純一が手掛けた『超能力者ユリ・ゲラー』(1974年)、『オリバー君来日』(1976年)、『矢追純一UFO特集』(1977年~)や、同じく日本テレビの『お昼のワイドショー』枠の「怪奇特集!!あなたの知らない世界」(1973年~)での冝保愛子による霊視、『水曜スペシャル川口浩探検隊』(NET→テレビ朝日)などの超常現象番組からだった。
正確に言えば、番組中でトリックだ、本物だと討論するようになるのはのちのことであり、実際に『川口浩探検隊』の明らかな矛盾―「前人未踏の洞窟」に初めて入る川口浩の緊張した表情を、洞窟の中から撮影している―とかを指摘したのは、替え歌の天才、嘉門達夫が1984年にリリースした2枚目のシングル「行け行け川口浩」だった。

また、オリバー君は、チンパンジーと人間のハイブリッドという触れ込みだったが、ホテルで一晩お世話係を務めたテリー伊藤によれば「くさい臭い。あんなもん、タダの猿だよ」ということであった。


この頃から、テレビの映像にも都合のいい編集やウソがあることが理解され始め、1992年には、ドキュメンタリーの大ヒット作『シルクロード』シリーズの続編ともいうべき、『NHKスペシャル奥ヒマラヤ禁断の王国・ムスタン』にヤラセがあったことが露見し、受信料を取る公共放送なのに日産自動車から協賛を受けていたことも含め、大問題となった。
NHKでは、2002年4月に放送されたNHKスペシャル『奇跡の詩人』で、重度の脳障害を抱え、文字盤にある文字を母親の補助で指すことによって「詩」を創るという少年が、居眠りをしているのに正確に文字盤を指していたことに、ホントは母親がやっているのではないかという疑惑が国会で取り上げられ、2005年5月には『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』で、放送内容に事実と異なる点が多数見受けられると指摘されてアーカイブから削除され、2007年の『NHK海外ネットワーク』が、インドの経済発展を特集した際、番組中で自動車を購入したとして紹介された農家の男性が、実際には販売代理店に依頼されて借りていただけだったことが発覚したりもした。
デジタル編集の時代になって、いくらでも編集加工が可能になると同時に、インターネットの発達によって、放送内容にウソがあればすぐに指摘されるようになった。
編集可能という前提で見ていくと、テレビで放送される映像は、意識的なヤラセ演出でなくても、発言の前後をカットして都合のいい部分だけを使う「切り取り」や、映像のバックにおどろおどろしいBGMをつけて「ワルモノ感」を出す効果、ニュースショーの司会者がニュース映像の後に短いフレーズで感想を言って、視聴者を無意識のうちに誘導するといった演出テクニックが凝らされていることがわかってきた。
「映像はウソをつかない」「テレビで流れたことは疑いようのない真実」と思ってきた戦後日本の視聴者は、実は簡単に騙される「カモ」だったのだ。
こうして、テレビからリアリティが失われていった。
テレビに代わってリアリティを持ったのがインターネット上のSNSや動画配信サービスだった。
もちろん、不特定多数の発信者が流す情報だから、玉石混交であり、裏付けのない情報、明らかに矛盾した情報、発信者の立場や価値観にもとづく偏った情報も多かった。
だが、インターネット情報のいいところは、受信者がその情報の真偽や確度を、他の情報源を検索することによって自分で判断できるところにあった。
「ウソかもしれない」という大前提があるからこそ、すぐにその情報に飛びつくのではなく、自分で判断することができるのが、一方的に流されるマスメディア情報との決定的な違いだった。
仮にその情報がウソだったとしても、「真実だ」という前提で騙されるより、「ウソかもしれない」と思いつつ、自分で判断した結果ダマされたほうがいい。それは自己責任だからである。
こうして、SNSや動画配信サービスの発達は、ある人にとってはリアルだが、ある人にとってはリアルとは思えないというリアリティの競合ないし分裂をもたらした。
現在、アメリカ大統領選挙を巡って起こっていることは、戸籍がなく、有権者名簿すらきちんと管理されていないアメリカの選挙管理体制の問題点を露呈したものであるとともに、もはや国単位では、共通のリアリティが持てないという事態を反映しているのだと思う。


民主党および支持者の総意としては、トランプ政権の独善的でラディカルな政策、とりわけ武漢ウイルスへの対応やBLM運動への強権的な姿勢に反発した多くの良識あるアメリカ人は、中間選挙同様、トランプにNGを突きつけたのだという言説にリアリティを感じるだろう。
だが、トランプ支持者は、グローバリズムに歯止めをかけ、国内に生産拠点を戻すべく企業減税を断行して失業率を改善し、北朝鮮のミサイル実験をやめさせ、中東和平を実現し、強大化した独裁国家中国と戦う姿勢を示したトランプ政権の政策は正しく、武漢ウイルス早期完治後の集会にはバイデン候補とは比べ物にならないほど大勢の人々が集まったのだから、この選挙結果は、バイデン陣営がマスメディアや民主党支持のIT企業、投資家、あるいは外国勢力とつるんで、大掛かりな選挙不正をやったに違いないという言説にリアリティを感じている。
もしこのまま、バイデン候補が大統領に就任したなら、7000万人以上のトランプ投票者は、バイデンはフェイク大統領だと言い続けるだろうし、連邦最高裁で選挙が不正と認定されるか、選挙人が決まらず、下院で50州各2名の代表による投票が行われ、トランプ大統領が再任されるなら、今度はバイデン陣営及び民主党支持のマスメディアが一斉に反論をはじめるだろう。
2020年は、武漢ウイルスにまれ、アメリカ大統領選挙にまれ、マスメディアとネットの双方で、リアリティの所在が分裂した年だといえよう。
人々が共通の価値観を信じられなくなったのは、ネットが生み出した悲劇なのか、それともフェイクニュースを垂れ流すマスコミのせいなのか。
いくらマスコミやサヨク陣営の批判があっても、大多数の人々が公正中立な選挙で選んだ自民党政権が安定的に政権を運営する日本から見れば、アメリカの混乱は悲劇に見える。
だが、少なくとも、リアリティの競合ないし分裂という事態は、独裁国家ではあり得ない。
実は、こうした事態は、ネットやメディアの発達以前からあった。
むしろ、人々が一元的な情報を共有するマスコミの登場以前の世界は、人々のものの見方や考え方が、民族や宗派や身分や性別といった属性によって違うのが当たり前だった。
それを調停し、武力や財力や血筋や権威ではなく、有権者の投票で多数を得た者が政治的リーダーになり、結果が出た後はノーサイドになるという大原則が、普通選挙制度だった。
形式的に選挙は行うが、結果はあらかじめ決まっているというのは、共産主義者特有の「民主集中制」なるマヤカシである。
投票者が誰に投票するか/したかは決して明かしてはならず、開票は公開かつ厳正に行われるという秘密選挙こそ、民主主義の最重要基盤である。
その意味で、マスコミが「誰に投票するか」を電話で訊く世論調査とか出口調査なるものを行うのは、本来あってはならないことなのだ。今のアメリカ大統領選挙でも、公的機関でもないテレビ/ネットメディアがしきりに支持率調査結果を報じ、選挙本番でもまちまちな数字で結果を報じていたのは、明らかにおかしいとぼくは思う。報道によって必ずフィードバックが生じてしまうからだ。民主主義の原則を歪めているのがマスメディアであるというのは、確かなことだ。
それはともかく、もし本当に組織的な不正選挙が行われたとすれば、それは全体主義の始まりである。
また、選挙は公正に行われたのに、現職大統領がその結果を認めないということなら、それもまた民主主義の大原則を逸脱した、ただのガキ大将である。
いずれにしても、今回のアメリカ大統領選挙では、選挙の「リアル」がぐらついているから、リアリティが競合しているのだ。したがって、共和党・民主党に関わらずアメリカが今後も民主国家であろうとするなら、徹底的に究明し、不正の余地のない選挙制度に改めるべきである。自由主義の同盟国の国民として、切に願う。
そのうえでなお、人々が何にリアリティを感じるかは自由だ。
マスメディアが自分たちの信条にもとづいて「切り取り」報道をするのも自由だし、それをネットで叩くのも自由だ。人々は、とっくの昔に、マスメディアにリアリティがないこと、ネットが玉石混交であることを知っているからだ。
リアリティが競合する社会は、自由な言説が保証されている証拠である。
そして、アーティストの楽曲や生き様に、リアリティを感じるかどうかも自由だ。というより、サブカルチャーは、そもそも発祥の時からリアリティを競うものだった。
お芝居でも、歌でも、コメディでも、「演じる」ものであり、生身のアーティストの私生活とは原則的に違うのに、そこにリアリティを感じさせるかどうかが「芸」である。


BABYMETALは、小学校5年と中学校1年のときから、「キツネ様に召喚された美少女メタル戦士」を演じさせられてきた。そんな荒唐無稽なものを、本場のメタルファンを納得させるレベルまで演じきれるように、過酷なレッスンとライブツアーに明け暮れた。
『別冊カドカワNo.830』で初めて明かされたように、海外ツアーが始まってからも、3人は密かに真昼間の公園で、野外ライブの通し練習をやっていたのだ。
つまり、BABYMETALは、リアリティを感じさせるプロなのである。
そのレベルは、中国贔屓だとか、レイシストだとか、相手を罵り合う大統領候補者たちのはるか上である。だって、「キツネ様」だぞ。「メタル戦士」だぞ。それに成りきり、リアリティを感じさせるまでの演技力を小っちゃい頃から要求されてきたんだぞ。年季が違うのだ。
さらにいえば、BABYMETALがほとんどテレビに出ず、ライブ活動を中心にしたことがリアリティに拍車をかけた。なぜなら、リアリティを失ったテレビに出れば出るほど、「プロモーション」=出来レースであることがわかってしまうからだ。
結論。
BABYMETALのリアリティを支えているものは、リアリティの競合という事態をあらかじめ想定し、テレビではなく、ライブで、荒唐無稽な設定に圧倒的なリアリティを感じさせるまで、過酷な修練を積み重ねたというリアル=事実である。
(つづく)