リアリティの条件(3) | 私、BABYMETALの味方です。

私、BABYMETALの味方です。

アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ
本日11月23日は、2013年、メタリカの映画『スルー・ザ・ネヴァー』のトークイベント@109シネマズ木場に出演した日DEATH。

11月19日、都内にて「MTV Video Music Awards Japan」の授賞式とライブ(無観客)が行われ、BABYMETALの『METAL GALAXY』が、最優秀アルバム賞に輝いた。

BABYMETALのMTV Video Music Awards Japan 受賞は、2015年の「最優秀メタルアーティスト賞」、2016年の「最優秀邦楽アルバム賞」「最優秀メタルビデオ賞」以来で、MTV Europe Music Awards では、2017年に「Best Worldwide Act」を受賞している。
なお、2020年度の最優秀ビデオ賞および最優秀邦楽女性アーティストビデオ賞は、あいみょん「裸の心」で、最優秀邦楽男性アーティストビデオ賞は、米津玄師「感電」、最優秀邦楽グループビデオ賞は、Official髭男dism「I LOVE…」だった。
同日行われたライブのMCはBiSHで、BABYMETALは、炎の燃え盛る映像をバックに「PAPAYA!!(feat. F.HERO)」を披露した。

BABYMETALの他、最優秀ダンスビデオ賞のNiziUが「Make you happy」を、最優秀振付け賞の日向坂46が「アザトカワイイ」「青春の馬」の2曲をパフォーマンスした。
「MTV VMAJ 2020 -THE LIVE-」の模様は、Huluで、11月29日(日)20:00-22:30に初回放送され、12月3日(木)18:30-21:00、12月12日(土)19:00-21:30、12月27日(日)18:00-20:30に再放送予定となっている。

もし、BABYMETALが「キツネ様」というギミックを使わず、ストレートなメタルバンドを志向していたらどうなったか。
飛び抜けて歌の上手い小学生少女演歌歌手を考えればわかる。
初めのうちは「すごいすごい」と持てはやされるが、結局、世間にとって、彼女の歌唱力は「小学生だから」評価されるのであって、大人になってしまったら、「普通の演歌歌手」あるいは「元天才少女歌手」になってしまう。
実際には、大人になった彼女の歌唱力は小学生の頃から相当進歩しているかもしれない。だが、大人のプロ演歌歌手の歌が上手いのは「当たり前」になってしまうのだ。
唯一の例外は、生涯「お嬢」と呼ばれた美空ひばりであり、その再来と言われた小林幸子も、大人になって不遇時代のド根性オーラをまとい、「思い出酒」の大ヒットと、紅白歌合戦でのド派手な衣装で世間の耳目を引くまでは、トップ歌手とはみなされなかった。
BABYMETALの場合、まだ幼い少女たちによる全力メタル表現は、「メタルの神キツネ様に召喚された」「神が降臨しているからステージ上の記憶がない」と言い張ることによって、逆に、「ワケのわからないことを言っているヘンテコなアイドルだが、楽曲はメタルだし、歌やダンスはマジで上手い」という評価を得ることになった。


2013年以降、常時帯同することになった白塗りをした正体不明のバックバンド=神バンドも、実は音楽専門学校の講師も務める腕利きサポートミュージシャンたちであり、YUI・MOAがまだ中学3年生だった2014年のBack to the US Tourで、米ビルボード誌は「バックバンドが恐ろしいほど上手い」と評した。
BABYMETALの「凄さ」は、「キツネ様」というギミックでワンクッションおくことによって、かえってリアリティを帯びることになったのだ。

まあ、それを意識的にやったというより、結成当時のBABYMETALは笑っちゃうほどKawaiく、小っちゃな小中学生だったので、ストレートなメタルバンドを名乗れるはずもなかったから、苦肉の策としてギミックをまとったというのが真相かもしれない。
だが、この連載の第1回で書いたように、リアルとリアリティは違う。そして、世間が求めるのはリアルではなく、リアリティである。
さらに言うなら、リアリティは「神話」によって担保される。
アメリカの宗教学者ジョーゼフ・キャンベルは、ジャーナリストのビル・モイヤーズとの対談『神話の力』(飛田茂雄訳、ハヤカワ・ノンフィクション文庫)の中で、「神話というのは詩魂の故郷であり、芸術に霊感を与え、詩を鼓吹するものだと思います。人生を一篇の詩と観じ、自己をその詩の参与者と見なすこと。それが私たちにとっての神話の機能です。」(P.133)と言っている。
キャンベルは著名な宗教学者で、世界各地の宗教や神話の比較研究の第一人者である。この対談は1985年~1986年にかけて行われたもので、キャンベルは1987年に83歳で没しているから、最晩年の発言ということになる。
「人生を一篇の詩と観じ、自己をその詩の参与者と見なすこと」とは、自分の人生や世界の意味を、その人生や世界を生きながら見出していくということだろう。
そして、芸術とは、その「意味」の発露なのだ。
同じ章で、キャンベルは「あらゆる宗教は何らかの意味で真実です。隠喩として理解した場合には真実なのです。ところがそれ自体の隠喩にこだわりすぎて、隠喩を真実として解釈してしまうと動きが取れなくなってしまいます。」(P.136)とも述べている。
隠喩とは、たとえ話ということだ。
そして、十字架にかけられて死に、三日目に復活して弟子たちの前に現れた後、昇天したとされるイエスを例にとり、「宇宙のどこにも天国という物理的な場所はないことを私たちは知っています。イエスが仮に光の速度で昇っていったとしても、まだ銀河系のどこかにおられるはずです。天文学と物理学は文字どおり物理的な天国が存在するという可能性をきれいさっぱり排除した。しかし、“イエスは昇天された”を隠喩的内包において解釈するならば、イエスが内面に向かわれたことを理解することができます。」(P.137)と述べて、キリスト教原理主義的な価値観を排し、現代における宗教の意味を救い出している。
つまりこういうことだ。
キャンベルによれば、あらゆる宗教における神は、「言葉を超越したもの」とされている。
「神」という概念は、言葉がなければものごとを理解できない人間がそう名づけたものに過ぎず、本当の神は、この言葉をはるかに超えた何かである。
人間は、善と悪、自然と人間、過去と未来、男と女、上と下、左と右といった二項対立の中でしかものごとを考えられないが、よく考えてみると、ぼくらを取り巻く世界は、それらが混然一体となったものだ。
「言葉」によって考え始めた途端、二項対立のスケールの中で、自分の位置を定めずにはいられないのが人間の性だが、本当はそんなスケールなど存在しない。
本当の世界は、「言葉」によって整理できない混沌である。
それをかろうじて表現しているのが「言葉を超えた神」という概念であり、「神」とは、人間が「言葉」によっては決して理解できない混沌の世界そのもののことなのだ。
そして、ぼく/あなたという個々の存在は、その混沌の中から、様々な偶然―父母の出会い、その父母の出会い、そのまた父母の出会い…が重なって生まれたということもまた、真実である。
「言葉を超越した神が世界を創造した」とは、そういう諸々のことどもの隠喩なのである。
聖書、ラーマヤーナ、サーガ、古事記といった各国の神話もまた、それぞれの民族や社会の歴史に準じて、混沌の世界を説明するために、物語として創られた隠喩である。
神話の隠喩を、自分がなぜ生まれてきたのかということや、世界とは何かを理解する手立てとすることによって、人間は生きる意味を見出す。
食べて、寝て、子どもを産めば終わり、では動物と同じだ。
まこと、人はパンのみにて生きるわけではない。
クロマニヨン人以来、ホモ・サピエンスという種は、自分の人生や世界に「意味」を見出す内面への旅を続けてきた。「普遍文法」や「普遍音楽文法」とともに、人類は「生きる意味」を生涯かけて探索するように進化し、あるいは創られたのだ。
そして数万年前から現代まで、身体の構造や機能は変わっていない。
だから、現代においても、人々は多忙な日常を送りながら「生きる意味」を探し続けている。
宗教や神話は、聖典に書かれたことを事実だと解釈してしまえば、科学的事実とは異なる古臭い迷信、ぼくらを縛る錆びついた道徳の鎖になってしまう。だが、それを隠喩ととらえるなら、先人たちが見出した「人間が生きる意味」を追体験し、確信を持って、生き生きと生きるための道しるべになり得る。

たとえばイエスは物理的な天国へ行ったのではなく、神を宿した人間として、人生の目的を全うし、内面の完成へと向かったのだ。その物語を愛する人は、それを手本にして生きればいい。なぜなら、あなたの中にも神はいるのだから…。
キャンベルは、おそらくこういうことを言っているのだと思う。
隠喩としての神話は、フィクションとは違う。
だが、良質なフィクションには、人生の意味や人間の本質に迫る神話的な隠喩が含まれることもある。
というより、そこに人生の意味や人間性の本質が表現されていることが、フィクションや芸術の価値なのだと思う。
そして、その価値こそ、リアリティ=真実らしさということなのだ。
メタルの神キツネ様によって召喚されたKawaii少女たちが、「メタルで再び世界をひとつにする」ためにBABYMETALと名乗り、全力パフォーマンスによって人々の心を励まし、感動させていく。その「世界征服」の戦いの隊列に、君も、日常生活で錆びついた鎖を断ち切って、加わってほしい…。
せんじ詰めれば、それだけの「神話」なのだが、様々な奇跡が重なることによって、そこに真実らしさ=リアリティを感じたファンは増えていった。


たとえば、KOBAMETALがメロイックサインを教えた際、幼い3人が「影絵のキツネさん」と思い込んだという勘違いによって、キツネサインが生まれ、メタルの守護神「キツネ様」が誕生したというのだが、キツネ様=お稲荷さんは、日本神話でいう宇迦之御霊であり、伝統的に「三狐」(みけつ)=三匹のキツネと呼ばれていたのは、偶然にも3人組のBABYMETALに合致していた。
宇迦之御霊は、神話の系譜上、荒ぶる神素戔嗚命の娘だが、母は大市比売=日本最古の「歌と舞踏の女神」アメノウズメであり、再婚後の義理の父猿田彦命は、「芸能と道案内の神」であった。三狐と大市比売と猿田彦の関係性は、BABYMETALとMIKIKO師とKOBAMETALを思わせる。

2012年1月に収録されたKawaii Girl Japanで、3人は「カワイイ、ガール、ジャパン…ジャパン…ジャパン…」と画面から捌けていくのだが、そのとき、3人がとっているポーズは、なぜかほぼ2年後の2013年12月に初披露された「ギミチョコ!!」ポーズであり、2014年3月の日本武道館「黒い夜」で、ヨーロッパへ旅立つ時に流れた英語のアナウンス、「BABYMETAL、Goddbye to Japan…Japan…Japan…」と同じだった。

2015年12月13日のライブ終演後、2ndアルバム『METAL RESISTANCE』のリリースが発表され、その年の大規模国内ライブ、新春キツネ祭り@SSA、巨大天下一武道会@幕張メッセ、The Final Chapter of Trilogy@横アリの3点を結ぶ巨大な三角形の中心に位置する東京ドームで、2016年のファイナル公演を行うという発表が行われた。その場にいた観客は、偶然にしてはあまりにも奇跡的でドラマチックな事実に鳥肌が立った。
2017年9月27日、巨大キツネ祭り@SSA2日目の終演後「紙芝居」で、12月に行われるLEGEND-S-洗礼の儀~SU-METAL聖誕祭@広島県立総合体育館グリーンアリーナが発表されたが、その日は46年前の1971年に初来日したレッドツェッペリンが、同じ広島県立総合体育館で原爆被災者のためのチャリティコンサートを行った日だった。
以降、広島は西城秀樹、矢沢永吉、吉田拓郎、世良公則、デーモン閣下、奥田民生、吉川晃司ら、ロック色の強いアーティストを輩出する。中元すず香をアミューズに導いたASHには先輩のPerfume、同じ時期をすごした仲間には、元モーニング娘。のエースで、新生BABYMETALのアベンジャーを務めた鞘師里保もいた。
JR広島駅と原爆ドーム/グリーンアリーナを結ぶ広電稲荷町駅前には、原爆に耐えたコンクリート製の「被爆お守り狐」のある稲生神社があった。


2017年12月2-3日に行われたLEGEND-S-の直前、広島原爆公演にある会議場で、国連の核軍縮国際会議が行われたが、それに合わせたかのように北朝鮮が核搭載可能な弾道ミサイル実験を行った。そんな中、世界中からのべ2万人近いファンが広島に集まり、ライブ前に原爆ドームや資料館を見学し、核兵器の恐ろしさを改めて学び、黒い雨と虹の物語=「No Rain No Rainbow」を聴いた。
この偶然の連鎖は、時空を超えて「被爆お守り狐」が導いたとしか思えなかった。
2019年7月6-7日に行われたLEGEND-M-は、MOAMETALが自分のダンスを見つめ直して、ステージ上のYUIMETALのキャラクターをも兼ね備えた「二人の女神」体制になり、「Shine」を初披露したライブだったが、会場のPMなごやは、伊勢湾をぐるりと回って、伊勢神宮へとつながる伊勢湾岸道の直下にあった。
伊勢神宮は、ご存じの通り、内宮=天照大神と、外宮=豊受大神の「二人の女神」からなる日本神道の総本山である。MOAの地元で行われる20歳の聖誕祭に、BABYMETALが「三狐」から「二人の女神」になり、それを象徴するように伊勢神宮に向かう道のそばでライブが行われることを誰が予想できただろう。
このように、勘違いで「キツネ様」が誕生したという経緯では説明できないほど、BABYMETAL神話には奇跡的な偶然がついて回る。
そうしたもろもろの奇跡が、小神様こと藤岡幹大氏の逝去や、YUIMETALの脱退といった苦境を乗り切り、SU-METALの圧倒的な歌唱力と進化したMOAMETALの豊かなダンス表現力に、「すべてはキツネ様のお導きである」という時空を超えた「意味」を与え、「凄い!」としかいえないリアリティを付与しているのがBABYMETALである。
リアルな現実の指導者たちの醜い実態や失政に幻滅しつつも、各国の共産党が命脈を保てたのは、「必要に応じて働き、必要に応じて受け取る」「万人がみな平等」という「共産主義神話」を信奉する人々がいたからであるが、そんな幻想を持たない大多数のリアリストは、共産主義には一かけらの真実らしさ=リアリティも感じられない。

だが、BABYMETALにあっては、生身のSU-METAL、MOAMETALの過酷な努力の実態=リアルが、「メタルで世界をひとつにする時空を超えた戦士」というBABYMETAL神話と完全に一致している。

だから、BABYMETALの「凄さ」のリアリティは、彼女たちのリアルな生身の歴史を知れば知るほど増していく。

そしてBABYMETAL神話は、日常に対する非日常、予定調和への反逆、”いい子ちゃん”の自立、絶望からの脱却といったロック/メタルの価値観の隠喩であり、ライブ会場でそれを体感することによって、ぼくらが人生を生きる意味や、この世界の実相を知る道しるべとなっている。

ぼく自身、思うように生きられなかったダメ人生を一篇の詩と観じたとき、その終盤に現れたBABYMETALを道しるべとして、その神話の参与者となった。それがこのブログである。

だから、この長ったらしい文章を読んでくれたあなたとぼくは、一期一会ではあっても、こうしてつながることができた。ありがとう、BABYMETAL。
(つづく)