リアリティの条件(1) | 私、BABYMETALの味方です。

私、BABYMETALの味方です。

アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ
本日11月21日は、2019年、MGWT in Japan@大阪城ホール二日目が行われた日DEATH。

唯物論者には思いがけないことだろうが、リアルとリアリティは違うし、リアリティは神話によって支えられている。
初めに言っておくが、「思いがけないことだろうが」という書き出しを、ぼくは不条理劇作家別役実のエッセイから学んだ。
また、リアルとリアリティが違うということは、このブログのタイトルの原点である『私、プロレスの味方です』シリーズの作家、村松具視から学んだ。
いずれもぼくが10代後半~20代前半だから、40年以上前である。
そして、リアリティには神話が不可欠だということは、アメリカの宗教学者ジョーゼフ・キャンベル(『線の顔を持つ英雄』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)、『神話の力』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)など)とBABYMETALから、ここ数年学んだことである。
共産主義=マルクス主義とは、「神など存在しない」「すべては実証可能な物理法則でできている」という唯物論に立脚し、「自然に働きかけて価値を産み出す労働者」の指導部である共産党が、私有財産を認めず、生み出された富を共有するために、資本家=ブルジョワ階級を打倒して独裁的・計画的に政治を行うのが正しいとする政治思想である。
一般的に、真実らしさ=リアリティとは、リアル=現実に付随するものだと考えられており、マルクス主義者たちも、そう思っていただろう。
ところが、現実の共産主義政党の指導者たち、マルクス自身にしろ、レーニンにしろ、スターリンにしろ、毛沢東にしろ、ポルポトにしろ、悪い意味で人間臭い存在であり、手段を選ばず政敵を蹴落とし、党内での権力闘争に血道をあげ、権力維持とメンツのためには、人民を塗炭の苦しみに追いやっても平然としているという非情な性格であった。
そこで共産主義の正しさ=リアリティを担保していたものは、リアルな指導者たちの実態や政策ではなく、「必要に応じて働き、必要に応じて受け取る」「万人の完全な平等」という、現実とはほど遠い理想=神話に他ならなかった。
リアルとリアリティの違いを、サブカルチャーの枠組みの中で説明したのは、1970~80年代の新日本プロレス=アントニオ猪木のプロレスを称揚した『私、プロレスの味方です』シリーズのエッセイで一世を風靡した作家、村松具視である。


プロレスに詳しくない方のためにちょっとだけ解説すると、当時、アントニオ猪木はカール・ゴッチ直伝の関節技をベースに「ストロングスタイル」というコンセプトを掲げ、「誰の挑戦でも受ける」と豪語し、日本プロレス時代にライバルだった全日本プロレスのジャイアント馬場のプロレスを、筋書があらかじめ決まっている派手なショー的プロレス=「ショーマンスタイル」と呼んで挑発した。
これに対して栃内良が『馬場派プロレス宣言』というジャイアント馬場擁護論を展開し、プロレス言説は多数の猪木派と少数の馬場派に分かれた。
しかし、実際には新日本プロレス=アントニオ猪木のプロレスも、試合のストーリーがあらかじめ決まっている中で、レスラーのアドリブ性に重きが置かれているというだけであり、相撲や柔道やボクシングのようなルール内での競い合いでも、ましてや喧嘩のような果し合い=セメントマッチでもなかった。テレビ朝日の『ワールドプロレスリング』という番組の枠内であった以上、今考えれば、それは当然であった。
ただし、アントニオ猪木のプロレスは、自分の体力や技量を鍛え上げ、「相手の力が7ならば、それを9に“見せ”、10の力で仕留めて“見せる”」というところに真髄があった。
アントニオ猪木は、相手に攻め込まれているときの苦痛を耐える表情や「もうダメだ」という絶望感の演技が抜群であり、それが試合の最終盤に「バカヤロ、コノヤロ」と怒り、一瞬のスキをついて巧みなスタンドの関節技で勝つというドラマのような構成力を持っていた。こうすれば、相手の「実力」にも傷がつかず、次の試合への「因縁」も継続する。
だが、こういう芸当=横綱相撲をやって“見せる”には、相手との技量の差が相当離れていなければならない。そのためにこそ、新日本プロレスでは若手のうちから過酷なトレーニングが行われ、所属レスラーはみな逆三角形の見事な体型をしていた。
その一番弟子で、やられて“見せ”て最後に勝つという猪木プロレスを継承し、変幻自在の攻防で相手レスラーとの「名勝負数え歌」を作り上げたのが藤波辰爾だった。
つまり、アントニオ猪木は、リアルに強いだけでなく、観客に「猪木は強い」というリアリティを感じさせる天才だったのだ。スポーツでもないプロレスを「King of Sports」と呼ぶ猪木イズムとは、「プロレス的」といえば胡散臭い八百長そのものを意味していた当時のプロレスにおける「リアリティの作り方」のことだったのだ。
村松具視は、リアリティを感じさせる猪木プロレスを「過激なプロレス」と名づけた。
そして、ぼくの考えでは、村松具視はプロレスを語っているようで、実は当時の日本社会の政治的リアルと、社会の理想=リアリティの乖離を語っていた。その意味で、『私、プロレスの味方です』の冒頭が、新日本プロレスと全日本プロレスが旗揚げされた1972年に起こった赤軍派による浅間山荘事件から始まるのは、実に象徴的である。
その後、彗星の如く現れて1年ほどで辞めてしまった初代タイガーマスク=佐山サトルが『ケーフェイ』(“フェイク”=八百長の隠語)という本を出版したり、前田日明をトップレスラーとするユニバーサル・プロレス、のちのUWFが、より格闘技的な関節技や蹴り技で「プロレスには付き合わない」ことによって新たなリアリティを感じさせたり、長州力が「ストロングスタイル」の枠内でも感情と技のテンポアップで「ハイスパートレスリング」を行ったりすると、アントニオ猪木や、一番弟子の藤波辰爾の個人技ともいうべき「やられっぷりの美学」は、リアリティを失っていった。
UWF→リングス、バーリ・トゥード、UFC、K1へつながる格闘技ブームとは、どうしても胡散臭い「猪木的リアリティ」を排除し、厳密なルールによって本当のリアルを追求するムーヴメントだったとぼくは見ている。しかし、そのことによって、試合はボクシングのように相手の得意技を封じる攻防となり、スリリングではあっても「プロレス的」なストーリー性はなくなった。
一方、プロレスは、大仁田厚の鉄条網電流爆破の痛みのリアリティや、天龍源一郎による体力勝負のリアリティが一時人気を集めたが、やがて様々な団体に四部五裂した。
現在、老舗となった新日本プロレスは、プロレスが、かつて業務提携していたWWF=現在のWWEのような「ショー」であることを肯定しつつ、1980年代には初代タイガーマスクがやっていたような驚異的な跳躍力や派手な技の連続で、「あれは、常人にはできないよなあ」という新たなリアリティを獲得するに至っている。そして、今やBABYMETALが所属するアミューズと業務提携している。
それはともかく、ぼくは、リアルとリアリティが全くの別モノであるということを、プロレス史によって理解したわけだ。


リアルはリアルだ。リアリティなんてあいまいなものは必要ない、とおっしゃる向きもあるだろう。
だが、社会が生身の人間一人ひとりからできている限り、重要なのはリアリティの方なのであって、リアルがちょっとでも傷ついてしまえば、たちまちリアリティが失われるという構造に気づかぬ限り、唯物論者が多数派を形成することはできないだろう。
別の言い方をすれば、いくら速弾きができたからといって、人の心を動かす人気ギタリストになれるわけでないのと同じだ。「イジメ、ダメ、ゼッタイ」のツインギターソロは、YUI・MOAの偽闘にSU-が割って入り、高い前蹴りで「調停」した瞬間に、下降クリシェから上昇へ転じるから尊いのだ。
ここから、いよいよ再び動き出したBABYMETALの、ぼくらが素直に凄い!と思えるリアリティは、何によって支えられているのかを考察してみようと思う。
(つづく)