BABYMETALの哲学(4) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ
本日10月23日は、2011年、さくら学院祭2011で「ド・キ・ド・キ☆モーニング」が披露され、2018年にはWorld Tour 2018 in Japan@幕張メッセイベントホール初日が行われた日DEATH。

KOBAMETALが、新しいアイドル像=新しいメタル像を追求しつつ、「人との繋がり」を大切にしながら欧米でのライブツアーを組み立てていった2015年、SU-METALとMOAMETALは文字通り手さぐりで「BABYMETALのライブ」を作っていったことが、『別冊カドカワNo.830』で語られている。
「それなりに海外でのライヴがどんなものなのか理解してるつもりでしたけど、戸惑うこともたくさんありましたね。会場内の厚さが尋常じゃなかったり、音響や照明がリハーサルと全然違うことになっていたりとか。毎回ひやひやドキドキしながらライヴをやっていたことは覚えています。初めての国や土地はお客さんとも初めましてだから状況が推測できなくて、そもそもメタルを知ってる人たちかどうかもわからないし(笑)。(中略)だから、ステージから捌けるたびに3人で、「今日のお客さんはこんな感じ?」みたいなことを言い合って、どうすべきかを話したうえで、ライヴ中もお互いアイコンタクトをとりながら、「ここはこういう風に行こう」みたいに何となくやり取りしてつくっていったんです。」(SU-METAL、同書P.50)
「たとえば、メキシコは標高が高くて、かなり酸素が薄かったんですよね。実際にステージに立ってみると木製の床が傷んでいるような所があったり、日本では全然考えられない環境がそこにはあって。外国に行けるだけでうれしいっていう話ではなくなっていて、いろんな状況の中で最善を尽くすということは大変だなと感じていました。』(MOAMETAL、同書p55)


さくら学院時代からの古参メイト、インターネットやNHK『BABYMETAL現象』でBABYMETALを知ったNHK新規世代のメイトは、従来のアイドルの枠をはるかに超えたBABYMETALのワールドツアーに喝采を送っていたが、実際には、海外ライブツアーは過酷な環境との戦いだった。
それだけでなく、この時期には3人の身体が急激に成長し、子ども時代の全力パフォーマンスを見直す必要も生じていた。
当ブログの「10年のキセキ」連載では、2015年5月の高地メキシコシティで体力をセーブすることを覚えたことと、身長が大きくなったためにダンスのバランスが崩れ、カナダのトロント、アメリカ第三の都市シカゴ、Rock on the Rangeへと向かう中で、「跳べない身体」問題が起こったことを記述している。
『別冊カドカワ』ではそのあたりのことを振付のMIKIKO師が語っている。
「目の前でどんどんお客さんの数も増えていって、そこから受ける圧が変わってきたのと比例して、3人の身体から出る音もどんどん大きくなっていきました。それは成長期ならではの素直さというか、目の前で起きる出来事に身体がしっかりと反応していったから、3人も気が付かないうちに大きな会場に耐えうる身体になっていったんだと思います。(中略)ただ会場が大きくなるとステージを走る距離も長くなるから、その分体力を付ける必要がある。身体の面で言うと、身体がすごく成長する時期にBABYMETALを通過しているわけなんです。背の高さも筋肉の付き方もどんどん変わってきて、女の子から女性に変わっていく時期ですよね。身体の使い方を一度リセットしないと痛めてしまうような動きも多かったので、途中からもう一度身体について学び直そうということで、改めてプロとしてやっていくための身体づくりに真摯に向き合った時期でもありました。(中略)まさにアスリート並みのトレーニングをしていました。」(MIKIKOMETAL、同書P.199-200)
日本のMETROCK TOKYO@新木場若洲公園で、史上最大のサークルモッシュを生んだ後、ドイツ・ミュンヘンRockavaria、ゲルゼンキルヒェンRock im Revier、フランス・ストラスブール、スイス・チューリヒ、イタリア・ボローニャと回った2015年のヨーロッパツアーは、「ホネトーーク!」でUME-METAL、DAICHANG-METALが語っていたように過密スケジュールで、観客として追っかけていくだけでも大変だったのに、3人と神バンド、スタッフは連日のステージをこなした。
野外フェスは出番次第で、昼ステージだと強烈な日差しにさらされるが、室内公演でも、例えばイタリア・ボローニャ公演は、田舎の公民館のような場所で、空調も効かず、ぎゅうぎゅう詰めの観客と、機材・照明が発する熱で、室内温度は40℃近くまで上昇した。


どんなに体調が悪くても、BABYMETALを心待ちにしている観客の前に出ていかねばならない。ライブツアーをスケジュールしたのはKOBAMETALだが、それを実現したのは幼い3人のメンバーだった。
しかも、この時期にはライヴのない期間でも、公園で自主練習していたというから驚きである。
「この時期は確かに輪が広がっていた時期で、同時にライヴも増えていったので体力を付けなきゃいけないと思って、ツアーとツアーの合間に公園に行って、そこで自主的にリハーサルをよくしてました。今じゃ考えられないですけど、海外だけじゃなく、日本でも3人揃って公園で練習してたんです。屋外と屋内の環境は全然違うから、直射日光を浴びながら踊るのはどういう環境なのかとかを勉強するために、ライヴ一本分を外で踊って、帰ってきてから修正するっていうことを繰り返してました。」(MOAMETAL、同書P.56)
過酷なライブツアーでの楽しみは、食事だったようだ。
「この年は、日本各地のZeppを回ったツアーがあって。全国の美味しいものが食べられたりして、本当うに幸せだったなということと(笑)、私たちがまだ知られていない土地もあったので、もっともっといろんな地域の方のところに会いに行くべきだなって思いました。こういう形のライヴは是非またやりたいですね。」(SU-METAL、同書P.50)
「写真を見返したら、2014年のツアーと比べて、2015年のツアーの時のほうがゴハンの写真が多かったです(笑)。メキシコで10枚くらい似た写真があって、それが生絞りのオレンジジュースの写真で、相当美味しかったんでしょうね。その辺りから、海外に行くと食事からも文化を学ぼうっていうところが出てきたのかな…私は食事担当なので(笑)、いつも食事から文化を学んでいます。」(MOAMETAL、同書P.55)
さらに重要なことは、この時期にBABYMETALは、欧米のフェスで出会った大物バンドと「ずっ友写真」を撮りまくり、「メタル界のアイドル」になっていったことだ。
「バックヤードのケータリングの場所とかでかなり目立つんですよ、私たちって。メタルフェスで小っちゃい女の子たちがウロウロしてるってことが殆どないですからね。「メタルやってるの?」「君たちパフォーマーなの?」みたいなことを訊かれて、「そうだよ、何時からのステージだから、よかったら観てね」という感じで話したりするんですけど。中には振り付けが面白いねって言ってきて、「こんなやつだろ?」って真似してきたりとか(笑)。フェスに参加するといろんな人たちとの出逢いがたくさんあって、さらにそこから輪が広がっていくんだなってことは身に染みて感じているので。」(SU-METAL、同書P.47)
「2015年のワールドツアーの話だと、5月にロック・オン・ザ・レンジ」というフェスに出て、ここでジューダスさんに初めて会って、一緒に写真を撮ってもらったのが印象に残ってますね。「あれがメタル界で有名なジューダス・プリーストか!」と驚いてました。あとは、6月の「KERRANG!AWARDS」で会ったブリング・ミー・ザ・ホライズンさんが、8月のレディング&リーズフェスティバルの時にライヴを観に来てくれて、急にメタル界に友達ができた瞬間でしたね。一度会ったら友達ですから。」(MOAMETAL、同書P.56)


過酷なスケジュールと、日本では考えられない環境。さらに急激に大きくなっていく身体との戦い。
それを「アスリート並み」のフィジカル・トレーニングと、自主練習までして体力をつけようとする根性で乗り越え、ライブ会場の土地のごとの美味しい食事に楽しみを見つけ、メタル界の大物バンドと友達の輪を広げていく。
過酷な状況だったからこそ、幼かったBABYMETALがどんどん強くなり、プロフェッショナルとして大きく成長していったことが言葉の端々から感じられる。
この時期、地上波テレビでも、BABYMETALの海外ツアーや、国内での大規模凱旋ライブの模様が報道されていた。日本のメイトは、それ以前にSNSにアップされた大物バンドとの「ずっ友写真」や、ファンカム映像、ネット動画でBABYMETALが海外で活躍していることを知っており、国内ライブには実際に参加していたが、その実情がここまで詳細に語られることはなかった。
『別冊カドカワNo.830』によって、10年にわたるBABYMETALのレジェンドが、どんどん立体感を帯び、リアリティを増している。
(つづく)