BABYMETALの哲学(3) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ
本日10月22日は、過去BABYMETAL関連で大きなイベントのなかった日DEATH。

2000年代に、つんく♂や秋元康によって確立された多人数の「アイドル」というフォーマットを踏襲せず、1980~90年代のJ-POPと、自分が好きなメタル、それも特定のサブジャンルでなく、ラップメタルやミクスチャーを含めたメタル全般を「融合」して新しいアイドル像を作る―。
このアイデアを体現したのがBABYMETALである。
ある職場に配属されたとき、先輩の仕事のしきたりをあくまでも遵守しようとする人と、それまでのやり方の欠点を修正し、新しい仕事のスタイルを作ろうとする人の2種類がいる。後者の場合、新しい仕事のスタイルとは、前職であったり、他業種だったりすることが多い。
ぼくが勝手に想像するに、アミューズ社内の異動でバラエティ班に配属され、“卒業”ありきの「成長期限定ユニット」という2000年代アイドル標準仕様だったさくら学院の担当プロデューサーでありながら、既存のアイドルの枠を超えたBABYMETALを育て上げたKOBAMETALは、いうなれば後者の典型だったのではないか。
ぼく自身も、若い頃は「ニッチを見つけ、新しい業態を作らなければ仕事とは言えない」と考えていたが、還暦を過ぎて振り返ると、業界の先輩の仕事の手順をあくまでも守ろうとしていた人もまた、渋い「仕事人」のダンディズムだったと思うし、若い頃反発した古いやり方も、実は歴代の先輩が少しずつ変えてきた経験値の集合だったのだということもわかってくる。
古いやり方と、新しいアイデアをどう融合させるかということは、何が仕事の本質なのかを見極めることであり、生き方とか人生とかにも関わってくる、一種の哲学である。
BABYMETALは、さくら学院重音部として結成された2010年~インディーズデビューした2012年においては、アイドル最年少の3人組、メタル楽曲、キツネ様のギミック、ヘドバン養成コルセット、「紙芝居」によるメタル歌劇、Xジャンプといった型破りの“イロモノアイドル”だった。


だが、国内ロックフェスを席巻した2013年~日本武道館、1stアルバム『BABYMETAL』のリリース、海外進出の2014年~国内大規模ライブTRILOGYと二度目のワールドツアーを行った2015年にかけて、アイドルとしては型破りでも、世界で活躍するロックバンドとしてはきわめて正当な手順を踏んでいる。
『別冊カドカワNo.830』(以下、同書)には、日本武道館と1stアルバム『BABYMETAL』のリリース、海外進出がバタバタと決まっていく際の様子が生々しく語られている。
「おそらく武道館を決めたのが先でしたね。スケジュールが取れたのが3月の頭(Jaytc註:2013年3月か)で、その週の水曜日にアルバムのリリース日を設定して、逆算して作っていきました。」(KOBAMETAL、同書P.57)
「アルバムのキャッチコピーがファーストにしてベストアルバム」だったんですよ。まさに「ド・キ・ド・キ☆モーニング」「いいね!」「ヘドバンギャー!!!」「イジメ、ダメ、ゼッタイ」「メギツネ」という、その時点で半分以上がライヴのレパートリーになっている曲だったんで、ベストアルバムのような内容として考えていました。」(KOBAMETAL、同書P.58)
「「ド・キ・ド・キ☆モーニング」を出したくらいの時から、YouTubeも含めて海外からの反響が大きかったんですよね。メタルという音楽ジャンルは海外にもファンがたくさんいますし、いつかは海を越えるタイミングがあるだろうと思っていました。(中略)武道館が終わったら本格的にアメリカやヨーロッパに挑戦してみたいと考えていて。そうしたら「ギミチョコ!!」がバズって、ホームページのお問い合わせメールに海外のいろんなプロモーターから連絡が来たんです。「こんなフェスがあるので出ませんか?」とかそういう連絡を最初の頃は僕がGoogle翻訳を駆使して一生懸命対応していた感じだったんですよ。」(KOBAMETAL、同書P.58-59)
「(Jaytc註:レディ・ガガのオファーについて)最初に話が来た時は「何でBABYMETALなんだどう?」って感じでした。やっぱりアルバムが出たことで一気に広がって、いろんなところからお声がけいただいたんです。これもツアーの数か月前に話が来て、そこからスタッフを集めたりブッキングしたんで、すごく大変でした。」(KOBAMETAL、同書P.59) 


「海外からのオファーも増えていたし、ロンドンとニューヨークに関しては、早く間を空けずに来た方がいいという現地のプロモーターの意見もあったので追加公演をやりました。」「(Jaytc註:「Road of Resistance」のシンガロングパートについて)O2アカデミーブリクストンで初披露した時も、あそこのパートはライヴ当日のリハーサルでアレンジを変えたんですね。オケを止めて、無音にして、そうしたらみんながアカペラで歌ってくれて会場が一つになった。そういう演出も含めてドラマがあった。あの曲が第3章と2ndアルバムの『METAL RESISTANCE』に繋がっていく道標になった気がします。」(KOBAMETAL、同書P.60)
つまり、2013年2月のLegend “Z”で、BABYMETALが中元すず香のさくら学院卒業後も存続し、神バンドを帯同した五月革命が行われることが発表された直後に、日本武道館公演と1stアルバム『BABYMETAL』のリリースが決まっていたということであり、国内ロックフェス修業は、サマソニ2013、LOUDPARK13がメルクマールではあったが、ゴールの日本武道館は見えていたということだ。
さらに2013年12月のLegend “1997”で初披露された「ギミチョコ!!」で、海外からのオファーが殺到し、『BABYMETAL』リリース後、2014年7月からのヨーロッパ初進出、レディ・ガガの西海岸ツアー前座もバタバタと決まっていったようだ。
重要なことは、「いつかは海を越えるタイミングがあるだろう」「武道館が終わったら本格的にアメリカやヨーロッパに挑戦してみたい」と考えていたところ、オファーが来たので臆せず、スケジュールを組んで果敢にチャレンジしたということだ。
サマソニ2013大阪舞洲でラーズ・ウルリッヒと専属カメラマンロス・ハルフィンがBABYMETALのステージを見に来てくれ、その後メンバーが楽屋を訪ねて「ずっ友写真」を撮れたのは、偶然ではない。


KOBAMETALは「まさにこれも漫画みたいな体験でしたね。もちろん、チャンスだとは思っていたし、メタリカがヘッドライナーだって話を聞いたときには、クリエイティブマンさんに「BABYMETALを同じ日にお願いしたい」という話もしてました。」(同書、P.38)と語っている。
また、「ホネトーーク!」でSHIBA-METALが述べていたように、「ギミチョコ!!」の作曲をした上田剛士が所属していたTHE MAD CAPSULE MARKETSは、2000年代前半に、欧米で大ブームを起こした日本人バンドだった。
THE MAD CAPSULE MARKETS は、2001年、アルバム『OSC-DIS』をアメリカとヨーロッパでリリース、『KERRANG!』では最高ランクの「5K」を獲得し、同誌主催の「K-FEST」のトリを飾った。
2002年には、「OZZ FEST UK」のメインステージにアジア圏出身のバンドとして初めて参加、全4公演の「US SHORT TOUR」を行う。2003年には、アルバム『010』をヨーロッパにてリリースし、 オランダ全2公演、イギリス「HEAD LINER TOUR」(全10公演)を全会場ソールドアウトした。
2005年には「DOWNLOAD FES」の「OZZ FES DAY」メインステージに出演し、イギリス人観客を熱狂させている。
「ギミチョコ!!」がバズったのも、THE MAD CAPSULE MARKETSを彷彿させるハードコア曲を、三人のKawaii 日本人少女が演じ、大観衆が熱狂するライヴ映像だったからである。
「いろんなきっかけがあったんですけれど、やっぱり全てが繋がってるんだなっていうのを改めて感じました。前の年にBABYMETALがサマソニのフードコートでパフォーマンスをしなかったら、たぶんこの時メタリカと出逢えてなかったし、さらに遡るとその前に自分がパティシエの方の仕事をやってなかったら、そのチャンスもなかったかもしれない。当日のタイムスケジュールもちょうどメタリカさんのメンバーさんが観に来れるタイミングだった。夢が現実になる、想いが通じるということはあるんだなと思いました。キツネ様のお告げに導かれたんじゃないかと思いましたね。」(KOBAMETAL、同書P.38)
というように、キツネ様のお導きがあったのは間違いないが、それにしても、KOBAMETALは奇跡が起こるべく、いろんなことを仕込んでいたのである。
それは、海外のメタル界においても、結局、日本のアイドル界・芸能界と同じく、「人との繋がり」が「次の仕事」を生むという鉄則を、KOBAMETALが適切にこなしていたということでもある。
そして、世界で注目されるようになってからも、「現地のプロモーター」の意見を容れ、年末にも関わらずBack to US/UK追加公演を実施した。それがNHKの取材対象となり、『BABYMETAL現象』という番組になった。それが2016年の『BABYMETAL革命』、そして明後日放映される『Songs of Tokyo Festival 2020』出演へと繋がっている。
今、「コロナ後」の新しい働き方が模索されているが、リモートワークやデジタル化といった「新しいアイデア」が「古いやり方」を否定するだけでは何も生まれない。「古いやり方」をどう本質的に「新しいアイデア」に融合させるかが勝負なのだ。
BABYMETALは、インターネットを使ったファンベースの世界規模での拡大など、革新に見えて、実はテレビを避け、世界各国のプロモーターと交渉して、ライヴ巡業して回るという最も原初的で人間的な音楽のあり方を踏襲したことが成功のカギとなった。
その意味で、プロダクトとしてのBABYMETALの「作り方」は、ぼくらの仕事を考える上でも滋味に富んでいるといえるだろう。
(つづく)