菅義偉首相誕生 | 私、BABYMETALの味方です。

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★今日のベビメタ
本日9月16日は、2015年、World Tour 2015 in Japan@Zepp Nambaが行われた日DEATH。

2020年9月16日、日本国憲法67条の規定により、国会で首班指名選挙が行われた。
衆議院では、投票総数462票のうち、自由民主党の菅義偉氏が314票、立憲民主党の枝野幸男氏が134票、日本維新の会の片山虎之助氏が11票、無所属の中山成彬氏が2票、自由民主党の小泉進次郎氏が1票を得た。
参議院では、投票総数240票のうち、自由民主党の菅義偉氏が142票、立憲民主党の枝野幸男氏が78票、日本維新の会の片山虎之助氏が16票、国民民主党の伊藤孝恵氏が1票、白票が3票だった。
両院とも第1位となった自由民主党の菅義偉氏が首班指名され、日本国憲法6条の規定により、天皇陛下が菅義偉氏を第99代内閣総理大臣に任命した。


当ブログは、BABYMETALのファンブログのひとつではあるが、高度経済成長時代に育ち、バブル期に社会人となった世代に属するぼくが、日本人アーティストとして初めてこれだけ長期間にわたるワールドツアーを行い、世界的なファンベースを持つ存在となったBABYMETALを、一つの社会現象として、政治・経済・社会・メディア・文化などの文脈から読み解こうとする目的で書き綴っている。
2016年2月に当ブログを開設したとき、すでに第二次安倍政権発足から3年が経過しており、昨日まで変わらなかったが、今日それが変わった。そこで今日はその「意味」をぼくなりに考察してみたい。

まず、菅政権は安倍政権同様、日本国憲法で定められた正規の手続きで選ばれ、任命された政権であるということを確認しておきたい。
9月14日に行われた自由民主党の総裁選が、地方党員・党友の投票ではなく、国会議員票と地方票で争われたことについて、「国民の意見を反映していない」などという意見があるが、それは根本から間違っている。
日本は、アメリカやイギリスなどと同様、普通選挙で選ばれた国会議員が多数決でものごとを決めていく代表民主制である。上記したように、衆参両院とも、各党が首相候補者を立てて選挙を行った結果、多数を得たのは自由民主党の菅義偉氏であった。
現在の衆議院議員は2017年10月27日により行われた第48回衆議院議員総選挙で選ばれた人たちであり、参議院議員は2016年7月10日の参議院通常選挙と、2019年7月21日の参議院通常選挙で選ばれた人たちである。
その結果、衆参両院とも自由民主党と公明党が与党となっているのであり、それが自由民主党の菅義偉氏が首相に選ばれた理由である。クーデターでも、国の「上」に位置する独裁党や宗教団体の強権でもない。明らかにそれが現在の日本国民の総意なのだ。もし、安倍政権を引き継いだ菅政権が民意に反しているなら、クーデターでも起こらない限り、こんな結果にはならないはずだ。
日本は、政府がマスメディアを情報統制することもなく、自由に政権を批判できる国である。その国で、正当な選挙の結果選ばれた政権に対して、デフォルトのように非難し続けるのは基本的におかしいのではないか。もし、それが「知識人」やら「ジャーナリスト」の役割だと思っているとしたら、とんでもない誤りである。
個々の政策の検証や批判、対案提示は、よりよい政治が行われるために必要なことだ。だが対案もなく、ただただ政権そのものを攻撃するのは、法治国家の原則や民主主義そのものへの挑戦であるとぼくは思っている。
組閣された新閣僚の半数近くが再任であり、菅首相は安倍政権の政策を引き継ぐと言っているが、実際に個々の政策が妥当に行われるかどうかは、ハッキリ言って未知数である。
安倍政権が実現できなかった憲法改正や拉致問題、北方領土問題などもあるし、武漢ウイルス対策、経済復興策、対中政策の転換、東京オリンピック・大阪万博準備など、重要な課題も山積している。
だが、菅政権が正当な手続きで誕生した以上、ぼくらはそれが日本国民の総意だという基本的な信頼感や敬意をもって支持するのが当たり前ではないか。
野党やマスメディアは、安倍政権にしたのと同じように、些細で陰湿な個人攻撃をしてくるかもしれないが、そんなことで国民が政権に期待する重要な課題解決が妨げられてはならない。

ぼくが、菅新政権に望むことを一点だけあげるとすれば、アメリカの対中政策大転換=新冷戦構造の中、「戦後レジームの転換」などと大上段に構えずとも、日本という国が古来引き継いできた統治原理を、ことあるごとに国民に示してほしいということである。
『古事記』によれば、出雲の国譲りの際、天照大神の命を受けた建御雷之男神(タケミカズチ)は、須佐之男命の子孫で出雲国の領主だった大国主命に対して、「汝が領(ウシハ)ける葦原中国は、我が御子の治(シラ)す国ぞと言依(ことよさ)し給ひき。」と言ったという。


3世紀初頭の纏向遺跡から、日本各地の土器が出土することに見られるように、日本の始まり=大和王権は、大王を中心とする連合国家だった。何度使者を派遣しても従わなかった出雲地方が大和に統合されたという記憶が「国譲り」神話に反映されているとすれば、それは日本の国の統治原理を巡る対立だったと考えられる。
ポイントはここで使われている「領(ウシハ)く」、「治(シラ)す」という大和言葉である。
「領(ウシハ)く」というのは、一定の領土を王の「領」=持ち物として、独裁的に支配するという意味である。そこでは領民は王の言うままに使役される奴隷である。
一方、「治(シラ)す」というのは、「知らせる」という意味であり、中央政府が責任をもって生活に必要な情報を「知らせ」、住民がそれを共有し、共存するという統治形態を表す。
人間は一人では生きていけない。社会を形成し、役割を分担し、暮らしていく共同体が必要である。
だが、本来、そこに支配-被支配の関係は必要ない。共同体全体を守る軍隊や警察、インフラ整備、交易のルール、知財集約のための徴税や官僚機構は必要だが、それは王家の贅沢のための搾取であってはならない。
マルクスの盟友だったフリードリッヒ・エンゲルスが明治維新の16年後の1884年に出版した『家族・私有財産・国家の起源』は、マルクス主義歴史観のバイブルである。


エンゲルスは、人類社会の移り変わりについて、乏しい富を共有する「原始共産制」の部族社会から、私有財産を継承する「古代氏族共同体」が生まれ、戦争で他氏族を征服して領土を拡大し、富が増大すると、王・貴族・僧侶・平民・奴隷といった「階級」が発生し、ついには有産階級が無産階級を搾取・支配する「国家」という制度が出現したという。
しかし、これはよく言ってヨーロッパの一部や中国にしか当てはまらないし、ハッキリ言えば、革命によって、家族・私有財産・宗教・国家を消滅させ、すべての人を平等にするという共産主義のプロパガンダに則ったエンゲルスの19世紀的空想に過ぎない。歴史が証明する通り、共産主義は全体主義独裁を前提とする思想であり、共産党という支配階級が国民を搾取・支配するための壮大なウソだった。
日本では、歴史上、一度も奴隷制が敷かれたことはなかった。貴族が国民から搾取し続ける階級だったのはほんのわずかな期間でしかなかった。
『古事記』の仁徳天皇の「民の竈」の段にあるように、天皇の徳とは、民の生活を第一に考え、自らは質素な生活と五穀豊穣の祈りをすることにあった。大化の改新以降、公地公民を原則とする律令を基にした貴族=官僚機構が生まれたが、三世一身の法や墾田永年私財法によって、開墾された土地が荘園となり、貴族の私有地となった。だが、実際に土地を開墾し、管理を担っていたのは地元の下級貴族である武士だった。武士の日常生活は半農民であり、収穫を安定させ、武力を維持するためには、領民を逃散させず、「良い領主」として領民に信頼されることがエートス(倫理)となった。平安時代末期、貴族同士の争いに武士が巻き込まれるが、政治的不安定要因でしかない都の貴族は、結局武士によって駆逐され、武家政権が生まれた。
武家政権のエートスは、天皇に認められる「良い領主」たることだった。戦国時代に割拠した群雄も領地の生産力をあげ、領民の生活向上を第一とした。でなければ隣国との争いに負けてしまうからだ。その中で商品経済システムを確立し、海外貿易を導入した織豊政権が日本を統一した。
徳川幕府が成立しても、各藩は領地経営に力を入れ、「良い領主」たらんとした。海外貿易や軍事力は幕府が独占したが、国内の経済、流通、文化は江戸時代260年間に独自の発達を遂げ、明治維新の基盤となった。
明治天皇の為政方針を示した五箇条の御誓文には、「広く会議を興し、万機公論に決すべし」(みんなで話し合って、みんなで決めよう)「上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし」(身分に関係なくみんなで学ぼう)「官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す」(みんなが幸せになれる国を作ろう)とあった。「俺が一番偉いのだから従え」などということは全然書いてない。


こうした日本の歴史は、エンゲルスが空想した「歴史法則」とは全く違う。なぜか。
エンゲルスは「国王や社長は私腹を肥やすために国民や労働者を搾取する悪い奴」という幼稚な見方しかできなかった。実際には、搾取ばかりしている悪い国王や社長はすぐに国民や社員から見放されてしまう。その限りでは「革命」や「労働運動」が必要な場合もあるだろう。
だが、ほとんどの国王や社長は、自分たちの延命のためにも、国民や社員の生活を安定させ、より生産性を上げる「良い国王・社長」であろうとする。無茶な要求は撥ねつけるだろうが、それは長期的な観点に立って経営を考えているからだ。困難な時期があっても、生産性が上がり、生活が安定すれば、国民や社員は満足し、幸せな暮らしが送れる。それでいいのだ。「すべての権力をソビエトへ」「共産党が独裁しなければ国民は豊かにも平等にもなれない」などというのは、権力を独占するための壮大な詐欺に過ぎない。
「領(ウシハ)く」というのは、そういう権力の独占のことである。そのためには国民に情報を知らせず、ただただ従わせる。中国古典で理想の政治として語られる「鼓腹撃壌」「知らしめず、依らしめよ」がその典型である。
だが、そういう統治のあり方をこそ、『古事記』は武御雷神の言葉として否定したのだ。
「治(シラ)す」というのは、王が統治するという意味の他、国民自身に統治「させる」というニュアンスが含まれている。王が国民にさまざまな情報を「知らせ」、それに基づいて、国民もそれぞれの立場で役割を分担して、共に「良い統治」をするという統治原理だ。
日本歴代の天皇や地方領主たちは、常にそういうエートスを持って政治を行ってきた。
ヨーロッパが近代市民革命でたどり着いた「民主主義」という考え方は、若干ニュアンスは違うが、日本で古来、天皇以下、為政者の持つべき倫理として引き継がれてきた統治原理だったのだ。
市民革命を換骨奪胎した独裁者の思想である共産主義と、こうした日本古来の統治原理とは相いれない。
そもそも情報を統制し、「民意」=普通選挙を実施せず、少数民族の言語や文化を奪い、共産主義以外の宗教を禁じて生きたまま臓器を取り、共産党を批判した者は外国人でも逮捕するなどという発想は、「良い領主」のエートスとは真逆の、絶対にあってはならない「悪逆非道の暴君」そのものである。

菅新政権には、日本古来の統治原理を引き継ぎ、国民を「領(ウシハ)く」中国共産党政権のあり方をしっかり批判し、改善を要求するとともに、決して非道に加担することのないように必要な立法措置、政策の実行をお願いしたい。