10年のキセキ(106) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ
本日8月18日は、2013年、『Tokyo No.1 カワイイラジオ』にSU-METALが出演し、2016年には、白ミサ@Zepp Tokyoが行われた日DEATH。

2019年10月11日に全世界でリリースされたBABYMETALの3rdアルバム『METAL GALAXY』の各国チャート成績は、10月20日~26日の間に確定した。

●JP盤
オリコン10月10日付デイリーで1位、10月21日付週間ランキングでは、CDアルバム売り上げ7万3096枚で3位、デジタルアルバムでは5700ダウンロードで8位、合算アルバムでは7万9376ポイントで3位となった。
ビルボードジャパンでは、10月21日付CDアルバム・セールス・チャートが7万5508枚で3位、ダウンロード・アルバム・チャートが5757ダウンロードで8位、総合アルバム・チャートでは3位となった。

●US盤
米Billboard 200では、10月11日~10月17日集計分として、アルバム換算ユニット数2万8000(うちフィジカルCD売上2万7000枚)で13位となった。
「Rock Album Sales」および「Hard Rock Album Sales」では第1位。これはアジア人初の快挙である。
「Independent Albums」では1位、「Top Album Sales」では第2位、「World Albums」では2位だった。
全米横断ツアーのライブチケットは約7万枚売れていたが、付属のCDを入手ないしダウンロードした人は、全体の2~3割にとどまったらしい。
2016年の『Metal Resistance』の39位から大躍進し、日本人としては、Joji『Ballads1』(2018年)の3位に次ぎ、坂本九『SUKIYAKI and Other Japanese Hits』(1963年)の14位を56年ぶりに上回った。
なお、第1位は韓国出身のSuper Mのミニアルバム『Super M』で、「Billboard 200」ほか8つのチャートで1位となった。

●EU盤
イギリスのOfficial Albums Chartでは、10月20日付の「Album Chart Update」で初登場6位だったが、10月24日付の「Albums Top 100」では19位だった。前作『METL RESISTANCE』は15位だったから若干の後退である。
「Rock & Metal Albums」では1位となっており、これは日本人初である。
Album Salesでは6位、Independent Albumsでは1位、Scotish Albumsでは5位だった。 
ドイツ・オフィシャルチャートでは18位、フランスのSNEP公式チャートでは115位、スイスのシュヴァイツァー・ヒットパラーデで46位、オーストリア・アルブントップ75で30位、オランダのダッチチャートで95位、フィンランドで40位だった。


BABYMETALのコンセプトは、「アイドルとメタルの融合」であり、それを欧米でのインタビューのために英語で説明したのが「Fusion of J-POP and Heavy Metal」という言葉である。『METAL GALAXY』は欧米デビュー以来のBABYMETALらしさを一層進化させたものである。
以前も書いたが、ヘヴィメタルはスラッシュメタル、デスメタル、パワーメタル、ラップメタル、シンフォニックメタル、Djentまで多様なサブジャンルを持つ音楽ジャンルであり、一方、J-POPも、日本という国の文化がそうであるように、世界の様々な音楽を取り入れ、日本人向けに巧みにアレンジした高度な音楽性を持つジャンルである。欧米人にもわかりやすいダンスミュージック/ヒップホップ一辺倒のK-POPとは全く違う。
日本語の壁にさえぎられていたため、J-POPはいわばガラパゴス的に発展したのだが、BABYMETALは2014年の欧米デビューで、その凄みを世界に向けて初めて発信したともいえる。
1970年代まで、日本では流行歌全般を「歌謡曲」と言っていた。ただし、「歌謡曲」には、ヨナ抜きメロディやマイナー循環コード、コブシを効かせた歌唱法で伝統音楽の色濃い演歌や浪曲歌謡も含まれていたので、洋風なメロディとコード進行で、歌詞も歌手も都会的な雰囲気を持つハイカラな楽曲を、特に「ポップス」といっていた。男女問わず、いわゆるアイドルはそこから生まれた。
1970年代から1980年代にかけて、自作自演のシンガーソングライターによるフォーク/ニューミュージックが台頭した。プロ作曲家によるものか、シンガーソングライターなのかはファンには関係なく、レコード会社にとっては売れればいいので、90年代以降はニューミュージックとポップスをひっくるめて、洋楽と区別するためにJapanese Pops=J-POPと言い表すようになった。
だが、すべての日本人が知るべきなのは、アイドルを含むJ-POPというジャンルが、世界の様々な音楽を取り入れ、日本人好みにアレンジした高度な音楽性を持つようになったのは、1960年代後半から現在に至るまで、一人の天才作曲家が、独特のセンスで洋風歌謡曲を生み出し、大ヒットさせ続けたからだということである。
その人の名前は、筒美京平(以下、敬称略)。現在80歳でご健在である。


Wikipediaの記述によれば、筒美京平が作曲した楽曲の総売上枚数は7,560万2000枚(オリコン調べ)で、作曲家歴代1位。オリコンが集計を開始した1968年から約50年にわたり、ほとんどの年で作曲作品がチャートインしており、ヒットチャートランクインは500曲以上、そのうちチャート1位獲得は39曲、TOP3以内が約100曲、TOP10入りした作品は200曲を超えている。
ぼくでも一節を口ずさめる曲を挙げてみる。
1967年「バラ色の雲」ヴィレッジ・シンガーズ
1968年「マドモアゼル・ブルース」ザ・ジャガーズ
1968年「ガール・フレンド」オックス
1968年「おれは怪物くんだ」白石冬美ほか
1968年「さよならのあとで」ジャッキー吉川とブルーコメッツ
1968年「スワンの涙」オックス
1968年「ブルー・ライト・ヨコハマ」いしだあゆみ(レコード大賞・作曲賞)
1969年「サザエさん/サザエさん一家」宇野ゆう子
1970年「あなたならどうする」いしだあゆみ
1970年「雨がやんだら」朝丘雪路(レコード大賞・作曲賞)
1971年「また逢う日まで」尾崎紀世彦(レコード大賞・大賞)
1971年「さいはて慕情」渚ゆう子(レコード大賞・歌唱賞)
1971年「さらば恋人」堺正章(レコード大賞・大衆賞)
1971年「真夏の出来事」平山三紀(レコード大賞・作曲賞)
1971年「17才」南沙織(レコード大賞・新人賞)
1971年「青いリンゴ」野口五郎
1971年「お世話になりました」井上順之
1971年「潮風のメロディ」南沙織
1971年「雨のエアポート」欧陽菲菲
1971年「恋する季節」西城秀樹
1972年「純潔」南沙織
1972年「ひまわりの小径」チェリッシュ
1972年「芽ばえ」麻丘めぐみ(レコード大賞・最優秀新人賞)
1972年「男の子女の子」郷ひろみ(レコード大賞・新人賞)
1973年「赤い風船」浅田美代子(レコード大賞・新人賞)
1973年「わたしの彼は左きき」麻丘めぐみ(レコード大賞・大衆賞)
1974年「恋のインディアン人形」リンリン・ランラン
1974年「よろしく哀愁」郷ひろみ
1974年「甘い生活」野口五郎(レコード大賞・作曲賞)
1975年「にがい涙」スリー・ディグリーズ
1975年「ロマンス」岩崎宏美(レコード大賞・新人賞)
1975年「センチメンタル」岩崎宏美
1975年「木綿のハンカチーフ」太田裕美
1976年「赤いハイヒール」太田裕美
1977年「哀愁トゥナイト」桑名正博
1978年「東京ららばい」中原理恵(レコード大賞・作曲賞・新人賞)
1978年「飛んでイスタンブール」庄野真代(レコード大賞・作曲賞)
1978年「シンデレラ・ハネムーン」岩崎宏美(レコード大賞・金賞)
1978年「たそがれマイ・ラブ」大橋純子(レコード大賞・金賞)
1979年「魅せられて」ジュディ・オング(レコード大賞・大賞・金賞・作曲賞)
1979年「セクシャルバイオレットNo.1」桑名正博
1980年「スニーカーぶる〜す」近藤真彦
1980年「E気持」沖田浩之
1981年「ブルージーンズメモリー」近藤真彦(日本作曲大賞・金賞)
1981年「真っすぐララバイ」三原順子
1981年「ギンギラギンにさりげなく」近藤真彦(レコード大賞・新人賞)
1981年「センチメンタル・ジャーニー」松本伊代(レコード大賞・新人賞)
1982年「ふられてBANZAI」近藤真彦
1982年「ドラマティック・レイン」稲垣潤一
1982年「TVの国からキラキラ」松本伊代
1983年「夏色のナンシー」早見優
1983年「まっ赤な女の子」小泉今日子
1983年「シャワーな気分」田原俊彦
1983年「エスカレーション」河合奈保子(レコード大賞・金賞)
1984年「ヤマトナデシコ七変化」小泉今日子
1985年「Romanticが止まらない」C-C-B(レコード大賞・金賞、日本作曲大賞優秀作曲賞)
1985年「C」中山美穂(レコード大賞・最優秀新人賞)
1985年「卒業」斉藤由貴
1985年「あなたを・もっと・知りたくて」薬師丸ひろ子
1985年「なんてったってアイドル」小泉今日子
1985年「仮面舞踏会」少年隊(レコード大賞・最優秀新人賞)
1986年「1986年のマリリン」本田美奈子
1986年「ツイてるねノッてるね」中山美穂(レコード大賞・金賞)
1987年「さよならの果実たち」荻野目洋子
1987年「君だけに」少年隊(レコード大賞・金賞、日本作曲大賞優秀作曲賞)
1988年「抱きしめてTONIGHT」田原俊彦
1989年「ホンキをだして」酒井法子
1989年「17才」森高千里
1992年「心の鏡」SMAP
1994年「人魚」NOKKO
1994年「TENCAを取ろう! -内田の野望-」内田有紀
1995年「強い気持ち・強い愛」小沢健二
1995年「タイムマシーン」藤井フミヤ
1999年「やめないで,PURE」KinKi Kids
2003年「AMBITIOUS JAPAN!」TOKIO

「サザエさん」からTOKIOまで、40歳以上の日本人で、これらの曲を1曲も聴いたことがないという人はいないだろう。
70年代には、“新御三家”の野口五郎・西城秀樹・郷ひろみ、“新三人娘”の一角である南沙織と、同年代の麻丘めぐみ、浅田美代子。
80年代には、“たのきんトリオ”の近藤真彦・田原俊彦、少年隊、SMAP、TOKIOといったジャニーズ系男性グループアイドル、河合奈保子・小泉今日子・松本伊代・早見優・中山美穂・荻野目洋子・本田美奈子といった女性アイドルのほとんどが、筒美京平の作曲作品を歌い踊り、スターになっていった。
筒美京平の楽曲は、キャッチーなメロディとサビ、さらに歌詞の間を埋める印象的なブリッジのフレーズが特徴で、どこかナイーヴで切ない印象を与え、歌詞の心象風景がドラマティックに立ち現れてくる。
重要なことは、筒美京平の楽曲には、様々な世界の音楽的要素が時代に応じて取り入れられていることだ。
初期のヴィレッジ・シンガーズやザ・ジャガーズ、オックス、ブルーコメッツといったグループサウンズに提供した楽曲には、カレッジフォークやビートルズっぽい要素が感じられる。
尾崎紀世彦の「また逢う日まで」は、一転してサンレモ音楽祭を思わせるカンツォーネ&ウェスタン調。
「赤い風船」浅田美代子や「木綿のハンカチーフ」太田裕美は、アコースティックなフォーク調。
「青いリンゴ」野口五郎、「恋する季節」西城秀樹、「セクシャルバイオレットNo.1」桑名正博、「スニーカーぶる〜す」近藤真彦、「1986年のマリリン」本田美奈子などは、ブリッジに“泣き”のエレキギターが多用され、いわゆるロック歌謡になっている。
「恋のインディアン人形」リンリン・ランラン、「ギンギラギンにさりげなく」近藤真彦、「シンデレラ・ハネムーン」岩崎宏美、「抱きしめてTONIGHT」田原俊彦のような楽曲では、メロディはヨナ抜きのペンタトニック・スケール、リズムはディスコ調で、黒人R&Bの雰囲気になる。「天使のささやき(When will I see you again)」で世界的大ヒットを飛ばしたスリー・ディグリーズに楽曲提供した「にがい涙」もその典型だろう。
「飛んでイスタンブール」庄野真代や「魅せられて」ジュディ・オングはエスニックな香りが漂い、「ヤマトナデシコ七変化」小泉今日子や「Romanticが止まらない」C-C-Bはテクノ。「たそがれマイ・ラブ」大橋純子や「ドラマティック・レイン」稲垣潤一、「強い気持ち・強い愛」小沢健二はシティポップ。
一人の作曲家とは思えないほど、多様な音楽性が詰め込まれている。
とはいえ、それぞれの要素は“モロパクリ”ではなく、筒美京平特有のはっきりしたメロディラインに「融合」されている。フォーク調でも単純な循環コード進行ではないし、ロック調といってもヘヴィなリフやブラストビートが使われているわけではない。あくまでも歌謡曲、ポップス、アイドルソングの範疇にとどめられている。
こうした傾向は、他のJ-POP作曲家にも言えることだが、逆に言えば、筒美京平の圧倒的なヒット曲量産が、他の作曲家に「売れる曲はこうやって作るんだ」というお手本になったためといえるだろう。
ちなみに、筒美京平に次ぐ作曲家別総売り上げ枚数を記録している小室哲哉(7184万枚)、織田哲郎(4179万枚)、桑田佳祐(3893万枚)、松本孝弘(3811万枚)はいずれもバンド出身で、90年代前半=Beingブーム=織田哲郎、90年代後半=小室サウンドといった時代性や、サザン・オールスターズ、B’zの「声」のイメージが強い桑田佳祐、松本孝弘は、初めて聴いても作曲者がわかる個性を持っている。
だが、学生時代にジャズバンドをやっていたとはいえ、日本グラモフォン(現ユニバーサルミュージック)の洋楽担当ディレクター出身の筒美京平は、あらためて調べない限り、一人の作曲家とは思えないほど多様な楽曲を作った。しかも、とんでもない実績を上げているのに「裏方」に徹し、テレビにはほとんど出演しない。
BABYMETALの楽曲はさまざまな作曲家が作っているが、70年代~80年代のアイドルと同じく、多様な音楽ジャンルを「職人芸」で融合する筒美京平“流”のポップス作曲法で制作されている。スタッフはもちろん、フロントメンバーでさえテレビに出ないという点も、筒美京平“流”を継承しているのかもしれない。
冒頭に書いたように、アイドルとして「多様な音楽ジャンルの融合」で楽曲を作りつつ、そのベースにヘヴィメタルを置いたことが、BABYMETALのオリジナリティである。
ヘヴィメタルという音楽は、70年代のNWOBHMに始まり、LAメタル、スラッシュメタル、デスメタル、ジャーマンメタル/メロディックスピードメタル/パワーメタル、グルーヴメタル、ドゥームメタル、ブラックメタル、ネオクラシックメタル、ラップメタル/ミクスチャー、シンフォニックメタル、プログレッシブメタル、Djent/マスロ

ックと多様なサブジャンルを形成している。
だがそれは、ハードロック、プログレッシブロック、クラシック、パンク/ハードコア、オルタナティブロック/グランジ、ラップ/ヒップホップ、フュージョンといった他ジャンルの音楽と独自に「融合」した結果である。
J-POPが「融合」の音楽だとすると、ヘヴィメタルもまた「融合」の音楽なのである。
1stアルバムの『BABYMETAL』は、「J-POPアイドル」が、多様なヘヴィメタル楽曲を歌い踊るというところに衝撃があった。2ndアルバムの『METAL RESISTANCE』では、その「メタル度」が強まり、パワーメタル、ブラックメタル、ヴァイキングメタル、プログレッシブメタルの雰囲気が濃くなった。
だが、『METAL GALAXY』では、もうひとつの「多様な音楽の融合」であるJ-POPの流儀が強まり、民族音楽、バブル期日本のダンス/ラテン音楽、シティポップ、ゲーム音楽、ラップと、パワーメタル、Djent/マスロック、シンフォニックメタルといったメタル要素がより一層「融合」され、唯一無二のBABYMETALミュージックに仕上がっている。これまでは「J-POP=1」×「メタル=多」だった掛け算が、「J-POP=多」×「メタル=多」になって、より多様になったのが『METAL GALAXY』なのだ。
『METAL GALAXY』を、「BABYMETALがヘヴィメタルの仮面を捨ててポップ寄りの本性を顕した」と評する向きもあるが、その前にJ-POPというジャンルが、多様な音楽を融合する筒美京平のような職人芸で生み出だした、高度で豊穣な音楽性を持っていることを知るべきである。そして、そうした流儀で生み出されたBABYMETALの音楽が、世界共通で楽しめる新しい「普遍音楽」になる可能性があるということも。
(つづく)