ギターとベビメタ(5) | 私、BABYMETALの味方です。

私、BABYMETALの味方です。

アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ
本日1月11日は、2017年、ソウル高尺スカイドームにて、METALLICAのSpecial Guestとしてオープニングアクトを務めた日DEATH。

南北戦争後、南軍の軍楽隊が打ち捨てたトランペットやトロンボーンといった管楽器やドラムを手に入れた解放奴隷の黒人たちは、見様見真似で演奏を始めた。ド素人なので、楽譜を無視してタイミングを外すシンコペーションやラグが起こり、メロディも適当に省略され、長調の中に短調の音(=ブルーノート)が含まれたりもした。これがジャズの始まりである。
白人が捨てたギターを手に入れた者もいた。
とりあえず1弦だけ使ってメロディを弾いてみるが、運指がわからないのでメロディの高い部分は、弦を力任せに引っ張って音を出した。ベンド/チョーキングの始まりである。
やがて演奏者は、複数の弦を使えば和音が出せることに気づく。
例えばレギュラーチューニングでEコードの和音が出せれば、人差し指で5フレット全弦を押さえて4弦の中指・5弦の薬指は同じ形のまま弾けばAになるし、同じ形でもう2フレット上げればBコードになるので、Key=Eの3コードが弾ける。
レギュラーチューニングがわからなければ、オープンチューニングで和音を作ってしまえばいい。例えばデルタブルースの代表、ロバート・ジョンソンが「Crossroad」でやったオープンAチューニングは、4-3-2弦を1音あげたE-A-E-A-C-Eである。

開放弦をKerrang!と鳴らせばAコード、左手の人差し指一本で5フレット全弦を押さえればDコード、7フレット全弦を押さえればEコードになるので、Key=Aの3コードになる。


3コードに適当な歌詞と物憂げなメロディをつければ、もう立派なブルースだ。
こうして、ヨーロッパからの白人移民と同じ楽器を使いながら、全く異なる黒人音楽が生まれた。
しかし、ドラムスと管楽器を主体としたジャズと、ギターの相性は悪かった。
スネアドラムだけでなく、フロアタム、バスドラム、シンバル、ハイハットを組み合わせたドラムスは、オーケストラに匹敵する音量だし、トランペット、トロンボーン、サックスといった楽器も、バカでかい音量を出す。
そんな中、いくらスチール弦を使って大型化したとはいえ、アコースティックギターの音量では、まったく太刀打ちできなかった。
1878年、イギリスのヒューズによってマイクロフォンが発明され、アメリカのエジソンも独自に発明したマイクを蓄音機に搭載した。エジソンが発明した白熱電球には、電流を増幅する効果があることがわかり、1902年に真空管が発明されて、それを使って音信号を増幅するアンプ、電気信号を音に再変換するスピーカーといった電気音響機器も誕生していた。
そこで、ギターの音を電気的に増幅するエレクトリック化が考え出された。これがアメリカにおける第二のギターの進化である。
スチール弦化と同様、エレクトリック化もギターが最初ではなかった。
世界初の電気楽器は、ハワイアンスチールギターだった。
太平洋の真ん中に位置するハワイは、アメリカにとって捕鯨基地に過ぎなかったが、そこは1795年にカメハメハ大王が全島を統一した独立王国だった。
外交能力に長けたカメハメハ大王の死後、あとを継いだ長男のリホリホら若い王たちに力がないことを見越したアメリカ人の宣教師やプランテーション農場を経営する移民が、影響力を強めていく。
1840年にはアジア・太平洋地域初のハワイ憲法が発布されて立憲君主制となったが、これは明治憲法施行の50年も前である。
ところが、その3年後の1843年、突如イギリスはハワイの領有を宣言する。さらに1849年には今度はフランスがハワイの領有を宣言する。れっきとした独立国なのに植民地化しようとする西欧列強の恐ろしさだ。
ハワイに利権を有するアメリカ人のプレゼンスにより、辛うじて独立を保っていたハワイ王国だが、明治維新後の1881年にカラカウア王が来日し、明治天皇と会見している。
移民についての取り決めを行った上、カイウラニ王女と皇族男性との縁組を打診している。同じ有色人種で、近代化する日本との関係を深め、西欧列強に対抗しようとしたのだろう。


だが、当時の明治政府は国内政治と、朝鮮や清への対応で手いっぱいで、婚姻は沙汰やみとなった。
1893年、アメリカ公使ジョン・スティーブンス、ロリン・サーストン、サンフォード・ドールらが米海兵隊164名とともに、カラカウアの娘で、最後の女王となったリリウオカラニに対してクーデターを起こし、ハワイ王国は滅亡する。クリーブランド米大統領がこのクーデターを認めなかったため、ハワイは一時ドールを大統領とする共和国となる。
1898年、アメリカは米西戦争で、グアム、フィリピンのスペイン植民地の「管理権」を奪取、1900年にはハワイを準州として併合してしまう。
当時の日本人は、軍事力がなければ平然と他国の主権を踏みにじる国際政治のリアリズムを目の当たりにしたのだ。
それはともかく、併合されたハワイはアメリカ人のリゾート地となり、ハワイアンミュージックが人気となった。
ハワイには、ポルトガルからの移民が持ち込んだとされる4弦のウクレレがあった。ポルトガルギターは、イングリッシュギターと同じ水滴型のボディなので、形から見るとウクレレはむしろ小型のスパニッシュギターである。
また、ハワイアンでは、スチール弦のギターを横に寝かせて、スライド奏法で弾くスチールギターが必須だった。
スライド奏法とは、スチール弦のギターを、あらかじめ開放弦で和音が出るようにオープンチューニングしておき、左手に持った金属またはガラスの筒(スライドバー)で弦を軽く押さえ、スライドさせながら無段階に音程を変化させる奏法のこと。
カントリーやブルーグラスでよく使われ、膝の上に置いて演奏するスライド奏法専用のラップ・スチールギターが開発された。
それがハワイで広まり、ハワイアン音楽には必須のサウンドとなった。
前述したように、カントリー&ウェスタンやブルーグラスでは、音の大きいバンジョー、マンドリンと同じスチール弦のギターが使われていた。だが、スライド奏法で演奏すると、音量が不足することが多かった。
ヴォードヴィル・ショーで、ラップ・スチールギターなどを弾いていたミュージシャンのジョージ・ビーチャムは、音量の大きい楽器を求め、様々な実験を行っていたが、ロサンゼルスでギター工房を開いていた職人ドピエラ兄弟と出会い、バンジョーのボディ裏に使われた金属の共鳴盤(リゾネイター)をギターのトップ板に組み込んだリゾネイター・ギターを開発した。
出資者を得た彼らは、1925年にナショナル・ストリング・インストルメント・コーポレーション社 (National String Instrument Corporation) を創立し、リゾネイター・ギターを売り出すと、カントリー&ウェスタンやハワイアンのミュージシャンに好まれ、広まっていった。
だが、意見の対立からドピエラ兄弟はナショナル社を退社し、1928年にドブロ(Dobro)社を設立する。ドブロとは、DOpyera BROthersの略とも、彼らの出身地スロバキア語で「良い」という意味だともいう。ドブロは現在リゾネイター・ギターの代名詞となっている。
一方ビーチャムは、電気で増幅する楽器の開発を続ける。
スチール弦は磁性を帯びているので、磁石に巻きつけたコイルで作られる磁界の中で振動すると電流が発生する。この原理を利用したのがギターのピックアップである。
ビーチャムは1931年にアドルフ・リッケンバッカーとともにロー・パット・イン・コーポレーション(electRO-PATent-INstrument Company)を設立し、翌1932年、電磁ピックアップがついたエレクトリック・ハワイアンギター「フライングパン」を発売する。一般的にはこれが世界初の量産エレクトリックギターとされる。


1936年、ギブソン社は、アーチトップギターのボディ表板にピックアップとボリューム&トーンコントロールノブをつけたES-150を真空管アンプ付きで発売する。
ESとは、Electric Spanish Guitarを意味し、通常のギターが初めてエレクトリック化されたものといえた。
黒人ギタリストのチャーリー・クリスチャンは、ドラムスや管楽器に負けない音量を持つES-150を使って、スウィングの王様と称されたベニー・グッドマン楽団で活躍し、世界初のエレクトリックギター・プレイヤーとなった。


(つづく)