ギターとベビメタ(3) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ
本日1月9日は、2012年、Women’s PowerにてBGMとして「紅月-アカツキ-」が初披露され、2013年には、「イジメ、ダメ、ゼッタイ」でメジャーデビューし、タワレコ「世直し隊」に任命された日DEATH。

BABYMETALが、「汎ヨーロッパツアー」第二ラウンドで訪問するスペインは、元々はゲルマン人の一派である西ゴート族の国だったが、ポルトガルと共に、8世紀初頭からイスラム教徒の西カリフ国(後ウマイヤ朝)に支配されていた。
1031年に後ウマイヤ朝が分裂して滅亡すると、キリスト教化していた西ゴート族の末裔たちは、各地で小さな王国を建て、数百年間にわたってイスラム教徒を追討する国土回復闘争=レコンキスタを戦うことになった。
カスティリア王国と並んで、有力なキリスト教王国のひとつだった東部のアラゴン王国で、1400年代にヴァイオリンのようにボディの両脇がくぼみ、平底のボディを持ったビウエラ・デ・マーノ Vihuela de Manoという楽器が生まれた。


Manoとはラテン語で「手」なので、これは「手で弾くヴィオラ」という意味である。
ルネッサンス期のイタリアでは、中東から伝わったリュートが花形楽器になったが、イスラム教徒を目の敵にしていたスペインでは、リュートではなく、ヴィオラの形と大きさをしていて、弓ではなく指で弾く楽器が独自に進化したのだ。もっともヴィオラも、元をただせば中東由来なのだが。
1492年、カスティリア王国の王女イザベル1世は、アラゴン王国の王子フェルナンド5世と結婚して戴冠し、両国は連合してイベリア半島における最後のイスラム王国だったグラナダ王国を陥落させ、レコンキスタを完成させる。
カスティリア、アラゴン両国はそのまま合併してイスパニア王国(スペイン)となり、イサベル1世の死後は、オーストリアのハプスブルグ家に嫁いでいたイザベルとフェルナンドの娘フアナが女王となり、ポルトガル王国以外のイベリア半島を統一した。
その頃になると、ビウエラ・デ・マーノは、1弦のみ単弦で4コース7弦のギターラ・ラティーナGuitarra latinaとなり、17世紀には5コース単弦、18世紀には6コース単弦で、現代と同じく6弦から1弦までE-A-D-G-B-Eと調弦するスパニッシュギターになった。
クラシックギターの名曲「アルハンブラの思い出」(Recuerdos De La Alhambra)は、イスラム教徒のグラナダ王の居城だったアルハンブラ宮殿の栄華をモチーフとした曲で、撥音楽器であるギターでロングトーンを出すために、右手の人差し指、中指、薬指の3本を使ったトレモロでメロディが奏でられる。
曲の終わり、メロディと共に親指で弾かれるベースラインにアラビック・スケールが用いられ、一瞬、中東的な響きを与える。アルハンブラがイスラム教徒の拠点だったことを表現しているのだ。
https://www.youtube.com/watch?v=7llUA1_QHL0

さて、カスティリア、アラゴン連合がグラナダ王国を滅ぼした1492年、女王イザベル1世の支援を受け、「意欲に燃えて」、スペイン南部のパロス港を出港したジェノバ人の提督が、カリブ海西インド諸島のサン・サルバドル島に到着していた。
クリストファー・コロンブスによる「アメリカ大陸の発見」である。
以降、イスパニア王国は、先住民のアステカ帝国やインカ帝国を滅ぼして、ノヴァ・イスパニア=メキシコをはじめ、南米に植民地を拡大し、奪った富をもとに強大化していく。
フアナの息子カルロス1世は、1519年にオーストリア・ハプスブルグ家の当主も継いで、神聖ローマ帝国カール5世となった。
同年8月、カルロス1世と契約して、セビリアを出港したポルトガル人提督のフェルディナンド・マゼランは、ノヴァ・イスパニアを経由して南アメリカ東岸を南下、1520年11月にパタゴニアのマゼラン海峡を発見して太平洋に出、グアム島を経て、翌年3月、フィリピンのセブ、マクタン島に到着した。フィリピンという国名は、当時王太子だったカルロス1世の息子フェリペ、のちのフェリペ2世に因んで名づけられた。
マゼランは、そこで現地の酋長ラプラプに殺されてしまうが、船団は航海を続け、「いい子ニコニコ」しながら1522年9月にスペインに帰着した。世界一周航路の完成である。
フェリペ2世の時代にスペイン帝国は最大の版図となる。
フェリペ2世は「カトリックの盟主」を自任し、ヨーロッパのカトリック大国の公女と次々に結婚する。


王太子時代、まずはポルトガル王女マリア・マヌエラと結婚して長男ドン・カルロスをもうけるが、マリアは出産後、亡くなってしまう。
次に結婚したのは、イギリス女王メアリー1世だった。メアリー1世は、アラゴン王家の血を引く母キャサリン・オブ・アラゴンと、その母と離婚するためにカトリック教会から破門されてイギリス国教会を作った父ヘンリー8世の娘で、父と後妻アン・ブーリンの娘であるエリザベス1世の異母姉である。
メアリーは父を憎んでカトリック信仰を守り、国内の清教徒を弾圧したため、ブラッディ・メアリーの異名をとる。美人で評判だった彼女が、11歳年下のフェリペ2世を選んだのも、スペインがカトリックの盟主だったからだ。だがフェリペは結婚後2年でスペインに帰国してしまい、その2年後、メアリーは死んでしまう。
フェリペ2世は次にフランス王アンリ2世の長女エリザベート・ド・ヴァロワと結婚し、二女をもうけるが、結婚9年目に彼女も死んでしまう。このときは、最初の妻マリアとの間にできた長男ドン・カルロスも亡くなっている。
最後の結婚相手はハプスブルグ家の公女アナ・デ・アウストリアで、血縁的には姪にあたる。アナとの間にできた次男が、後継者フェリペ3世となった。
なぜ結婚相手が次々に亡くなったのかを考えると恐ろしいが、フェリペ2世治世下の1580年にポルトガルを併合すると、スペインは、ブラジルを含む南アメリカ、ネーデルラント(オランダ)、イタリアのミラノ・サルデーニャ・シチリア・ナポリ、アフリカ大陸南西部、インド西海岸、東南アジアのフィリピン・マラッカ・ボルネオを領有し、「太陽の沈まぬ帝国」と呼ばれた。なお、1584年、日本から来た天正遣欧少年使節を歓待したのもフェリペ2世である。
くびれたボディに6弦のスパニッシュギターは、スペイン本国にとどまらず、これら全世界のスペイン植民地に広まっていった。
メキシコの「流しのギター楽団」マリアッチや、アンデス地方のフォルクローレ、フィリピンの民族舞踏などには、必ずスパニッシュギターが使われるし、ポルトガル領だったブラジルでも、ボサノヴァはスパニッシュギターで奏でられる。
だがスペイン王国は、これ以降、徐々に衰退していく。1588年にはスペインの誇る無敵艦隊がエリザベス1世女王治下のイギリス海軍に敗れ、1640年にはポルトガルが独立、1648年にはオランダも独立した。1701年にはスペイン継承戦争が起こり、ヨーロッパでのスペインの領土も縮小された。
一方、1750年代のイギリスでは産業革命が起こって近代化が進み、スペインに代わって世界中に植民地を広げていく。1775年にイギリスから独立したアメリカでは、フロンティア・スピリットにあふれた開拓者たちが西進し、1800年代初頭には太平洋岸まで達した。
1821年にメキシコがスペインから独立するが、1846年の米墨戦争で、現在のテキサス州、コロラド州、アリゾナ州、ニューメキシコ州、ワイオミング州の一部、およびカリフォルニア州、ネバダ州、ユタ州の全域がアメリカに割譲される。
アメリカはそれに飽き足らず、1898年に米西戦争を起こす。これに敗れたスペインは、キューバなどのカリブ海諸島、グアム、フィリピンなどの太平洋の植民地も失う。
だが、世界中に広まったスパニッシュギターは、スペイン本国で進化を遂げていく。


初期のギターは、ガットをネックに結びつけてフレットにしていたが、18世紀には、象牙や金属で作られたフレットがあらかじめ指板に打ち付けられるようになった。
また、イングリッシュギターと同じく、ネックと高さ数ミリの指板を別々に作り、セットしたネックとボディの表面をまたいで、ナットからホール縁まで続く指板を貼る形になった。
19世紀になると、名工アントニオ・デ・トーレスによってスケールが約65cmに設定され、フレット数は14-19フレットになった。ボディとサウンドホールも大型化されて、現代のクラシックギターとほぼ同じ仕様になったのだ。
ノヴァ・イスパニア=メキシコ国境に近いアメリカ南西部では、スペインからの植民者が持ち込んだスパニッシュギターが広まっていた。
そのアメリカで、ギターはまた大きな進化を遂げることになる。
(つづく)