Kawaiiの力(4) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
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★今日のベビメタ
本日12月10日は、2016年、Red Hot Chili Peppers UKツアーのSpecial Guestとして、バーミンガム、GENTING ARENAに出演(初日)した日DEATH。

ギリシア哲学の人間観は、完成され、調和のとれた人格を目指すというもので、理想の女性は完璧なプロポーションを持つギリシア彫刻のヴィーナスとされた。
ところが、キリスト教ではそのような「Sexy」な女性は男を誘惑する罪悪とされ、ひたすら従順で貞淑な女性が理想とされた。
つまり、西欧社会の女性観は、勝手な男性の都合で分裂していたのだ。
西欧人がいかにキリスト教の道徳とギリシア哲学的な人間性の謳歌という二律背反に悩んでいたかは、ジョルジュ・バタイユの『エロティシズム』『エロスの涙』が傍証となる。
ジョルジュ・バタイユはフランスの思想家で、『エロティシズム』(1957年初版)と『エロスの涙』(1961年初版)はその代表作である。日本では、2001年に『エロスの涙』が、2004年に『エロティシズム』が、いずれもちくま学芸文庫版で出版されている。
『エロティシズム』の論旨は、序論冒頭の文章「エロティシズムは死におけるまで生を称えることだ」に要約されるが、ぼくなりの勝手な解釈を記せばこうなる。


動物にとって性愛は子孫を残すための本能的な生殖活動である。
しかし人間にとって、性愛は単なる生殖活動ではない。人間の性は生殖とは切り離された文化的・社会的な文脈の中にある。
男性がある対象に魅力を感じるか感じないかは、動物のように「交尾できるなら誰でもいい」というわけではなく、彼の個人的・主観的な趣味に左右される。その趣味は、対象の外見も含めて、彼が生きてきた経験をもとに、心の中に生じた内面的なものである。
このことをバタイユは「エロティシズムとは、人間の意識の中にあって、人間内部の存在を揺るがすもののことなのである。」(『エロティシズム』ちくま学芸文庫初版P.47)といっている。
そして、「存在を揺るがすもの」とは、社会規範、つまり日常的・道徳的に禁止されていることを侵犯することだというのである。
西欧のみならず、世界のあらゆる民族、人間社会に共通して禁止されていることといえば、自殺や殺人だろう。
しかし、原始的な宗教儀式では、動物や、しばしば人間を生贄にする供犠が行われた。
それは日常的に禁じられている掟を侵犯し、非生産的な祝祭の中で、犠牲の生命を捧げることによって、聖なるものを顕現させる神秘である。
この暴力と流血の宗教的供犠に、バタイユは人間の性行為と同じ「聖なるエロティシズム」を見る。
「肉体のエロティシズムとは、相手の存在に対する侵犯でなくて何であろう。」(P.28)
この文脈でバタイユは、男性が女性を犯すことを想定しているが、逆でも構わない。「相手の存在」とは、日常性そのものだろう。
そして、儀式においても、性行為においても「死」をもいとわない恍惚の中に、「聖なるエロティシズム」が顕現する。それをバタイユは「存在の連続性」という。
「生贄は死んでゆく。このとき、供犠の参加者たちは、生贄の死が顕現させる要素を分有する。(中略)まさしく聖なるものとは、厳粛な儀式の場で不連続な存在の死に注意を向ける者たちに顕現する存在の連続性のことなのである。」(P.134)
キリスト教もまた、十字架にかけられた生贄であるイエスを聖なるものとして崇める宗教である。だが、西欧において、キリスト教は「愛の宗教」であって、ミサからはイエスの犠牲=供犠という側面が失われ、日常を道徳的禁止事項で埋め尽くす掟そのものになった。
そのため、「エロティシズムは、キリスト教によって根源的に批判されるに及んで、俗なる領野へ転落していった」(P.208)」とバタイユはいう。
だが、18世紀フランスのサド侯爵は、キリスト教の良識が禁止することをことごとく破り、「聖なるエロティシズム」を顕現させた。
「あたかも禁止は、禁止が排除するものに栄光の呪詛を与える手段にすぎないかのようなのだ。」(同書P.77)
要するに、バタイユは、日常的禁忌を侵犯する宗教的儀式によって「聖なるもの」が顕現し、それが人間本来のエロティシズムなのだが、西欧ではキリスト教が日常的禁忌になってしまったので、「聖なるエロティシズム」を顕現させるには、キリスト教の道徳観念を打ち破り、悪をも恐れぬサド侯爵のような人物になるしかないというわけだ。
『エロスの涙』は、『エロティシズム』のヴィジュアル版であり、旧石器時代の洞窟壁画から古代ギリシアのディオニソス祭、インドのオルギア(乱交)場面を描いた絵画や彫刻、アフリカやブードゥ教、残虐な中国人の処刑まで、豊富な図版や写真で持論を補強している。


ここでは、バタイユはもっとはっきりと「ここで私が意図しているのは、ある根本的な関係、すなわち、宗教的恍惚とエロティシズム―特にサディズム―との関係を明らかにすること」(『エロスの涙』ちくま学芸文庫P.311)だと述べている。
なんという錯綜した考え方だろうか。
1)    古代人や「未開人」のオルギアは宗教的恍惚と結びついている。
2)    キリスト教も宗教だが、本来の供犠の意味は失われてしまった。
3)    西欧においては悪魔的(=反キリスト)なサディズムこそ、「聖なるエロティシズム」を顕現させる。
煎じ詰めればこの三段論法だが、キリスト教文化にどっぷり浸かった西欧人であるバタイユにとっては、「聖なるエロティシズム」、すなわち「存在の連続性」を取り戻すためには、こう考える他なかったということかもしれない。
だがしかし。
バタイユが想定している女性像とは、前回述べたようにギリシア哲学的な意味でも、キリスト教的な意味でも性的対象、すなわち「Sexy」な女性であるのは明らかである。
しかも、ぷんぷん匂ってくるのは、男性中心の物の見方である。
ぼくは男性だし、カトリックでありながら、サドや澁澤龍彦に耽溺した時期もあるから、バタイユの立論は理解できないでもない。
だが、日本人であるぼくは、古代日本では祭りの夜は男女が出会う恋の場であり、現代でもそうした風習が残る地方があることを知っている。そうしたものがすでに失われたと思い込んでいるバタイユにとっては意外かもしれないが、キリスト教西欧の方が特殊なのである。
ましてバタイユは、11世紀日本の平安時代の宮廷女性が、「うつくし」=「カワイイ」という価値観を発見し、それが、1000年の時を経て「萌えオタク系」「赤文字系」「青文字系」へと発展し、きゃりーぱみゅぱみゅやBABYMETALのような「Sexy」とは真逆の魅力を持ったアイドルを生み出し、それがフランスで何度もライブをすることなど、全く予想もしていなかっただろう。
ことほど左様に、女性を性愛の対象とみなさない「Kawaii」という価値観は、西欧文化にとって衝撃的なものなのである。
だが、ぼくの考えでは、バタイユの論点の中でひとつだけ、きゃりーぱみゅぱみゅやBABYMETALの魅力を説明する要素がある。
それは、暴力性という要素である。
ここで、本稿のテーゼを一発。
「Kawaiiはロックによって完成する。」
(つづく)