Kawaiiの力(2) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ
本日12月7日は、2018年、Good Thingsフェス@豪州・メルボルンSHOWGROUNDSに出演した日DEATH。

ヴィクトリア朝のイギリスでは、産業革命で勃興した中産階級の信条を体現して、「ヴィクトリアニズム」と呼ばれる勤勉・禁欲・節制・貞淑などを特徴とした道徳が支配的だった。
その背景には、英国国教会の改革を主張したカルヴァン派プロテスタントのピューリタニズムがある。
ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、カルヴァン派プロテスタントの勤勉さが近代資本主義を発展させたと述べている。
カトリックでは、ローマ教皇は復活したイエス・キリストに、地上で人の罪を赦し、天国に入れる「鍵」を与えられたペトロの後継者、つまり「神の代理人」である。だから、ローマ教皇座があるローマのサン・ピエトロ(聖ペトロ)教会は、ローマで殉教したペトロの墓の上に建てられている。
どんな小さな日本の教会でも、生涯独身の神父様は、教皇の按手によって秘跡の力を分け与えられているので、告解すれば教義上の罪を赦してもらえる。
ローマ教皇が世界のどこへ行ってもアイドル並みの人気なのはそのためで、1981年のヨハネ・パウロ2世以来38年ぶりに来日したフランシスコ教皇が司式する東京ドームのミサには5万人が集まり、「We are the world」そっくりのテーマ曲「We protect all life (Protejamos toda la vida)」を大合唱した。


だが、カルヴァン派プロテスタントは、人間に過ぎない聖職者による罪の赦しなど認めない。
プロテスタントの牧師は「神の代理人」ではなく、信仰上のリーダー、先達という位置づけである。だから妻帯しているのがふつうであり、日曜礼拝はミサではなく、学びと共助の場である。
とはいえ、ぼくが行ったアメリカのメガチャーチは、8,000人が集まるロックコンサートみたいだった。
それはともかく、カルヴァン派の教義は、天国へ入れる者は予め決まっているという「予定説」に立つので、信者は「神の御言葉」である聖書を熟読して、心の中で直接神と向き合う。
自分が天国へ行けるかどうかは、神のみぞ知るところである。
だが、現世でひとかどの人物になることは、神に祝福されている証拠なので、誘惑に負けず、道徳的な正しさを保ち、真面目に仕事に打ち込む。だからアメリカの有名人や成功者はセレブ(=Celebrity、祝福された者)という。
こうした聖書的な誠実さ、勤勉さを第一義に考える心情が近代資本主義の発展をもたらしたというのが、マックス・ウェーバーの主張である。
だから19世紀イギリスのヴィクトリア朝では、女性も、慎ましく、夫に尽くす良妻賢母が理想とされた。逆にギリシア神話のエロースの恋愛対象となるような「誘惑する女性」「奔放な恋多き女」、つまり成熟した肉体を持つ美しい女性は罪悪だったのだ。
こういう女性像を現代の用語でいえば「Sexy」だろう。
小泉進次郎環境大臣が、ニューヨークの国連気候サミットの記者会見で、「気候変動というような大きな問題は、FunでありCoolであり、Sexyでなければならない」と述べたことについて、大炎上と呼べるほどの騒動となり、環境省は「Sexy」とは「魅力的」を意味する表現だとして火消しにやっきになったが、この意訳は案外正しい。
「Sexy」には「肉感的」「性愛的」であるという本来の意味に加えて、「健康的な魅力」という意味もあるからだ。
だが、19世紀イギリス・ヴィクトリア朝のルイス・キャロルが追い求めた少女のイメージには、「Sexy」のニュアンスがまったくない。
ルイス・キャロルは、カメラを入手し、『不思議の国のアリス』のモデルとなったアリス・リデルやエクシーことアレクサンドラ・キッチンら4歳~16歳の少女たちに、中国人風やギリシア人風、物乞い風などさまざまな衣装を着せて写真撮影を行った。これこそ美少女コスプレの始まりである。


もっとも、ルイス・キャロルは密かに少女たちのヌード写真を撮影したり、16歳になったアレクサンドラの水着写真を撮る許可を親に拒絶されたりもしているから、現在なら明らかに性的倒錯者=ヘンタイとして社会的制裁を受けるだろう。
とはいえ、『不思議の国のアリス』は、お昼寝をした少女の夢という体裁をとっているものの、アリスが不思議な世界をさまよい、奇怪な登場人物たちに翻弄されながら、主体的に次の行動を選びながら冒険していく物語で、ヴィクトリア女王や流行歌のパロディ、言葉遊びなどがふんだんに使われた魅力的なファンタジーとなっている。


宮崎国際大学のキャサリン・ビショップさんは、「当時のイギリスは女性、特に若い女性は自分の考えは持たなくてよいという男性優位の社会でした。児童文学も教訓的なものが主流だったので、アリスの自分の考えに基づいた主体的な行動は、当時の社会に対するアンチテーゼだと読み解くことができます。さらに、それだけではなく、「おとぎ話」という形式を借りて、男女差別という不平等をもたらす社会的権力がいかに作られるのかも明らかにしています。『不思議の国のアリス』には、パロディや言葉遊び、慣用句の引用が数多く現れます。批判精神、ユーモア、ウイットのある表現で読み手の頭を活性化して、自分たちの生きている世界がいかに不自然であるかを気づかせてくれるのです。このような表現は、それまではありませんでした。」と評している。
ルイス・キャロルがそれほど真面目だったかは眉唾だが、彼が、しばしば偽善的ともいわれるヴィクトリア朝のキリスト教道徳全盛の社会で、当時の女性観の根底にあった「Sexy」とは真逆の、「未成熟な少女の魅力」を発見したのは確かである。
ぼくの考えでは、これが西欧文化に欠けていた「Kawaii」の発見であり、『不思議の国のアリス』は、ユーザーが次の行動を随時選択しながら進むコンピュータゲームや、異世界を冒険するジャパニメーションの原型でもあり、これらをひっくるめて、21世紀に日本の「Kawaii」が文化として西欧社会に受け入れられる素地になったと思う。
(つづく)