お盆(2) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
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★今日のベビメタ
本日8月15日は、1945年太平洋戦争が終結し、2015年には、BABYMETALがサマソニ2015@幕張メッセMountain Stageに出演した日DEATH。

「私がというより津田監督…そりゃ芸術監督ですから芸術の中身については、芸術監督がぜん、ぜん、ぜん、えー全責任を持ってね…やっておられるということなので、津田監督を中心に…よく協議をしていくということだと思います。(中略)まあ私はトリエンナーレ実行委員会という全体の中でね、まああの円滑な運営、それから全体のまあ管理運営、それからまた予算面での対応等々全体を円滑に進めていくということですね。芸術監督を決めた以上、そこで芸術の中身等々については、お任せをする、芸術監督の責任で仕切ってもらうという立て付けになっております。ですから私は全体の安全、安心な管理運営をですね…」
書き起こしていてバカバカしくなってきたので、この辺にしておく。
地上波ではほとんど報道されないのが不思議でならないが、8月13日に行われた、あいちトリレンナーレ実行委員長、愛知県大村知事の記者会見での発言である。
要するに、あの「表現の不自由展・その後」の展示について、自分には関係ない、「芸術監督」が全部悪いと開き直ったのである。
この部分の前に、少なくとも6月の時点で大村知事は展示内容をすべて知っていて、津田監督に、「問題になるから観客に写真を撮らせるな、SNSに流させるな」等々「強く求めた」けど聞き入れられなかった、これほどの抗議が来るとは想定していなかったという発言をしているのだ。
いやいや。

あの展示の全責任は、津田大介を「芸術監督」に抜擢し、展示を許可した実行委員長である大村知事にあることは、誰が見ても明らかでしょ。展示内容がとうてい芸術とは言えないプロパガンダだったのを、内容が外部に漏れないように撮影禁止にするとか、自分の判断で中止したくせに、問題を指摘した河村名古屋市長に向かって「憲法違反だ」とか、展示内容がネットでバレバレになって旗色が悪くなると、「全責任は芸術監督にある」とか、こんなカッコ悪いヤツ、久しぶりに見たな。ま、個人の感想ですけど。
今日は終戦記念日。
中止になったあいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」には、「慰安婦少女像」だけではなく、昭和天皇の写真を焼き、灰を足で踏みつける動画作品も「芸術」として展示されていた。
地上波はなぜかあまり報じないが、これだけ抗議が寄せられたのは、むしろこちらの問題が大きいと思う。戦後の日本人にとって昭和天皇への侮辱がなぜこれほど国民の怒りを呼ぶのかということを、ちゃんと考えておきたい。
元ネタは、「マッカーサーを親日に変えた昭和天皇」
https://matome.naver.jp/odai/2144977577971233701
ほか、ネット上のサイト、動画に数多くアップされている昭和天皇の事績から構成。
1945年8月15日、大日本帝国政府はポツダム宣言を受け入れ、連合国に降伏した。
8月30日、厚木飛行場に連合国最高司令官、米陸軍マッカーサー元帥が降り立ち、GHQによる占領が始まった。
9月10日、米議会に、昭和天皇を戦犯として裁くという決議案が提出された。
日本が泥沼の日中戦争に引きずり込まれていった経緯、日米開戦に至る経緯はここでは書かない。日本と戦った当事国、かつ勝者であるアメリカとしては、大日本帝国憲法上、日本の国家元首であり、開戦の責任者である昭和天皇を処罰するのは当然であった。
9月27日、昭和天皇は、アメリカ大使館公邸に出頭を命じられた。


マッカーサーがソファにふんぞり返って待っていた会見室に通されるや否や、たった一人の通訳を連れただけの昭和天皇は、直立不動のままこう言ったという。
「日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行われました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟はあります。」
マッカーサーは驚いた。
彼は第一大戦直後、占領軍としてドイツへ進駐した父とともにいた時、敗戦国ドイツのカイゼル皇帝が父の元を訪れ、「戦争は国民が勝手にやったこと、自分には責任がない。従って自分の命だけは助けてほしい。」と命乞いを申し出たことを知っていた。
しかし、日本の昭和天皇は違った。天皇は重ねて次のように言った。
「しかしながら、罪なき8000万の国民が、住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように」
後年、マッカーサーは『回想記』で、これを聞いた時の衝撃をこう記している。
「私は大きい感動にゆすぶられた。死を伴うほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに、天皇に帰すべきではない責任までも引き受けようとされた。この勇気に満ちた態度に、私は骨の髄までも揺り動かされた。私はその瞬間、私の目の前にいる天皇が、個人の資格においても日本における最高の紳士であると思った。かつて敗れた国の元首でこのような言葉を述べられたことは世界の歴史にも前例のないことと思う。」
マッカーサーは天皇の肩を抱くようにしてソファに座らせ、部下に「陛下は興奮しておいでのようだから、コーヒーをさしあげるように」と命じた。
そして今度はまるで臣下のように直立不動で陛下の前に立ち、「天皇とはこのような方でしたか。私も日本人に生まれたかったです。陛下、ご不自由でございましょう。私に出来ますことがあれば、何なりとお申しつけください。」と言った。
すると昭和天皇は、再び立ち上がって涙をポロポロと流し、「命を懸けて、閣下のお袖にのみ、すがっております。この私に何の望みがありましょうか。重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」と言ったという。
マッカーサーは、昭和天皇に向かって、「私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終わったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、すべて陛下のお力である。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わねばならないことは多い。どうか、よろしくお願い致したい。」と述べたという。
わずか37分間の会見だったが、マッカーサーの昭和天皇に対する態度は全く変わっていた。
会見前は傲然とふんぞり返っていたマッカーサーが、会見後には昭和天皇のやや斜め後ろを歩くような態度で会見室を出、予定を変更して、天皇が車に乗り込むまで見送ったのだ。
以降、マッカーサーは日本の安定統治のために天皇制を存続させることを占領政策の基本に据えた。
前年からの不作と終戦の混乱で、この年12月まで、日本の食糧事情は悪かった。
人々が飢えに苦しんでいることを知ると、昭和天皇は「多数の餓死者を出すようなことはどうしても自分には耐えがたい」と述べられ、皇室の御物をアメリカに渡し、食料に変えて国民の飢餓を一日でもしのぐようにしたいと言って、幣原首相に目録を持たせ、マッカーサーのもとへ向かわせた。
幣原首相は、それまで何度もGHQと交渉していたが、食糧不足の事態は改善されていなかった。日本を窮乏化させることは、連合国の「報復的」占領方針でもあったからだ。

だが、マッカーサーはこの目録を見るや、「自分が今の現在の任務に就いている以上は、断じて日本の国民の中に餓死者を出すようなことはさせん、必ず食料を本国から移入する方法を講ずる」と請け合い、ようやく食糧不足が改善したという。このことが後年マッカーサーが罷免される要因になったと考える識者もいる。
翌1946年2月、昭和天皇は神奈川県を皮切りに、全国巡幸を開始する。
巡幸の目的は、敗戦に打ちひしがれた国民に、直接ねぎらいと励ましの言葉を賜る他、わが町・わが村に天皇陛下が来る!と知った各地の自治体が、急ピッチで道路や街並みを復興する原動力となることだった。

敗戦国の元首は、自殺・処刑・亡命が当たり前で、生き永らえた元首が地方を回れば、必ず民衆による暴動や暗殺が起こる。それが諸外国の「常識」だった。
だから、焼け跡の中、厳重な警備がつくわけでもない天皇巡幸に、マッカーサーは反対したが、GHQのメンバーの中には、そうなったら「天皇処刑」の手間が省けると考える者も少なくなかった。
しかし、巡幸が始まってみると、彼らはみな驚愕した。
わずかな供回りだけで車から降り立ち、気軽に帽子を振って民衆の中に飛び込んでいく天皇を、国民は暴動どころか大歓迎し、声をかけられると、涙を流して喜んだ。


天皇の戦争責任を追及しようと待ち構えていたある地方の共産党員は、近くに来た天皇の発する威厳と温かいオーラに圧倒され、思わず目頭が熱くなり、頭を垂れてしまったという。
マッカーサーと同じ現象だ。
それこそ、神話から数えれば父系で2600年以上続く天皇という存在の輝きであり、とりわけ敗戦という事態の中で、日本を絶やしてはならないという強烈な覚悟を持っていた裕仁という人の凄みなのだ。
1947年12月5日~8日、昭和天皇は広島を訪れている。

原爆投下からわずか2年と4カ月。「放射能の影響で子どもも産めない、結婚もできない」と気に病んでいた人々の心配が、天皇陛下の巡幸によってウソのように吹き飛んだという。
昭和天皇の巡幸は、極東裁判の判決が出た1948年を除いて1954年まで足掛け8年間続き、沖縄県を除く46都道府県に及んだ。沖縄県は、復帰3年後の1975年、沖縄海洋博の際に当時の皇太子=平成天皇=現上皇陛下が行啓された。
太平洋戦争で荒廃し、長い歴史の中で初めて他国に占領された国土を、昭和天皇はすべて御自分の足で歩き、国民と言葉を交わし、再び踏み固めた。
自分の命と引き換えに、国民を救うよう占領軍司令官に懇願し、全国を巡幸して、打ちひしがれた民衆を勇気づけた昭和天皇という存在がなければ、日本の復興は遅れ、各地で暴動が起こり、コミンテルンが企んでいたように、分割国家となっていたかもしれない。
日本国憲法第一条に言うまでもなく、天皇は国民統合の象徴であり、その地位は日本国民の総意だった。
お盆は、ご先祖様が子孫のもとに帰り、子孫はご先祖様のおかげで生きていることを実感する。それが日本人だ。
だから、ここ日本で、「二代前」の昭和天皇の顔を焼いて足で踏みつける動画を「芸術」と強弁し、「表現の自由」だと言って擁護するというのは、昭和天皇に勇気づけられて復興に励んだぼくらの「二代前」のご先祖様=日本人の心の歴史を丸ごと否定し、踏みつけているということになるのだ。そっちの方がよっぽど「憲法違反」なんじゃないのか。

8月30日から9月1日まで、中部国際空港セントレアに隣接して今年開業する愛知国際展示場「AICHI SKY EXPO」のオープニングイベント「Aich IMPACT!2019」が行われ、大村知事は「主催者代表」としてあいさつをするというのだが、その目玉は「KPOPアーティスト達が一堂に集結し、最高のパフォーマンスをお届けするKPOP FESTIVAL」なのだという。


K-POPに罪はない。

基本的に、音楽祭やアイドル、アーティストは頑張ってほしい。

IZ*ONEには、HKT48の宮脇咲良さんがいて、韓国では活動できない状態になっているのだし。

だけど、愛知には世界のMOAちゃんがいるのに、大村知事はなぜベビメタを呼ばなかったんだろう。
呼ばれても行かない? こりゃまた失礼しました。
(この項終わり)