芸術の定義 | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ
本日8月7日は、2010年、さくら学院が初めて東京アイドルフェスティバルに出演し、水野由結、菊地最愛が「転入」し、2011年には「お台場合衆国」に出演した日DEATH。

芸術作品が、社会の通念=公序良俗に反してはいけないとは全然思わない。
公序良俗に反した芸術作品の展示に、公費=税金が使われることがあってもよいと思う。
韓国の慰安婦少女像を「平和の像」と称し、「芸術作品」として展示した「あいちトリエンナーレ2019」の特設展「表現の不自由展・その後」が開幕3日目にして展示中止になった。


良かったと思う。
だがそれは、あの像が社会通念=公序良俗に反するからだという理由ではない。
あれはぼくの考える定義上、芸術作品とはいえないからだ。
たとえある時代や社会の公序良俗に反していても、そこに普遍的な「人間性の真実」が表現されていれば、それは芸術作品であるというのがぼくの考えである。
高邁な政治家の俗物性をあばいたカリカチュア。
政治的風刺漫画。高慢ちきな有名人のパロディ。
悲惨な境遇にあえぐ民衆のグロテスクな表現。
抑圧者としての宗教家への呪詛。
エロ・グロ・スカトロ・ナンセンス。
こうした表現は、その時代や社会の公序良俗に反することが多々ある。
だが、その作品に、その方法でしか表現できない人間の業のようなもの、普遍的で犯しがたい魂の叫び=真実があれば、それは鑑賞するに値する芸術といってよい。
そうした人間性に関わる真実の表現がある作品には、長い目で見れば、人類の、あるいは国民の目を開かせ、凝り固まった観念を変えていく価値があるのだから、どんなにその国、その時代の「保守派」から反対があろうとも、税金でそれを支援するのは正しい。
それが日本国憲法に規定された「表現の自由」の意味である。
同じあいちトリエンナーレに展示されている他の芸術作品も含め、世に芸術作品とされるものは、それぞれの作者が、言葉では表しようのない人間性に潜む真実を突き詰め、精魂込めて表現したものだ。
しかし、あの「慰安婦少女」像はどうか。
「日本軍による少女の強制連行」そのものが吉田清治によるウソだった。
それを報道し続けた朝日新聞社自体が、2014年に虚偽だったことを認め、謝罪している。
「日本軍に強制連行された少女」など存在しなかった。
「真実」がない以上、それが心揺さぶる「芸術」になるわけはないし、税金を使って展示する価値もない。
あの像は、人間の真実を訴求しようとして苦しんだ芸術家にこそふさわしい「表現の不自由」の名にすら、そぐわないのだ。
「芸術監督」は、そこを決定的に間違えた。
昭和天皇の顔を燃やす映像作品を展示することも含めて、彼は事前の動画で、「物議をかもすことに価値がある」みたいなことを得意げに語っていたらしい。
だが、それは作品に「人間性の真実」が含まれている場合に限る。
BABYMETALが、2014年に欧米デビューしたとき、「メタルか、J-POPか」で論争が巻き起こった。

その際、イギリスのメタル専門誌『Metal Hammer』編集長のマイク・サイラスは「物議をかもすこと自体がスゴイ」と言った。彼はBABYMETALの音楽に「メタルの真実」が含まれていることを見抜いたのであり、それは、その後の活躍で見事に証明された。
だが、「慰安婦少女」像にはどこにも「真実」がない。
要するに、「芸術監督」は、政治的プロパガンダと「真実」を見分ける目を持っていなかっただけのこと。ハッキリ言えば教養不足、お里が知れるということだ。彼を持ち上げたメディアも同様である。
1937年、ドイツ国家社会主義労働者党(ナチス)は、「偉大で健全なアーリア民族」を描いた作品だけを集めた「大ドイツ芸術展」をベルリンで開催する一方、シャガール、パウル・クレー、エゴン・シーレ、オスカー・ココシュカ、エミール・ノルデ、マックス・エルンストといった表現主義や構成主義、抽象画、シュルレアリスムの作品を集めた「退廃芸術展」をミュンヘンで開催した。


青年時代に写実的な風景画家を目指して美術学校に通っていたヒトラーにとって、これらの作品は「グロテスク」で「頭のおかしい者の目に映った風景」としか思えなかった。
だが、今見れば、それらの「グロテスク」な作品の数々は、異様な熱気をもって「あの時代」に生きた人間の苦悩や魂の叫びを伝えてくる。
逆にヒトラー好みの「健全なアーリア人種」の神話の中に置かれたヌードなどは、陳腐なピンナップ写真みたいに見えてしまう。
同じころ、ナチスの幹部で、ヒトラーと同じく芸術愛好家を自任していたヘルマン・ゲーリングは、占領したオランダで、17世紀オランダの画家フェルメールの作品が死蔵されていると聞き、メーヘレンという男から大枚をはたいて購入した。「エマオでの晩餐」という作品などは、なかなか売ってくれないため、すでに入手していたオランダの著名画家の作品と交換することになったという。


ナチスドイツ敗退後の1945年、メーヘレンはナチスにオランダの至宝であるフェルメールの絵を売った罪で起訴された。
ところが、メーヘレンは裁判所に絵の具を運ばせ、裁判官たちの前でフェルメールの絵を描き始めた。ゲーリングに売った絵は、すべてメーヘレン自身が描いた贋作だったのだ。
もともと写実主義的な絵画の名手だったメーヘレンは、卓越した技法で17世紀の絵画を再現し、それをナチスに売りつけ、結果的にオランダの絵画を救ったということで、国民の英雄になった。
このように、芸術作品に含まれる「真実」を見抜く力は、それっぽい作品から「ウソ」を見抜く力でもある。
ウソにもとづく慰安婦像を「芸術作品」として展示してしまった「芸術監督」は、そのどちらも持っていなかったということだ。

ああ、恥ずかしい。