日本の味方(9) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★本日7月23日    は、2011年、さくら学院2011年度New Departure転入式@渋谷Duo Music Exchangeにて、「イジメ、ダメ、ゼッタイ」が初披露された日DEATH。

本日よりMETAL GALAXY WORLD TOUR IN JAPAN 11月6日-7日@さいたまスーパーアリーナ、11月20日-21日@大阪城ホールのTHE ONE会員チケット最速先行抽選受付が始まりましたね。
受付期間は2019年7月23日(火)15:00~7月28日(日)23:59となっています。
THE ONE https://theone.babymetal.jp/
「諸君、首の準備はできているか
鋼鉄の心を胸に 新たな旅へと歩を進めるのだ!!」
とのこと。

一昨日の7月21日、韓国のアシアナ航空旅客機が、沖縄県の那覇空港で管制官の指示に従わず滑走路に侵入し、日本トランスオーシャン航空機の着陸を妨害したため、あわや大惨事という「準事故」扱いになったかと思ったら、23日早朝、島根県竹島上空を通過したロシア軍の偵察機に韓国軍の戦闘機F15が「領空侵犯」だとしてスクランブル発進し、360発の実弾を発射してしまった。もう滅茶苦茶だな、韓国。
「日本の味方」の続き。
では、縄文人の生活とはどんなものだったのか。とりわけ“日本人らしさ”につながる精神性はどんなふうにして形成されたのか。
国立歴史民俗博物館の山田康弘教授の『縄文時代の歴史』(講談社現代新書2510)は、長い長い縄文時代を草創期、早期、前期・中期、後期・晩期の4つにわけて、人々の暮らしがどのように変遷していったかを考証する入門書である。
入門書といってもその記述は膨大で、簡単に紹介することなどできやしないのだが、ぼくの読み方に間違いがなければ、1万4000年間、日本列島に現れた技術や文化様式は、教科書的に「縄文文化」とひとくくりにすべきものではなく、地域や時代によってさまざまな移り変わりがあること、そして、人々が変わりゆく気候や自然の脅威の中で、常に創意工夫を重ね、少しでも暮らしを良くする努力の歴史だったことがわかる。
7万年前から2万年前ごろの気候は「最終氷期」と呼ばれ、寒冷だった。当時の日本列島は、樺太・北海道がユーラシア大陸と陸続きだったが、対馬海峡付近は深いので、すでに朝鮮半島から切り離されていた。だから、日本列島に流入して縄文人のベースになった人々は、マンモスを追って北方からやってきたのである。
1万5000年前ごろ氷期が終わって気候が温暖化し、海面上昇によって日本列島は大陸と完全に切り離された。日本列島に「閉じ込められた」人々が、D1aハプログループをもつ縄文人となり、縄文文化を作った。
ところが、1万3000年前に気候は再び寒冷化(ヤンガードリアス期)し、その後1万1500年前に再び温暖化し、現在とほぼ同じ気候になる。
だから、縄文時代とひとくくりに言っても、徐々に温暖化し、世界最古の土器を作った1万6500年ごろから再び寒冷化するまでの3500年間と、1万3000年前に始まる寒冷なヤンガーアドリアス期の1500年間、さらに再び温暖化した1万1500年前から水田稲作が普及する2400年前ごろまでの9600年間は、それぞれ全く異なる気候や生態系だったはずなのだ。
過酷な自然環境の変化に応じて縄文人=日本人が生き抜いてこられたのは、土器をはじめとする生活技術の向上があったからだろう。自然豊かで、侵略者のいなかった日本列島は恵まれていたのだ、と簡単にいうことはできない。
1万6500年前に日本で発明された土器は、鍋という形で食物の栄養分を余すところなく摂取する方法だっただけでなく、生では食べられない食物のアク抜きや、酒などの発酵にも用いられたし、天然アスファルトを溶かしたり、防湿塗料としての漆を利用したりすることも可能にした。
また、縄文遺跡からは、植物の蔓を編んだ籠や生活用品のほか、黒曜石のナイフや、翡翠、琥珀、貝を材料にした装飾品も出土している。


これは、遠くの集落と交易していた証であるだけでなく、高度な専門性を持った「工人」が存在したこと、つまり共同体がある程度分業化され、「工人」を支える体制があったことを示している。
気候が大きく変動しても、創意工夫したモノづくり=技術革新があれば、生活様式が変わり、共同体は生き抜いていくことができる。工業、建築、工芸だけでなく、衣服、料理、商品開発や生活技術にいたるまであらゆる分野で、黙々と手を動かす職人や、イノベーションを起こす人が尊敬されるという日本人の精神性は、まさに1万6500年前の土器の発明が、共同体を救い、縄文人を生き残らせた原動力だったことに由来しているのだとぼくは考える。
では、なぜ日本で土器が発明されたのだろうか。
縄文時代を考える上で、興味深い視点を示してくれるのが『火山で読み解く古事記の謎』(蒲地明弘、文春新書1122)である。
筆者は、『古事記』の主要舞台が、九州の霧島火山群を含む鬼界カルデラ、三瓶山・大山を含む出雲地方、長野県の八ヶ岳周辺、かつて巨大な噴火があった和歌山県熊野地方、火山活動が盛んな東北地方など、火山と関係が深いことに着目し、どんなに工夫しても抗いえない火山こそが、縄文人にとっての「神」であり、『古事記』はその記憶によって作られたのではないかと喝破する。
そして、火山活動のあと、土が焼成されて硬くなっているのをヒントに、土器が生まれたとするのだ。
国宝に指定されている「縄文のビーナス」や「仮面のビーナス」は、八ヶ岳の山麓の縄文遺跡で出土した。それは、とても人間とは思えない不気味な姿をしている。青森亀ヶ岡で出土した遮光器土偶もそうだ。だが、土偶もまた土器のひとつだ。


土偶や宗教施設、墳墓、ストーンサークルは、縄文時代後期・晩期の遺跡から多く出土する。
生活技術のイノベーションによって生き残ってきた縄文人たちは、やがて「宗教」を発明するのだ。
縄文人たちの記憶を「テキスト化」したのが、日本神話=『古事記』だ。
火山である高千穂山に降臨した神々。そこで道案内をしたのは猿田彦命だった。
太陽神アマテラスが隠れたのは、日蝕によるのではなく、大規模な火山の噴火で吹き上げられた火山灰による暗闇ではなかったか。素戔嗚尊が戦った八岐大蛇とは、火砕流ではなかったか。だから、その中から鉄剣が現れたのではないか。神武天皇の一行が熊野の山で気を失ったのは、火山ガスによるものではなかったか。だから火山のパワーを利用した「かわらけ」=土器の欠片を奉納すると治まったのではないか。等々。
水田稲作が始まった時期に、天照大神を太陽神とする宗教=日本神話が生まれたというのは大間違いだと筆者は言う。
確かに日本人は火山をご神体として崇める。縄文時代の土偶や宗教施設が現存するのだから、稲作時代から宗教が始まったというのは誤りである。
だが、山岳信仰にとどまらず、日本人は、五穀豊穣、すなわち自然界のあらゆるものに神を感じるという心性も持っている。それはなぜか。
縄文時代の遺跡は水田稲作が始まった2400年前ごろから少なくなり、それ以降の遺跡からは、装飾の少ない弥生式土器が出土する。
前回述べたように、日本人のDNAには、もう一つの大きなハプログループ、華南由来のO1がある。
おそらく、日本固有のD1a=縄文人のベースの上に、2400年前ごろ、華南由来のO1グループが流入したと考えられるわけだ。
このグループは水田稲作という生活様式のイノベーションをもたらし、地域差はあるものの、両者が「融合」して現在の日本人が形成されている。
そして、その記憶もまた日本神話に反映されている。
日本神話の神々には、天照大神などの天津神系の神々と、素戔嗚の娘婿の大国主など国津神系の2つのグループが存在するからだ。
その系譜は錯綜しているのだが、単純に言って、伊勢神宮に祀られている天照大神が火山=縄文の神だとすれば、五穀豊穣を司る豊受大神は稲作=弥生の神だ。
まあ、そういう象徴に頼らなくても、ぼくらはそのことを毎日身近に感じている。
ぼくらはごはんを陶器のお茶碗に盛って食べる。
アジアの他地域のように、金属製の食器やプラスチックの食器は、日本では好まれない。
この姿こそ、縄文(=土器)に、弥生(=米)を盛りつけた日本文化そのものだとぼくは思うのだ。
「初心忘れるべからず」
絶えざる創意工夫で縄文時代1万4000年を生き抜いた縄文人と、米をもたらしてくれた弥生人のご先祖様に感謝し、その精神を毎日確認する。
それがぼくの考える日本人らしさだ。
(この項終わり)