日本の味方(7) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ
本日7月21日は、2012年、Legend~コルセット祭り@目黒鹿鳴館が行われ、2013年には、Join Aliveフェス@北海道いわみざわ公園に出演し、2014年には、Apocrypha-Y&M@TSUTAYA O-EASTが行われた日DEATH。

政治・社会に関する「日本人らしさ」の考察はこのくらいにして、芸能における日本文化の特徴をあげてみよう。
ヘヴィメタルのメロイックサインを教わったとき、影絵のキツネさんと間違えたことから生まれたヘヴィメタルの守護神FOX GOD=キツネ様とは、お稲荷さん=ウカノミタマ=御食津神=ミケツの神=三狐である。
総本社の伏見稲荷大社は秦氏によって創建され、ウカノミタマのほか、母である神大市比売とその夫である猿田彦命の三柱が主祭神として祀られている。


神大市比売はかつて天岩戸の前で舞い踊ったアメノウズメであり、天照大神の弟である素戔嗚尊との間にウカノミタマを生んだ後、天孫ニニギノミコトを道案内した国津神、猿田彦命と結婚して朝廷の祭祀芸能を行う猿女公(サルメノキミ)の祖となった。
つまり、キツネ様=ウカノミタマの両親は旅行と芸能の神である。
旅行と芸能の神に守られた三匹のキツネ。これはもはや、偶然とは言い切れない。BABYMETALは、マジで神話的存在なのかもしれない…。
ここまではこのブログで何度も書いてきたが、今回はもう少し伝統芸能寄りの話。
伏見稲荷を創建した秦氏の祖で、飛鳥時代に聖徳太子に仕えた秦河勝という人物は、能楽の始祖でもある。
ここからは、能楽師安田登氏の『能』(新潮社新書732)を参考にしながら書いていく。
能の大成者世阿弥は『風姿花伝』で、世阿弥の娘婿の金春禅竹は『明宿集』で、秦河勝に関する不思議な伝説を書き残している。
現在でも重要な能の演目のひとつである「翁」は、秦河勝によって作られたもので、五穀豊穣と国家安泰を祈る神事的な曲なのだが、『風姿花伝』では、河勝自身と思われる翁は、舞い終わるとすべてを子孫に託し、「世を背き、空舟に乗」って、西の海に漂流していく。
たどり着いたのは、現在の兵庫県赤穂市の坂越で、河勝はそこで空舟を拾い上げた海人たちに祟り、荒神として恐れられる。そこで神社を建てて祀るとようやく鎮まったというのだ。
坂越には現在も秦河勝を祀った大避(おおさけ、ダヴィデ)神社があり、不思議な「胡面」が残されているのは、都市伝説好きにはよく知られているだろう。


ともあれ、『明宿集』によれば、秦河勝の三人の子孫が一人は武士=大和長谷川党となり、一人は伶人=雅楽の東儀家に、一人は猿楽師になったという。それが観阿弥・世阿弥や、金春禅竹の妻のご先祖様だというのである。
つまり、秦氏、稲荷神、猿女公、猿楽、能楽は、日本の神話や芸能史のうえで、ひと続きになっていて、BABYMETALもまた、その流れに連なっているのだ。

何せ「メギツネ」MVは、阿佐ヶ谷神明社の能舞台で撮影されているのだからね。


さて、能の大成者、世阿弥は芸について、どう語っているか。
「初心忘れるべからず」
よく知られた言葉だが、世阿弥がオリジナルだったのですね。
安田登氏は、この言葉こそ、能が650年間も続いてきた秘伝だという。
ぼくらはふつう、この言葉を「いつまでも初心者だった頃の初々しい気持ちを忘れないようにしよう」というふうに解釈している。
しかし、『風姿花伝』で世阿弥が言っているのは、真逆だという。
「初」という字は、衣へんに刀。身につけた衣類を刀で切り裂くという意味である。
芸でも仕事でも、ある程度習熟してくると、知らず知らずのうちに身につけた「慣れ」のようなものが蓄積してくる。それを常に切り裂き、自分を更新していくことが大事だ、というのが、「初心忘れるべからず」の本当の意味だというのだ。
(前掲安田登『能』P.14あたり)
『風姿花伝』には「老後の初心」という言葉もある。
年をとって、社会的な評価や地位が固まってくると、どうしてもそこに安住しがちである。
しかし、それではいけない。
安定した生活を捨てるのは怖いが、それでもそこにとどまらず、新しいことに挑戦し、常に自分自身をバージョンアップしていく。それが能=芸事の秘訣だというのだ。
イマドキのサヨクは忘れ去っているようだが、1970年代のノンセクト・ラディカル用語に「自己否定」という言葉があった。今の自分を根本から疑え、否定せよ。そこで初めて新しい自分に出会える!というわけだ。
2017年12月のLegend-S-以来演奏されていないが、「BABYMETAL DEATH」も同じだ。
Kawaiiアイドルなのに、オープニングからいきなりデスメタルの曲調で「DEATH! DEATH!」と叫び、ジャンプする。これはこれまでの自分に「死」を宣告し、大音量の中で新しい自分に生まれ変わる曲なのだ。
考えてみれば恐ろしくラディカルな世阿弥のこの考えは、日本文化の基底に今も流れている。
ある製品が完成しても、決してそれで終わりにしない。少しでもより良いものに改善し、煮詰めていく。その積み重ねが、いつか他の追随を許さないクオリティに到達する。
ある製品が外国で発明され持ち込まれても、そのしくみを構造や原理のレベルまで分析し、やがて本家より数段優れたものに改良してしまう。
いわゆる“コピー大国”にはこういう精神がなく、手っ取り早くパクって儲けようと思っているから、常に「劣化コピー」になってしまう。
世阿弥の有名な言葉にはもうひとつ、「秘すれば花」というものがある。
これはどういうことか。
人から見られる芸能者にとって、「花」は最も大事なキーワードだ。
しかし、この「花」もまた、ぼくらが普通考える「華やかさ」とは真逆だ。
世阿弥は「花と面白きと珍しきと、これ三つは同じ心なり」という言葉も残している。
「面白き」とは、山道で花を見つけた時のような、目の前がパッと明るくなるような、暗い気持ちが吹き飛ぶような明るさ、美しさを指す。
「珍しき」とは、目が自然に連られていくような驚き、斬新さであり、日常性を揺るがすよな新しい切り口、物の見方を指す。
そして「花」とは、そういう明るさ、美しさ、斬新なものの見方と「同じ心」だが、それらを「秘すること」であるとされるのだ。
「秘すること」とはどういうことか。
安田登氏は、宝生新(ほうしょうあらた)師の芸談を例にとる。(前掲安田登『能』P.119)
江戸時代、お城で能を舞うことになった、新師の祖父にあたる新之丞が、師匠である父から稽古をつけてもらうのだが、どうしても一か所、うまくできない。悩みに悩んで工夫しながら稽古を続けるが合格点をもらえない。とうとう登城の日がやってくる。出番直前、お城に師匠から小さな箱がとどき、その中に「何気なく謡え」という紙が入っていた。
「何気なく謡え」。芝居がかった演技は不要。そこはそんなに誇張すべき箇所ではない。
稽古中に言ってもらえば何のことはない教えである。
しかし、悩みに悩んで本番直前に言われるからこそ、演者にはその本当の有難み、深みがわかる。要するに一か所でも完璧でないと悩み込む若い新之丞には、「全体の流れ」ということがわかっていなかったのだろう。
だがこれは、単なる「若き日の失敗談」なんかではない。能の表現の本質の話だ。
これでもか、これでもかと演出に工夫を凝らし、鬼面人を驚かすようなパフォーマンスは世阿弥が理想とした「芸」ではない。
明るさ、美しさ、斬新さ=「花」を、受け身の観客にもわかりやすく見せるのではなく、観客が自ら感じようとしなければわからないように「秘する」ことこそ、能という表現の本質であるというのだ。
「秘められた花」がわかったとき初めて、演じる者と観る者の心が交流し、舞台の上に時空を超えた幻が現出する。それが世阿弥の理想とした能なのだ。
初見さんにはわかりにくいよ。でも目と耳と心を研ぎ澄まして観れば、そこに秘められた「花」が見えてくる。そういう構造を持った芸が、能なのだ。
もちろん、日本にはもう一つ、スッポン、からくり戸、回り舞台、宙吊りまであるド派手なギミックと、「掛け声」=合いの手で観客が参加する歌舞伎という伝統芸能もある。
https://www.youtube.com/watch?v=LCboM7jZL6o
だが、これとて、役者同士の関係性や演目の歴史などを知れば知るほど、「ライブ」としての面白さが倍増するし、感動も大きくなる。
誤解を恐れずに言えば、能も歌舞伎も、「ファン参加」を前提としている。
観る者=ファンが、演じる者と同等、かつ能動的にふるまい、その場で消えてしまう幻の舞台を作り上げていくという了解が、日本の芸能の本質なのだ。
それは、つい最近までのテレビ、マスコミが一方的に流す情報に踊らされる「視聴者」や、レコード、CDの売り上げだけが人気のバロメータとされるのとは正反対だ。
その意味で、一切のメンバーのプライバシーを「秘し」、ライブでのパフォーマンスの中で、SU-やMOAやRIHOやKANOの感情を必死で読み取ろうと観客参加を強いるBABYMETALもまた、日本の芸の伝統の正統な継承者だといえる。
ダテにキツネ様の眷属に連なっているわけじゃないのだ。
(つづく)