日本の味方(6) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
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★今日のベビメタ
本日7月19日は、2017年、5大キツネ祭り in JAPAN 赤キツネ祭り@東京・赤坂BLITZ
が行われた日DEATH。

昨日、京都府伏見区の京都アニメーションスタジオで、放火による火災がありました。
このブログでも紹介した『中二病でも恋をしたい』や現在のガールズバンドブームの原点となった『けいおん!』も京都アニメーションの作品であり、ジャパニメーションの中心に位置するアニメ制作会社です。
お亡くなりになった33人の方々のご冥福と、重軽傷を負われた36人の方々の1日も早いご回復、京都アニメーションの制作体制が揺るがないことを心よりお祈りいたします。

イザベラ・バードは1803年にイギリスの牧師の娘に生まれ、50歳を過ぎて結婚した夫とともにインドに病院を設置した女性だが、旅行作家として世界中を旅し、女性初の英国地理学会特別会員に選出され、“ヴィクトリアン・レディ・トラベラー“と呼ばれた。
1878年(明治11年)、47歳のとき来日し、6月から9月まで、東京、日光、新潟、山形、北海道まで、10月からは神戸、京都、伊勢、大阪を旅し、『Unbeaten Tracks in Japan(邦題:日本紀行)』二巻にまとめた。
また、1894年(明治27年)から1897年にかけて、4度にわたり李氏朝鮮、清国を旅し、『Korea and Her Neighbours(邦題:朝鮮紀行)』を出版した。
日本が昔からどれほどいい国だったかを紹介するのに、イザベラ・バードを持ち出すのは、ネトウヨの証拠だという意見があるそうだが、それは、彼女が「ソウルこそこの世で一番不潔な町」と書いたからだろう。
確かに『朝鮮紀行』にそういう一節はあるが、朝鮮人の体格や容姿を日本人よりはるかに良いと言っているし、汚かったソウルの街並みが開化派の市長によって変貌していく様子も書き、世界の首都になり得るとまで誉めている。何より日本は二度だけだが、李氏朝鮮には四度も訪れ、王族にも謁見している。彼女の筆致は冷徹だが、近代化されつつある朝鮮を応援する心情が読み取れる。
イザベラ・バードをネトウヨ御用達だというのは、実際に彼女の著作を読んだことがない人ではないか。
『日本紀行』も『朝鮮紀行』も、140年前の白人女性の目に映った光景なのだから、いくら否定してもどうしようもない。目をそらさず、それから140年間に何があったのかを考える「原点」とすべきものだと思う。
まずは、『日本紀行』(講談社学術文庫)を見てみよう。


―引用―
上陸してつぎにわたしが感心したのは、浮浪者がひとりもいないこと、そして通りで見かける小柄で、醜くて、親切そうで、しなびていて、がに股で、猫背で、胸のへこんだ貧相な人々には、全員それぞれ気にかけるべきなんらかの自分の仕事というものがあったことです。 (上巻P. 43-44)
ヨーロッパの国の多くでは、またたぶんイギリスでもどこかの地方では、女性がたったひとりでよその国の服装をして旅すれば、危険な目に遭うとまではいかなくとも、無礼に扱われたり、侮辱されたり、値段をふっかけられたりするでしょう。でもここではただの一度として無作法な扱いを受けたことも、法外な値段をふっかけられたこともないのです。それに野次馬が集まったとしても、無作法ではありません。 (上巻P. 228)
ついきのうも革ひもが一本なくなり、もう日は暮れていたにもかかわらず、馬子は一里引き返して革ひもを探してくれたうえ、わたしが渡したかった何銭かを、旅の終わりにはなにもかも無事な状態で引き渡すのが自分の責任だからと、受け取ろうとはしませんでした。 (上巻P. 229)
彼らは丁重で、親切で、勤勉で、大悪事とは無縁です。とはいえわたしが日本人と交わした会話や見たことから判断すると、基本的な道徳観念はとても低く、暮らしぶりは誠実でも純粋でもないのです。 (上巻P. 237)
―引用終わり―
イザベラ・バードが歩いたのは、観光地ではない。日光以北、外国人はもちろん、日本人でも旅行しないような東北の農村地帯を、その足で歩いたのだ。
「小柄で、醜くて、親切そうで、しなびていて、がに股で、猫背で、胸のへこんだ貧相な人々」とか、「基本的な道徳観念はとても低く、暮らしぶりは誠実でも純粋でもないのです。」とかいうのは、決して誉め言葉ではないし、厳格な宗教道徳が染みついた19世紀ヴィクトリア朝の女性から見た正直な感想だと思う。
だが、「全員それぞれ気にかけるべきなんらかの自分の仕事というものがあった」とか、「ここではただの一度として無作法な扱いを受けたことも、法外な値段をふっかけられたこともないのです。」とか「彼らは丁重で、親切で、勤勉で、大悪事とは無縁です。」といった描写は、彼女の目に映った明治初期の日本人が、勤勉で、つつましく、誠実そのものだった証拠だと思う。
明治11年といえば、「ご一新」からまだ11年しか経っていない。
イザベラ・バードが歩いたのは、奥羽列藩同盟を結成して、最後まで新政府と戦った会津藩、上山藩、米沢藩、山形藩、天童藩、弘前藩、松前藩などがあったルートである。


明治4年に断髪令、明治5年に学制、明治6年に地租改正が行われ、人々の暮らしは大きく変わったはずだ。
中央では明治6年政変によって西郷隆盛らが下野し、明治9年には、華族・士族の俸給を廃止する秩禄処分と廃刀令が実施された。
イザベラ・バード来日の前年、明治10年には西南戦争が起こり、来日直前の明治11年5月には大久保利通が紀尾井町で暗殺されている。
「革命」と「反動」で揺れているはずなのに、しかし『日本紀行』に描かれた人々の暮らしは穏やかで、人心が混乱している様子はない。おそらく初めて見たであろう外国人女性に対しても、礼儀正しく親切である。
このような国民性はどこから来たのか。
これは、前代である江戸時代の統治が上手くいっていた証ではないか。
江戸時代260年間、米を中心とした経済体制で、海外交易は厳しく統制されていたが、各藩は治水事業や新田開発、商品作物の栽培など、努力し続けた。飢饉に見舞われた際には「お蔵米」を放出し、商人から借金をしてまで藩民の生活を支えた。
だから、藩民は基本的に「お上」の統治を信頼していた。
明治維新が起こったとき、その「お上」は一時新政権に抵抗したが、大勢が固まると、廃藩置県、秩禄処分、廃刀令を素直に受け入れた。
それは、支配者としての既得権よりも、庶民の暮らしが豊かになるなら、「近代化」「国際化」を推進する天皇中心の新政府へ統治権を委譲すること、またその一員として尽力することに異存がなかったからだろう。
統治機構や社会制度は大きく変わったが、庶民の暮らしは変わらなかった。いや、どんどん新しくなっていっても、「お上」への信頼が揺らぐことはなかった。
統治者が民を思うから、民は統治者を信頼する。だから「ご一新」からわずか11年でも、人々が穏やかだったのだ。
こんな「革命」を成し遂げた国は、世界のどこにもない。
イザベラ・バードは、山形県南陽市の赤湯温泉で、人々が湯につかる光景を見て、「東洋のアルカディア」だと書いている。
彼女がインドで病院を開くことになる医師の夫と結婚したのは日本旅行のあと、50歳のときだった。
長く独身を貫き、旅行作家としてアメリカ、カナダ、オーストラリア、ハワイ、ペルシア、インド、モロッコなど世界各地を巡った彼女にとって、日本が一種の理想郷に見え、家庭を持ちたいと思ったのかもしれない。
(つづく)

 

P.S いまや愛国コメンテーターとして活躍されている吉本芸人のほんこんさんが、7月20日に『日本のミカタ』という本を出版されることを、昨日知りました。しかし、本稿は、その宣伝を企図するものではありません。たまたま、本ブログが「私、BABYMETALの味方です」というタイトルで、テーマが日本文化の考察だったため、このタイトルにしたのですが、なんか魔が差してカタカナ表記にしてしまったのです。

誤解を避けるため、元の漢字表記に戻します。悪しからずご了承ください。m(__)m