日本の味方(5) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
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★今日のベビメタ
本日7月17日は、2016年、シカゴ・Open Air Festivalに出演。セカンドステージでも、メイン会場から観客がのぞき込む関心度を集めた日DEATH。

2019年3月16日、バングラディシュの首都ダッカから第二の都市チッタゴンまでのカチプール橋、メグナ橋、グムティ橋の修理と、並行する鉄鋼橋の新設整備が竣工した。


これは2015年に清水建設、大林組、JFEエンジニアリング、IHIインフラシステムの日本企業4社JVが、約900億円で受注したもので、原資は日本政府のODA、円借款によるものだった。
2016年1月に着工したが、2016年7月4日にダッカのレストランでテロ事件が起こり、工事が半年間中断した。にもかかわらず、日本のJV4社は工事を着々と進め、予定より数カ月早く竣工した。
工期が予定より早かったことで、費用は数十億円浮いたのだが、日本JV4社は、その分を自分たちの利益とせず、バングラディシュ政府に返還した。
日本の円借款による事業なので、最終的にはバングラディシュ政府は日本へ元本を返済しなければならない。少しでも早く工事を終わらせ、その分安くしてあげるのは日本人としては当然の感覚だが、これにバングラディシュの人々は感激し、称賛した。
いわく、
「こんな国は見たことがない」
「勤勉で誠実。これが日本人だ」
「すべての公共事業を日本に任せたい」
「わが国の政府高官に見習わせたい」
日本人にとって当たり前のことが、他国の人々を感動させる。
もうひとつ。
2013年10月29日、トルコの首都イスタンブールのヨーロッパ側と小アジア側を結ぶ海底トンネル「マルマライ」の開通式が行われ、日本から安倍首相が出席した。
ボスポラス海峡の地下にトンネルを掘るというアイデアは、オスマントルコ時代の1860年に計画されていたが、当時はそんな技術力はなく、「マルマライ」は“トルコ150年の夢”と呼ばれていた。
そんな夢の実現を請け負ったのが、日本の大成建設だった。


このプロジェクト最大の難所は、当然ながら海底トンネルの部分になる。ヨーロッパ側とアジア側から掘り進んでいけばいいはずだが、岩盤が固く、従来の工法では不可能だった。
そこで大成建設が考えたのが、あらかじめコンクリートで作った函体を海底に沈め、両側の陸地に掘ったトンネルと接続するという方法。
大成建設の技術者たちは、巧みな作業で、潮の流れの速い海峡の底60メートルに四角い函体を沈め、それを誤差数センチで陸側のトンネルとつなげるという難工事を成し遂げた。
このトンネル開通により、これまでヨーロッパ側から小アジア側へフェリーで30分かかっていたのが、鉄道で4分に短縮され、渋滞緩和に役立っている。
ちなみに、鉄道自体は韓国の現代ロテム社が請け負ったが、開通初日から車体のドアに不具合が出て、乗客がトンネルを歩いて渡るというトラブルが起こってしまった。
このように、日本が技術力で海外の人々を驚かせ、尊敬を集めている例は、枚挙にいとまがないが、日本の凄さは今に始まったことではない。
1903年、ライト兄弟は、自ら開発したフライヤー号で世界初飛行に成功した。
そのわずか7年後、1910年12月14日、日本陸軍の日野熊蔵は、ドイツ製単葉機ハンス・グラーデ号に乗って、代々木練兵場の上空60メートルの初飛行に成功した。さらにその5日後、12月19日には、同じく陸軍の徳川好敏大尉がフランス製複葉機アンリ・ファルマン号で3000メートル飛行した。
その翌年の1911年には、早くも初の国産飛行機「会社一号」が完成した。


アンリ・ファルマン号を参考にしたが、徳川大尉によって翼断面の形状・面積の変更と、各部を流線形にして空気抵抗を減らすなど各所に改良が施され、原機より上昇力、速度、操縦性もよかったという。
それから世界各国で飛行機の開発競争が始まったが、1940年に正式採用された日本海軍の零式艦上戦闘機は、支那事変から太平洋戦争初期まで、速度、航続距離、操縦性において、世界最強の戦闘機だった。あっという間に世界の最先端技術水準に到達してしまう。それが日本人だ。
1543年。漂着したポルトガル人から二丁の火縄銃(マッチロック式銃)を購入した種子島の領主、種子島時堯は、この新兵器の威力を知ると、刀鍛冶の金兵衛尉清定に銘じて分解させ、構造を調べさせた。清定は当初苦心惨憺したが、1年足らずのうちに火縄銃を複製することに成功し、種子島は火縄銃の生産地となった。
14世紀から16世紀の「大航海時代」、スペイン人とポルトガル人は、東南アジア(インド、モルッカ諸島、フィリピン)、中南米(メキシコ、ペルー)に植民地を広げていた。
その原動力が銃だったことは、ジャレド・ダイヤモンド『銃・病原菌・鉄』にも書いてある。
銃を知らない人々は、ポルトガルやスペインの敵ではなかった。少人数の白人たちは、あっという間にこれらの国々を侵略し、植民地化してしまった。
だが日本では、わずか1年で「国産化」しただけでなく、引き金にバネを用いて改良された日本独自の瞬発式火縄銃が開発された。その製造方法も含めて、火縄銃は堺の商人を通じて日本各地に広まり、戦国時代末期には、全国に50万丁もの火縄銃があったとされる。これは当時、ヨーロッパを含めても世界一の保有数だった。
これでは、いかに無敵のスペイン、ポルトガルといえども日本を攻略することなどできない。
日本は、有色人種を見下していたヨーロッパ人には想像もできないほど、知的好奇心と技術に長けた「工人」の国だったのだ。
その伝統は、さらに1000年以上さかのぼる。
紀元2世紀~3世紀、まだ倭国と呼ばれていた日本は、何度か中国の魏に使者を送っている。その際、魏の皇帝への献上品として持たせたのが、翡翠でできた勾玉だった。


勾玉は倭国の王族の印であり、現在でも皇室の「三種の神器」のひとつである。
翡翠は6.5度の硬度をもつ硬玉である。
当時最先端の物質だった硬度5.5度の鉄よりも固いから、鉄のやすりでは削れない。もちろん、現代のようにダイヤモンドやすりなんてものもない。あの独特の形や穴はどうやって加工したのか。
研究者によれば、おそらく、同じ硬玉を破砕して粉末にしたものを布などにつけて、磨きに磨いて形を整え、根気強く、少しずつ、少しずつ穴をあけていったのではないか。仮にそうだとすると翡翠の原石から4センチほどの勾玉ひとつを整形するのに、365日働いて約3年かかるそうだ。
だから、はるばる旅をして魏の都についた倭国の使者が皇帝に献上する勾玉は、たった3個だったという。それでも、魏の皇帝は鏡やら金印やら布やら、莫大な返礼を持たせて倭国の使者を返した。勾玉の加工技術の価値を知っていたからである。
日本は、建国以来、他国にはとうてい理解しがたい高度な技術をもつ「工人」の国だった。
その伝統が、古代においても、スペイン・ポルトガル人の来航においても、近代化においても、そしてもちろんクールジャパンの現代でも、日本という国の基盤なのだ。
技術とは、手を動かし、額に汗し、ああでもないこうでもないと試行錯誤しつつ、ただひたすら、より良いモノを作る作業に没頭すること、そのものである。
手仕事を嫌がらず、モノづくりを生きがいと思えるかどうか。そういう寡黙な職人を尊敬し、支える社会であるかどうか。
海外で、日本人とそのほかの東アジア人を見分ける方法というのがあるそうだ。
頭や首にタオルを巻いていたら日本人。
TOKIOの松岡クンを思い出してもらえばいい。ガテン系の男の子を「カッコいい」と思えるのは日本人だけなのだそうだ。
儒教文化の根強い国では、体を使うのは下賤であるという「身分観」があるため、労働者の恰好をするのは恥ずかしいという意識があるというのだ。
さもありなん。
日本ほど、職人が尊敬される社会はない。
一度出来あがったモノでも、改良に改良を重ねて、よりよいモノにしなければ気が済まない。そのためには作業に没頭してしまう。
日本文化の基盤には、そういう「工人」の価値観がある。
だからこそ、一朝一夕には真似できない高品質な日本の製品が生まれ、世界中で愛されているのだと思う。
そして、BABYMETALだってその一つだ。
ヨーロッパで生まれたヘヴィメタルという音楽をベースに、日本独自の「アイドル」文化を融合させ、それをライヴで実現するまで、練習に練習を重ねる。一度出来あがった楽曲や振り付けでも、どんどんアレンジを加えて、より良いものにしていく。
留まることを潔しとせず、手や体を動かし、たとえ少しずつでも進んでいく。
それが日本人だとぼくは思う。
(つづく)