日本の味方(4) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
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★今日のベビメタ
本日7月16日は、2013年、NHK「MJアネックス」に出演し、ローリー寺西にメタル脳を教わった日DEATH。

軍事転用可能な民生品の輸出管理について、韓国を8月に「ホワイト国」リストから除外することを前提に、高純度フッ化水素等3品目については前倒しで一契約ごとの審査とする措置が発表されてから2週間が過ぎた。
この間、日韓の報道を見ていてどうしても疑問に思うのは、なぜ韓国政府は、日本政府が指摘した「不適切な事案」の疑念解消と今後の改善を行おうとせず、措置の「撤回」を叫ぶばかりなのかということだ。
例えば、5月17日の朝鮮日報報道がもとになった156件の不正輸出摘発事例について、韓国は、日本政府がやっているように、企業の実名公表・裁判・処罰をしていないし、今回指摘されたように、こうした事実があるにもかかわらず、少なくとも過去3年間日本政府に報告していなかった。それはなぜかという説明もない。
7月15日、文大統領は、今回の日本政府の措置をいわゆる「徴用工」問題に対する報復だと非難し、「撤回」を求める声明を出した。
今回の措置が「安全保障上の懸念」であるという日本政府の見解や「事務的説明会」が終わった後になって出されたこの声明は、明らかに文政権がこの問題を意図的に政治的にすり替え、しかもすでに顕在化している経済政策の失敗を、「敵国」日本の今回の措置のせいにする意図がミエミエである。
ここからはぼくの想像だが、憐れなのは、2004年に「ホワイト国」リストに入るために、日本側担当者から国際的な輸出管理の方法を学び、それを語り伝え、こんな政権下にあっても、ここ数年156件の不正輸出を「摘発」した韓国の事務当局である。不正業者を厳しく取り締まり、処罰し、公表する権限を与えられず、日本政府に相談したいと思っても、できない圧力にあったのではないか。
もし今回「事務的説明会」に出席した方が、そういう実務者で、しかも政治的圧力を受けているので、国内向けには「撤回を要求した」「24日までに再度の協議」と嘘をつかねばならなかったとすれば、二重三重に可哀そうだなあ。

ところで、今回「説明」されたのは、なぜ今回この措置に至ったのかという理由と、「通常国」と同じく、個別契約ごとに必要な書式の書き方などの事務的手続きだったはずだ。
いかにも大変そうだという意見がネットにあふれているが、それは、ハッキリ言って日本国内のありとあらゆる許認可申請書類と同じくらいの種類と分量である。
ぼくは会社設立もしたし、各種補助金の申請書類を書いたこともある。コンサルタントとして私立中学校や日本語学校を設立した経験もある。その際、申請に必要な書式は確かに多く、面倒くさいものだったが、一つ一つ丁寧に揃えていけばなんとかなった。
しかも、今回は輸出に関する書類だから、主に日本の企業が作るものであり、輸入国側―韓国―はそれに応じた書類を揃えれば済むことである。
それをなぜ、政府レベルで嫌がるのか。なぜ「撤回」を声高に叫び、「世界に訴え」たり、日本製品不買パフォーマンスまで起こすのか。
どうしても日本政府に知られたくない事実があるのか、あるいは、どうしても日本を敵にしなければ気が済まない、政治的プロパガンダであるとしか思えない。

日本人らしさとは、このような声高で大げさで、嘘をついてまで相手を罵る心性とは無縁だ。
むしろ、苦境にあってもじっと耐え忍び、コツコツと実力を蓄え、望みを実現するまで顔笑りぬくのが日本人である。
以下、『アナザーストーリーズ』より要約。
1975年10月15日、広島東洋カープは初優勝した。
設立以来25年、Bクラスに甘んじ、3年連続でセ・リーグ最下位だった広島の監督に、この年就任したのは、日本のプロ球団で初めてのアメリカ人監督、ジョー・ルーツだった。
ルーツは、太平洋戦争中、南太平洋で日本軍と戦った海兵隊の伍長だった。
原爆を落とされた広島に招聘されたとき、ルーツの奥さんはきっと日本人から辛い扱いを受けるだろうという不安でいっぱいだったという。
しかし、広島の人々はルーツを歓迎した。ルーツ夫人が通り雨にあったとき、小柄な日本人女性が傘をさしかけてくれたという。
広島カープは、企業のバックアップがない市民球団として設立された。資金難だったため、設立当初は遠征費にもこと欠き、貨物列車で移動したこともあったという。
高額な選手を抱えることができず、広島出身者を中心に、無名だが、伸び代のある選手で固められていた。実力の差は練習で補うしかない。広島の猛練習は有名だった。
クリーブランド・インディアンズでのコーチ経験をもつルーツは、これらの選手が10年目を超え、実力が育っていることを見抜いた
投手陣は外木場義郎、池谷公次郎、佐伯和司。キャッチャーは水沼四郎。
打撃陣は、衣笠祥雄(サード)、山本浩二(センター)、三村敏史(ショート)、水谷実雄(レフト)といった生え抜きに、日ハムから移籍した広島生まれの大下剛史(セカンド)に、ルーツが連れてきたホプキンス(ファースト)とシェーン(ライト)。
ルーツが最初にやったことは、チームカラーを地味な紺色から赤色に変えることだった。
そしてミーティングでこういった。
「君たちには、優勝して広島の町を元気にする責任がある」。
1960年代後半から70年代にかけて、東京の読売巨人軍はV9を成し遂げていた。巨人と優勝争いをするのは、同じく大都市圏の大阪の阪神タイガースか、名古屋の中日ドラゴンズだった。
広島は、大都市でないどころか、原爆による焼け跡から復興中だった。それだけに広島カープは市民の希望の星であり、熱狂的なファンがいたが、当の広島カープ選手たちにとって、優勝という文字は縁遠いものあった。
その「負け犬」根性を、アメリカ人監督ルーツはぶち壊そうとした。赤ヘルで戦う意思を示し、優勝への意欲を植え付けようとしたのだ。
ルーツは、エース外木場に、41試合に投げ、20勝せよと厳命。また、「未完の大器」だった山本浩二を4番に据えることを決める。
これがルーツのペナント戦略の根幹だった。
だが、開幕4日目、ルーツは微妙な判定に激しく抗議し、退場になってしまう。
さらに4月27日、退場を命じられてもグラウンドを去ろうとせず、球団代表から説得されたのを機に、退団してしまう。
後を引き継いだのは、当時39歳の温厚で口下手なコーチ古葉竹識だった。
古葉は、広島生まれのカープ生え抜きで、被爆二世の妻と労苦を共にしてきた。南海時代に野村克也のもとでコーチとして活躍し、能力を高く評価されていた。広島に戻ってからは、英語辞書を片手にルーツからメジャー流の采配を学んでいた。
突然の抜擢に燃えた古葉は、鬼監督に豹変した。
シーズン前半を終えて3位。オールスターゲームに出場した山本浩二と衣笠祥雄が2打席連続ホームランを打った。YK砲の誕生である。
広島ファンの中にも「もしかしたら」という希望が芽生え、広島球場は連日超満員。派手過ぎると不評だった赤ヘルキャップを、広島の町中でみんな被り始めた。
「ここまで来て勝てなかったら何されるかわからん」という恐怖が選手たちへのプレッシャーとなって襲い掛かる。だが、原爆の後遺症に苦しみながら応援するファン、寝たきりで野球を見に行きたくても行けないファンの気持ちを考えて、選手たちは奮い立つ。
そうして、1975年10月15日。マジック1で迎えたデーゲーム。東京・後楽園で対戦したのは長嶋監督の巨人。
先発は、この日まで、ルーツとの約束で40試合を投げ、19勝をあげていた外木場。
5回、大下のタイムリー2ベースで1点を先制するがその後、追加点が奪えない。両チーム一進一退。9回表、1アウトランナー1塁で、大下がセーフティバントを決め、続くホプキンスが3ランホームランを放つ。
ゲームセットの瞬間、球場に広島ファンがなだれ込み、選手と一緒になって古葉監督の胴上げに参加した。
10月20日、平和通りで行われた優勝パレードに参加したのは、85万人の人口のうち、31万人。

そして並ぶ人々が手に手に、広島の優勝を待ち望んで亡くなった身内の遺影を掲げ、「おめでとう」ではなく、「ありがとう」と叫んでいたという。
原爆を落とされてから30年目。この日、広島は、ようやく復興を実感したのだ。


2016年9月19-20日、BABYMETALは、1975年に広島ファンがなだれ込んだ後楽園球場、のちの東京ドームに立った。
また、2017年12月2-3日、ぼくらメイトは、広島の町や原爆ドームを見学し、屋台が出ていた旧・広島市民球場にも立った。
その3日前の11月29日未明、北朝鮮は日本海に落下するミサイル火星15号を発射していた。

BABYMETALのおかげで、ぼくらは、敗戦の焼け跡から復興した広島の人々の思いに、ほんの少しだけ触れることができた。
それは、決して原爆を落としたアメリカへの恨みや憎しみを、声高な政治スローガンとして叫ぶようなものではない。
そうではなく、苦境にあっても毎日を誠実にコツコツと働き、明日の希望へと変えた人々の、たくましくも清らかな思いだった。
日本人らしさとは、そういうものではないだろうか。
(つづく)