日本の味方(3) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
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★今日のベビメタ
本日7月12日は、2016年、シアトル公演@SHOW BOX SODOが40分遅れでスタートした日DEATH。

さて本題である。
世界に伝えたい日本文化とは何か。せっかくMOAがそういっているのだから、ぼくなりに考察してみたい。
今年5月に改元された令和という年号が、『万葉集』巻五梅花の歌の序から採られたことにより、書店には『万葉集』の解説本が並んだ。
その中で、最もコンパクトに『万葉集』の魅力を解説しているのが、中西進の『万葉の心』(毎日文庫)だと思う。1972年に初版が上梓された名著だが、令和改元とともに、文庫版で再版された。
『万葉集』は全20巻4500首以上が収められた日本最古の和歌集で、今から1200年以上前の奈良時代末期783年ごろ、最終的に大伴家持によって編纂されたといわれる。


同時代の8世紀、中世ヨーロッパ各国では、キリスト教会が保有するラテン語文献以外には、文字で書かれた文学というものがなかった。
西アジアにはイスラム教が起こるが、神の啓示を受けたムハンマドは文字が書けなかったため、『クルアーン』が正典化されたのは7世紀中ごろとされる。『アラビアンナイト』などのイスラム文化が全盛期を迎えるのは、300年後の10世紀ウマイヤ朝である。
一方、現在の中国の領域では、孔子ら諸子百家が活躍した紀元前8世紀の春秋・戦国時代から、秦・漢、三国時代、晋、南北朝を経て、隋・唐代に至るまで、途切れることなく漢字による哲学や文学が栄えていた。とりわけ7世紀~10世紀の唐の時代は、李白、杜甫、白楽天など漢詩の全盛期だった。
同時期の世界で、唐は最先端の文化中心地だったのだ。
古代の日本に文字がなかったという定説は、各地でいわゆる神代文字のペトログリフが大量に見つかっていることから覆されつつあるが、中国と通交し始め、漢字を公式に使い始めた頃をもって歴史の黎明期とするのが通例である。
推古天皇・聖徳太子・蘇我氏が活躍していた飛鳥時代の遣隋使を皮切りに、日本は、先進国である隋・唐から政治制度や仏教を学んでいた。
貴族たちの漢詩集『懐風藻』は、『万葉集』より早い751年ごろに成立しているが、『万葉集』は中国語である漢詩ではなく、日本語で詠まれたものを、漢字の「読み」だけで表現した「万葉がな」による和歌集である。
つまり、『万葉集』は、東アジア全域に及んだ巨大な中国文化の影響とは別に、初めて日本人が日本語で表現した文学作品なのであり、「日本文化」「日本人らしさ」の原点といえるだろう。
そして、ぼくの考えでは、『万葉集』はどんな身分や境遇にあっても、人間は自然の美しさに感じ入り、恋をし、貧しさを嘆き、愛する人を失う悲しみに慟哭する心を持つという点で、みな平等であるという日本人の人間観が如実に表れた作品である。
歌のジャンルは、宴や旅の情景を描いた「雑歌」、男女の恋を歌った「相聞歌」、人の死を扱った「挽歌」の3つに分類できるが、作者は天皇や貴族から、下級役人、地方出身の兵士である防人や農民やその妻、名もなき娘子、大道芸人、売春婦、泥棒まで、さまざまな身分にわたる。もちろん男女も半々である。巻十四の「東歌(あずまうた)」に至っては、大和朝廷から遠く離れた信濃・遠江・駿河・伊豆・相模・武蔵・上総・下総・常陸・上野・下野・陸奥といった地方から採られた歌だけで構成されている。
『万葉集』は天皇の命によって編纂された『古今集』のような勅撰和歌集ではない。
だが、柿本人麻呂、大伴旅人、山部赤人、大伴家持といった奈良朝の宮廷歌人が、おそらくは朝廷のコンセンサスの元で膨大な歌を集め、撰び、まとめた。そこには、当時の日本のあらゆる階層、あらゆる地方から歌を集めたいという強い意志が働いていたと思われる。
こんな形式の文学作品は世界に例を見ない。
他の国では通常、才能ある詩人が宮廷に厚遇で招かれて王を賛美し、王家のために英雄譚を語るのが文学の始まりである。はなはだしいところでは、支配者と庶民の言葉とが別で、ラテン語とか漢語を知っているのは王に使える貴族や僧侶だけだったから、「庶民の詩」など存在しない場合も多かった。
だから、国中から人々の思いを込めた「歌」を集めるという『万葉集』の形式自体、日本という国が、言語的に同一で、しかも王である天皇が武力で民を支配し、奴隷として使役する国家ではなく、庶民の思いを受け止めようとする国だった証なのである。
さて、『万葉集』では、初めて「歌」の定型化を行った。
日本語は、子音(例:K)+母音(例:A)で一音節(例:KA)となる。
五音節を短句、七音節を長句という。
五七五七七の五句からなるのが短歌。
五七を五回~十回続け、最後に五七七と結ぶのが長歌。
五七七を二回繰り返すのが旋頭歌。
定型化という発想は、漢詩から学んだものだろうが、日本語には五七というリズムがふさわしいという発見は日本オリジナルだ。
五七のリズムが「歌」になる日本語が、少なくとも天平時代には、南は南九州の肥後国から北は東北地方の陸奥国まで、全国共通だったということもここからわかる。
定型化とは様式美のことだ。
定型化することは、一見自由な表現を制限するもののように思えるかもしれないが、そうではない。一定のリズムを踏もうとすることで、言葉が選ばれ、無駄なものがそぎ落とされ、洗練されて、口語とは異なる「歌」になる。
漠然とした感情が、「歌」にしようという意思によって、永遠に残る「表現」になる。
これが「歌」の本質だ。

籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 堀串(ふくし)もよ 
み堀串(ふくし)持ち
この丘に 菜摘(なつ)ます子
家聞かな 名告(の)らさね
空みつ 大和の国は おしなべて 我こそあれ
しきなべて 我こそ坐(ざ)せ
我こそは 告(の)らめ 家をも名をも
(雄略天皇、巻一、一)

雄略天皇が、籠と菜を摘むための“堀串=シャベル”を持って、丘の菜の花を摘んでいる少女をナンパする歌である。これが『万葉集』の最初の歌なのだ。
家を教えてくれよ、名前教えてくれよというのだから、ここには身分はなく、ナンパ男とカワイイ少女の関係性しかない。モジモジしている少女に「じゃあ、おれから名乗るね」といって名乗ったら天皇だったというオチである。
それを「歌」にして記録する。日本はこういう牧歌的な国だったのだ。強制連行したわけではない。

冬ごもり 春さり来れば
朝(あした)には 白露置き
夕(ゆうべ)には 霞たなびく
風の吹く 木末(こぬれ)が下に 鶯(うぐいす)鳴くも
(作者未詳、巻十三、三二二一)

作者はわからないが、春が来た喜びを歌った歌である。五七の二句が三回繰り返され、最後が五七七になっている。木末(こぬれ)とは若い枝のこと。「冬」「春」「朝」「夕」が対句になっていて、1200年の時を超えて、絵のような情景が脳内に広がる。

―部分引用「Distortion」―
♪ひずんだカラダ叫びだすoh ooh oh ooh oh ooh oh
ひずんだイタミ切りつける
キタナイセカイだった
ひずんだツバサ飛べるならoh ooh oh ooh oh ooh oh
ひずんだシハイ恐れない
偽善者なんてKill捨てちまえよ
―引用終わり―

いきなりで申し訳ないが、「Distortion」だって、『万葉集』から連綿と続く「歌」の形式を踏襲している。
「カラダ」「イタミ」「ツバサ」「シハイ」が3音節で対句になっており、それが「ひずんだ」という直喩と結びつくことで、鋭い感情を表す表現となっている。
もちろん五七五ではなく8ビート裏拍だが、リズムに乗ることで、聴く者の耳に荒廃した世界とそこを疾走する少女たちの気迫が伝わってくる。
このように、『万葉集』以来、ぼくら日本人は言葉というものをとても大切にしてきた。言葉には魂が宿っているという「言霊」信仰にまで高められたのが日本語であり、日本文化である。
平気で嘘をつくとか、嘘も百回言えば真実になるといった感覚は、日本人には理解しがたい。
むしろ、短く、研ぎ澄まされた言葉の行間を読み、相手の心情を思いやり、汲み取るという心遣いこそ、日本文化の神髄である。
そしてそれには、天皇も庶民も、同じ心を持っているという人間観が根底にある。
だから、「ヘドバンギャー!!」で、「もう二度と戻“ら”ない」が最後に「もう二度と戻“れ”ない」に変わるBABYMETALの「歌」は、一字一句を大切にする、まさしく日本文化そのものだとぼくは思うのだ。
(つづく)