全米1位になる日(4) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ
本日6月6日は、2015年、ROCK IN VIENNA フェス@オーストリア・ウイーンに出演し、2018年には、オランダ・ユトレヒト公演@Tivoli Vredenburgが行われた日DEATH。

「上を向いて歩こう」のメロディは、エルビス・プレスリーの「Heart Break Hotel」や「監獄ロック」のようにⅠ→Ⅳ→Ⅴの3コード&ペンタトニックを使ったR&Bではなく、パッヘルベルの「カノン」のような循環コードでもなかった。
Key=Gで、4/4の4ビートのジャズのリズムに、素朴なマリンバのリフ。そこへ分厚いストリングスのハーモニーが重なるイントロ。
歌に入ると、コードは「♪(G)上を(Em)向いて(G)歩(Em)こうォォォ」とじらすように繰り返し、「♪(G)涙が(Bm)」で、初めて次のコードへ展開し、「♪こぼれ(Em)ないよ(D)ーうォォに」と、次の展開を予感させるKey=GのⅤであるDへ進む。
だが、R&BによくあるAメロの繰り返しではなく、「♪(G)思い出す(Am7→C)春の日(B7)」と歌詞に連動したドラマティックなマイナー展開になり、最後はR&BにありがちなⅣ(C)→Ⅴ(D)→Ⅰ(G)ではなく、「♪(G)一人(C)ぽっ(Bm)ち(Am7)の夜(G)」という解決の仕方をしている。
これは、R&Bやロカビリーの文法からは明らかに異なるコード進行であり、強いて言えば数年後のビートルズ(ポール・マッカートニー)のようなコード感である。
極めつけはサビメロで、「♪(C)幸せは雲の(G)上に(G7)」のところは定石だが、次の「♪(Cm)幸せは空の(G→A7)上に(D)」のところで、Ⅳをマイナー(転調)にしてしまうところがビートルズっぽい。というか、中村八大の方が先だ。
変則的なコード進行は、見事なストリングスのクリシェによって、違和感なく仕上げられている。
間奏部は口笛。これによって、孤独な青年が都会の夜を歩いていく映像がぐっと出てくる。
ユニークだが非常に聴きやすく、完成度の高い編曲。
1963年のアメリカ西海岸の若者たちは、数年後のビートルズを思わせるようなおしゃれで自然なコード進行と、坂本九のビブラートとファルセットを多用したロックっぽい歌唱に惹きつけられたのだろう。歌の内容は日本語なのでよくわからない。だが、どうやら「Heart Break」(失恋)や「Urban Loneliness」(都会の孤独)を歌っているらしい。
坂本九は、日本人としても小柄で、顔はニキビの痕だらけだが、素晴らしい笑顔を見せるキュートな少年のようだ。
その彼が「一人ぽっちの夜、涙がこぼれないように上を向いて歩こう」と歌う。
その姿は、田舎から出てきて都会で働く貧しい少年工員のようにも見え、敗戦ですべてを失った悲しみから、必死の努力で復興した日本人の象徴のようにも思える。
日本は、軍国主義から解放され、”民主化“されて、アメリカと共通の大衆音楽を創ることができるようになった。翌年1964年はアジアで初めて開催される東京オリンピックである。


だから、「SUKIYAKI」の大ヒット後に、ニューヨーク市長をはじめ1万人のファンが空港で坂本九を出迎えたのは、「おめでとう」「よくがんばったね」という復興後の日本への「祝福」「歓迎」のように見える。
だが、こういうアメリカ人の態度は、日本人から見ると完全な「上から目線」ではないか。
「上を向いて歩こう」は、「SUKIYAKI」ではなく、アメリカ人のために創られたものでもなかった。
サビの歌詞をもう一度見てみよう。
「♪幸せは雲の上に 幸せは空の上に」
これは、まだまだ幸せは程遠く、手の届かないところにあるという意味だ。
2番のサビはこうなっている。
「♪の悲しみは星の影に 悲しみは月の影に」 
この曲が創られた1961年時点で、夜空を見上げるたびにこみ上げてくる「悲しみ」とは、先の大戦で亡くなり、星になった親類・友人・縁者のことではなかったか。
太平洋戦争で日本の民間人犠牲者が100万人も出たのは、米軍が戦争末期に日本の主要都市への無差別爆撃を行ったためである。軍人の犠牲者数が米軍の5倍に達したのも、実は同じ理由による。
1922年以降、日本は、西太平洋赤道以北のミクロネシア海域にあるマーシャル諸島(ヤルート島、クェゼリン環礁)、マリアナ諸島(サイパン島、テニアン島)、カロリン諸島(トラック島)、パラオ諸島(パラオ島、ペリリュー島)の統治をしていた。
これらの島々は、日本が太平洋戦争で奪ったものではない。もともとドイツ領だったのを、第一次世界大戦後、国際連盟の決定によって、委任統治することを託されたものである。
日本は政府内に「南洋庁」を置き、これらの島々にドイツがほったらかしにしていたインフラを整備し、公教育制度を設置するなどして開発・発展に努めていた。


太平洋戦争開戦からわずか半年、日本軍はミッドウェー海戦で4隻の主力空母と航空機289機を失い、以降、米軍の圧倒的な戦力により制海権、制空権を奪われた。
1944年6月のマリアナ沖海戦で、3隻の空母と476機の航空機を失って日本軍が惨敗すると、米軍はクェゼリン環礁を皮切りに、トラック島、サイパン島、テニアン島、ペリリュー島と次々に日本の委任統治領に侵攻してきた。日本本土への直接爆撃の前進基地にするためである。
補給ルートを断ち切られ、これらの島々で孤立した日本軍守備隊は、米軍の猛攻に必死で抵抗した。
少しでも本土爆撃を遅らせる。そのために、ペリリュー島や、マリアナ諸島の北、小笠原諸島南端に位置する日本領硫黄島では、岩山にトンネルを築いてゲリラのように戦うという「縦深防御戦術」をとって、1ヶ月以上耐え抜き、米軍の上陸を阻止した。南洋の日本兵たちは文字通り命を懸けて日本にいる家族を守ろうとしたのだ。
だが、圧倒的な米軍の戦力の前に、日本軍守備隊は次々と「玉砕」=全滅し、これら南洋の島々は米軍に奪われ、サイパン島は東京大空襲の拠点となり、テニアン島は広島・長崎に原爆投下をした爆撃機の発進基地となってしまった。
こういうわけで、日本に民間人の犠牲者が多いのも、南洋の戦死者が多いのも、同じ理由、すなわち米軍の本土無差別爆撃という戦略によるものといえるのだ。
非人道的なこの戦略は、結局アメリカに勝利をもたらした。
テニアン島から飛来した爆撃機が広島・長崎に原爆を投下し、日本政府はポツダム宣言を受諾せざるを得なかった。
戦後、日本を占領したGHQは、War Guilt Information Program(WGIP)で、太平洋戦争で軍民300万人もの犠牲が出たのは、アメリカ軍の無差別爆撃のせいではなく、日本のファシスト軍部がアジア植民地支配の野望に駆られて独走したためであるという「公式見解」をマスコミや教育を通じて日本人に刷り込んだ。新憲法では国際法で認められている自衛権をあいまいにして、戦力を保持することを禁じ、武装解除した。伝統文化や愛国心は“民主化”の障害のように扱われ、アメリカへの報復感情は徹底的に封じ込められた。
日本の戦後は、そういう思想統制のもとにあったのだ。
「涙がこぼれないように上を向いて歩く」というのは、「戦争で殺された者への悲しみやアメリカへの怒りの感情が表出されないように、遠い先にある幸せだけを願って生きる」ということではなかったか。
ただ、重要なことは、この歌のように国民が生きることで日本は高度経済成長し、紆余曲折はありつつも、現在の繁栄を手にしたということである。
ぼくは右翼でも左翼でもない。
ただ、歴史的事実を覆い隠し、嘘のストーリーで塗り固めるのには反対である。
太平洋戦争や大日本帝国時代の海外統治については、従来隠されていた様々な事実が明らかになり、WGIPの歴史観は見直されている。事実に基づかない、あるいは誤解に基づく政治的主張は、毅然とした態度で糺すべきだと思う。
同時に、「正しい」ことだけが政治の目的であるとも思わない。
完全無欠に「正しい」政治体制などというものはない。政治の役割は「最大多数の最大幸福」を実現することであって、妥協や難しい選択の連続であるはずだからである。
独裁国家による自分たちは絶対に間違いを犯さない唯一無二の政権であるという主張は、事実を捻じ曲げて作り上げた嘘のストーリーそのものだ。日本はそうなってほしくない。
太平洋戦争の真実は、ちゃんとある。だが、昭和天皇の「堪え難きを耐え、忍び難きをしのび」という終戦の詔勅に従い、日本人は「正しさ」や「悔しさ」を一旦保留し、「涙がこぼれないように上を向いて」生きることを選択したのだ。
そのおかげで、今ぼくらはここにいる。
ぼくら世代の役割は、父祖たちが涙をこらえて一旦保留した「正しさ」や「悔しさ」を掘り起こし、再検証することだろう。
それはともかく、1961年の「上を向いて歩こう」は、1963年「SUKIYAKI」としてアメリカ人の心の琴線に触れ、大ヒットした。坂本九の歌唱に、歌でしか表現できない「何か」があったからではないか。
もちろん「上を向いて歩こう」に、そういう日本人の感情が含まれているというのは、ぼくが勝手にそう考えているだけで、永六輔が生きていたら、「そんな読み方をするな!」と怒られたかもしれない。
大衆音楽というものは重層的なものであって、アメリカに渡った「SUKIYAKI」は、失恋した孤独な青年の歌であると解釈されてもいいし、戦後のアメリカン・ポップスのグローバルな広がりのひとつとして位置づけられてもいい。
「ギミチョコ!!」以来、BABYMETALが欧米で受け入れられているのも、多様化し、細分化されていたメタルというジャンルを総合し、ポップ寄りにした音楽だからであると考えてもいいし、逆に世界を制覇している16ビート一辺倒のダンス・ミュージックをメタル化し、新しい分野を開拓したからだと解釈されてもかまわない。
だが本質的には、1963年の坂本九のように、2014年に欧米の音楽市場に登場したBABYMETALという存在、楽曲は、少なからぬ欧米人の心をとらえたのだと思う。
そのBABYMETALらしさをもっと深く、広く伝えることが、全米1位の条件だろう。
(つづく)