全米1位になる日(3) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ
本日6月5日は、2015年、イタリア・ボローニャ公演@ボローニャEstragon Clubが行われ、2016年には、FORTAROCKフェス@オランダ・ナインメーヘンGoffertparkに出演し、2018年には、オランダ・ユトレヒト公演@TivoliVredenburgが行われた日DEATH。

ライブ連動でCD実売7万枚を確保しても、有力アーティストのリリースと重ならないなど、よほどの幸運に恵まれないと全米1位にはなれない。最低初動10万ユニット、できれば20万ユニットは欲しい。
CD実売をあと数万枚上乗せするとともに、ライブに来ない人のストリーミングを稼ぐことが必要である。
ビルボード200のルールでは、アルバムの収録曲をどの曲でも合計1500回ストリーミングすると、アルバム1枚とみなされる。ダウンロードだと10曲で1枚だ。
これがイギリスだと、主要曲2曲はシングルとみなされてしまうのだが、それはまた別の話。アメリカではとにかくストリーミングしてもらえるシングルカット曲、それもストリーミング数を稼ぐために、複数作ることが重要なのだ。
どうやってシングルカット曲をヒットさせるか。
それはもう、国境を超えて、人々がもう一度、もう一度と聴きたくなる楽曲を創るということに尽きるだろう。
1963年、坂本九のアルバム『SUKIYAKI and other Japanese Hits』は、ビルボード200で14位だった。だから、もしBABYMETALのニューアルバムが全米1位となったら、前人未到の大記録である。
だが、その元となった「SUKIYAKI」(邦題:上を向いて歩こう)は、シングル曲としてビルボードHot100で全米1位だった。
インターネットもなく、太平洋戦争の記憶も生々しい1963年に、アメリカ人たちは「SUKIYAKI」のメロディと歌詞、坂本九の歌唱に強く心惹かれ、地元のレコードショップでEPを買い、ラジオ局にリクエストしたのだ。その数が、何のカラクリもなく全米で一番多かった。
誰かがコメントしていたが、確かに1963年と現在とでは、社会情勢が全く異なっている。だが、「SUKIYAKI」のヒットは、日本人の音楽が、アメリカ人の心に届いたという意味で、BABYMETALの指標とすべきものだと思う。
なぜ「SUKIYAKI」はアメリカ人の心をとらえたのだろう。
音楽とは、市場原理で動く資本主義社会にあって、もっとも民主的なものである。
ある歌を好きになっても、腹が膨れるわけでもなく、自分の身が守れるものでもない。一切の利害と関係なく、スキはスキ、キライはキライなものが音楽だ。
なけなしのお金をはたいてレコードやCDを買う。
あるいはラジオ局に電話をかけてリクエストする。
それはその曲が聴きたいからだ。
そのアーティストの歌が聴きたいからだ。
だから先ほどの問いは、「なぜアメリカ人は1963年に坂本九の歌を好きになったのか」という質問に転換できる。
1941年~1945年の太平洋戦争で、日本はアメリカの敵国であった。
ウィキペディアによれば、大戦中の犠牲者(死者)数は以下のとおり。
日本 人口7138万人 軍人212万人 民間100万人 合計312万人(人口比4.4%)
アメリカ 人口1億3102万人 軍人41万6800人 民間1700人 合計41万8500人(人口比0.3%)
なぜこれほど大勢の犠牲者が出たのか、とりわけ日本の民間人犠牲者がなぜこれほど多かったのかは、ここでは論じない。歴史的事実として、アメリカは広島と長崎に原子爆弾を落とし、日本はポツダム宣言を受諾した。
アメリカ主導のGHQによる占領期を経て、1951年、日本はサンフランシスコ講和条約と同時に日米安全保障条約に調印、翌1952年に主権を回復した。
1950年に勃発した朝鮮戦争の特需で、日本の産業は活気を取り戻し、経済は目覚ましく復興した。戦時中は禁止されていたアメリカ文化が戦後の日本に流れ込み、音楽ではジャズ、R&B、ウェスタン/ロカビリー、ハワイアンが大流行した。
そして1961年8月、NHKのテレビ番組『夢であいましょう』の「今月のうた」のコーナーで、ウェスタンカーニバルの新人賞を受賞してソロ歌手になっていた坂本九が歌う「上を向いて歩こう」が初披露された。
10月にレコードが発売されると30万枚を売り上げる大ヒットとなり、『ミュージック・ライフ』のレコード売上ランキングで1961年11月~1962年3月までの3カ月間、1位を維持した。


―引用―
「上を向いて歩こう」作詞:永六輔、作曲:中村八大、歌:坂本九
♪上を向いて歩こう 涙がこぼれないように 思い出す春の日 一人ぽっちの夜
上を向いて歩こう にじんだ星をかぞえて 思い出す夏の日 一人ぽっちの夜
幸せは雲の上に 幸せは空の上に
上を向いて歩こう 涙がこぼれないように 泣きながら歩く 一人ぽっちの夜
―引用終わり―
1962年、イギリスのジャズトランぺッター、ケニー・ボールが、日本でヒットしていたこの曲を気に入り、インスト曲として演奏し、全英チャートで10位にランクインした。
インストなので、タイトルは歌詞とは無関係に欧米人も知っている日本料理「SUKIYAKI」になった。
一方、アメリカ・ワシントン州のラジオ局で、坂本九の「上を向いて歩こう」を「SUKIYAKI」として紹介すると、10代のリスナーから問い合わせが殺到した。
この曲は中村八大が4ビートの曲として作曲したが、坂本九はロカビリー時代、ギターを叩き壊すなどの過激なパフォーマンスをしたこともあり、レコーディングでは8ビートのロック的なビブラートの効いた歌い方をした。これが当時アメリカで人気絶頂だったエルビス・プレスリーの初期の歌唱法を思わせたのかもしれない。
キャピトル・レコードがこれに目をつけ、坂本九に英語で歌わせようとしたが、GIとして駐日経験があったプロデューサーが日本語の方がよいと主張し、結局、オリジナルバージョンのまま、1963年5月に全米で発売された。
すると、ビルボードのBillboard Hot 100で6月15日付から6月29日付まで3週連続、キャッシュボックスTop 100で6月15日付から7月6日付まで4週連続1位の大ヒットとなった。
BABYMETALと同じく、坂本九も日本語で歌っていたのだ。
同年8月にキャピトルの招きで渡米した坂本九は、3000人(一説には1万人)を超えるファンやニューヨーク市長、ディズニーランド副社長らに出迎えられ、テレビ番組「スティーブ・アレン・ショー」にゲスト出演すると、さらに売り上げが上昇して100万枚を突破。外国人として初めて全米レコード協会ゴールドディスクに認定された。
「SUKIYAKI」は現在までに約70ヵ国で発売され、総売り上げは1300万枚以上とされる。
以上ウィキペディアの受け売りだが、1963年の「SUKIYAKI」がアメリカの音楽ファンに好まれたのは、まぎれもない歴史的事実なのだ。
最初に「SUKIYAKI」への問い合わせをした西海岸の若いリスナーは、おそらく坂本九が日本人であることは知っていただろうが、「旧敵国」意識などほとんどなかったに違いない。
むしろ、新しい音楽=ロックの旗手エルビス・プレスリーのような歌い方をする日本人歌手が登場したのを歓迎したのだと思う。
1950年代~1960年代初頭、各地のプロレス興行では、グレート東郷、ハロルド坂田、キンジ渋谷、ミツ荒川、トージョー・ヤマモト、プロフェッサー・タナカ、ミスター・フジなど日系悪役レスラーが大活躍していた。
当時のプロレスはわかりやすいショーだったから、坊主頭に股引きと下駄をコスチュームとし、急所攻撃、塩を相手の目にすり込むなど、「真珠湾奇襲」を思わせる「敵国の卑怯なジャップ」を演じるヒール・レスラーたちが、観客の憎悪の的となり、それを“正義の味方”のアメリカ人ベビーフェイスレスラーがやっつけることで、興行が成り立っていたのだ。
だが、それが一般的な意識だったかというと、そうでもなかったと思う。
アメリカの太平洋戦争での死者は人口の0.3%に過ぎなかったし、日本はアメリカに負けて“民主化”し、ソ連、中共、北朝鮮に対する資本主義陣営の一員になったのだから、ノーサイドだ。こう考えるアメリカ人はかなり知的レベルが高い人で、日本と特別な関係のない大多数のアメリカ人は、日本がどこにあるか、中国や朝鮮とどう違うかさえわからず、意識もしていなかっただろう。
1960年、ソニーはアメリカに現地法人を設立し、本格的にアメリカでの製品販売網を確立していった。トヨタも1958年に西海岸と東海岸に販売店を設置したが、販売不振で1961年には一時撤退している。トヨタの快進撃が始まるのはもう少し後だ。


1ドル=360円の固定相場制は1971年まで続いた。今から考えれば超円安なので、日本製品の対米輸出競争力は高かった。強すぎるので、日本製品の競争力を削ぐために、1971年に変動相場制が採用され、現在に至っているわけだ。
だから1963年という年は、アメリカで日本が古い「敵国」のイメージから、同じ資本主義陣営の新興工業国へと変わる転換点にあったといえる。
そんな中、あか抜けたメロディラインとプレスリーのような歌唱をする坂本九による「SUKIYAKI」は、日本が”民主化“=アメリカナイズされ、文化的基盤を共有できるようになったという「希望」の象徴だったのではないか。
(つづく)