未来の音楽(2) | 私、BABYMETALの味方です。

私、BABYMETALの味方です。

アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ
本日5月22日は、過去BABYMETAL関連で大きなイベントのなかった日DEATH。

「未来の音楽」に関するぼくの見解の一番目は、ネット上で散見する多くの「専門家」の意見と少し違って、フィジカルなライブへの需要は消えないだろうということだった。

そしてライブバンドであるBABYMETALは、将来にわたってライブバンドであり続けるだろうとも書いた。

ライブとは、誰でも同じ使用価値を持った「商品=モノ」ではない。
もちろん、ライブのチケットは誰でも購入できる。だが、好きなアーティストのライブに参戦した体験そのものの価値は、参戦者ひとりひとりすべて異なる。
初めてライブに参戦した体験、行けなかった友だちの分を背負った「代表参戦」、仕事や家庭から疎外された自分がそこだけは輝ける場としてのライブ、仕事も家族もすべて責任を果たした後、本当の自分を確認するためのライブ…。
ライブの意味は一人ひとり異なるから、その価値も異なるのだ。
だから、VR技術が進んでも、ライブという形態は廃れない。
まあ、こんなに大上段に構えずとも、バッハやモーツアルトの時代、宮廷や教会で楽師が日々の糧を得ていたように、あるいは戦後のどさくさから、レコードやテープやデジタル音源がある現在に至っても、ジャズやR&Bのミュージシャンや歌手が、場末の酒場やライブハウスで糊口をしのいできたように、音楽活動の本道は結局、歌と演奏を目の前の観客に聴かせるということである。言い換えれば、時代が変わろうとも、生歌・生演奏にはちゃんとお金を払うのが人間なのだ。

仮にですよ、おばあちゃんになったBABYMETALがドサ回りしているとしても、それはそれできっと美しいと思うのだけれど。


音楽が産業化したのは、20世紀のテクノロジーのおかげである。
SU-METALが生まれる120年前の1877年12月に、トーマス・エジソンによって、声や歌を録音する技術が誕生した。
また、1900年には、エジソン会社の元技術者だったレジナルド・フェッセンデンによって、音声を電波に乗せて放送する無線電話=ラジオ技術が生まれた。
以来、録音された楽曲はラジオを通じて広がり、楽曲が録音されたレコードが販売されるようになった。
さらに、1920年代になると、トーキー映画が普及し始め、俳優や歌手が歌い動く映像が人々の目に触れることになった。
ラジオや映画を通じて有名になり、人気になり、楽曲を録音したレコードが大量に売れるようになったミュージシャンや歌手には、通常の演奏活動では得られないほどの代価が集中するようになった。「スター」の誕生である。
こうした技術が普及する前には、俳優や歌手は、劇場やコンサートホールで見るもので、人気スターもいたはずだが、それが、テクノロジーによって一挙に大衆化(=顧客層の拡大)したわけだ。これにより、ミュージシャンや歌手にも「売れてる」「売れてない」という格差が発生した。
第二次世界大戦後、家庭で見られるテレビジョンが普及すると、大衆化はさらに爆発的に進み、「スター」の価値は高まった。
そして今起こっていることは、インターネットの普及によって、顧客層の拡大現象が、国の枠を超えて進んでいるということである。
これをオーディエンス側から見るとどうなるか。
レコードは、生演奏=「ライブ」へ行けない代償として、音楽を「所有」する手段だった。ラジオや映画やテレビを通じて、あるアーティストを好きになっても、劇場やコンサートホールで行われるライブに行けるのは、都市の一定階層しかいなかったからだ。
録音/再生技術の進歩は、そうしたフラストレーションに応えるもので、重くて巨大で高価な機器を揃え、いかにリアルに「原音再生」できるかがオーディオマニアの関心事だった。
とはいえ、それはキリのないもので、家ごとコンクリートスピーカーになっているとか、専用電柱を設置するとか「上には上がある」ことを理解して自分の装置に満足しなければならなかった。
ただし、その目的はあくまでも「アーティスト/バンドの生演奏を観ることができない」から「アーティスト/バンドがそこにいるかのように」「ライブを再現する」ということだったはずだ。
これに対して、SONYが1979年に発売した「ウォークマン」は、音楽を日常生活に持ち込むという、一種のコペルニクス的転換を起こした。


媒体はカセット、CD、MDと変遷し、2001年にアップル社が発売したiPodからは、デジタルデータを再生するものとなった。
こうした携帯型オーディオ機器は、オーディオマニア的な再生装置よりもはるかに安価であり、ユーザーに「ライブを再現する」聴き方ではなく、ヘッドホンを用いて、音楽を日常生活のBGMにするという聴き方をもたらした。
ここで、音楽の聴き方は大きく二つに分かれた。
好きなアーティストのライブに行く、ないしその代償行為として、オーディオ機器で「ライブの再現」を目指すという聴き方と、携帯音楽ガジェットによって自分の生活を彩るBGMとしての聴き方だ。
インターネットが普及し始め、音楽がデジタルファイル化され、原理上劣化せずにネット上でコピーできることになると、代価を払わずに音楽を「所有」する者たちが現れる。
その顛末は、以前このブログでも取り上げた『誰が音楽をタダにした?-巨大産業をぶっ潰した男たち』(スティーブン・ウィット著、早川文庫NF)に詳しい。
現在は、無料動画サイトYouTubeなど広告収入で成立しているもの、Apple MusicやiTunes、Spotify 、Google Play、Amazon Music、AWAなどダウンロード、月額制でデジタルファイルが配信されるものなど様々な有料サービスがあるが、日常的にアクセスできる音楽の曲数やジャンルは、レコードやCDを「所有」していた時代よりはるかに多い。なぜこれほど大量のアーティストや楽曲が用意されているのか。
こういう音楽の聴き方は、音楽をBGMとして消費するやり方だからだ。
なぜなら、アーティストや楽曲を大量にコレクションするという欲望は、それらを日常生活のTPOや気分によって、ランダムに選びたいという欲望に他ならないからだ。
そこではアーティスト性というより、曲調や楽器の音色、リズム、リフレインされる歌詞などに意味がある。自分が直面している状況にふさわしい楽曲ならば、極端に言えばアーティストは無名でいい。民族音楽やモーツァルト、アンビエントサウンドがピッタリ当てはまる場合もある。「戦意」を高揚させるためにラップやメタルが選ばれることもある。主役は日常生活と対峙する自分だ。
一方、この間、交通機関の発達によって、世界的なアーティスト/バンドがワールドツアーをしたり、大規模フェスに集まったりすることも多くなった。


特に、音楽のデジタル化によって、フィジカルな商品としてのCDが売れなくなって以降、アーティストの主な収益源はライブになった。
なぜ、それが成立するのか。
交通機関や労働条件の緩和などによって、地方に住むオーディエンスが同じ国の大都会で行われるライブに行ける機会は飛躍的に増えた。アーティストも、フィジカルなCDの売り上げだけではやっていけないので、地方都市でのライブ活動を重視するようになった。
逆説的だが、携帯端末で音楽をBGMとして聴くという消費の仕方が発達すればするほど、ライブへ行く、生で聴くという本来的な音楽への欲求が満たされるようになったのだ。
そこでの音楽の聴かれ方は、BGMとは全く違う。むしろ日常から離れ、好きなアーティストの世界観にどっぷりつかる没入体験である。
大切なことは、それが一回起性だということだ。一回こっきりの体験だからこそ、その価値は冒頭に書いたように、オーディエンス一人ひとり異なる。
携帯端末によるBGM的な音楽の聴き方が、日常生活において自分らしさを保つための手段だとすれば、好きなアーティストのライブに参加することは、自分を解放する非日常的な体験だといえる。
どちらが「正しい」とか「優位だ」ということではない。
ただ、未来のテクノロジーによって「再生技術」が格段に進歩することは間違いないが、かといってライブが廃れることはないということだ。
音楽ファイルあるいは映像ファイルをダウンロードしたり月額定額制で利用したりすることが主流になっても、それはあくまでもデジタルデータであって、「生」ではない。
人間が生身の体を持つ限り、アーティストを「生」で見たい、聴きたいという欲求が消えることはない。
テクノロジーが発達しても、ヴァーチャルを「生」にすることはできない。
ヴァーチャルかつ簡便なデジタルデータを利用するのは日常生活のBGMとしてであり、本物=ライブを見に行くことは、非日常的な経験なのだから。
(つづく)