フィクションと現実 | 私、BABYMETALの味方です。

私、BABYMETALの味方です。

アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ
本日5月16日は、2015年、Rock on the Rangeフェス@米・オハイオ州コロンバスCrew Stadiumに出演した日DEATH。

1954年~2004年までの50年間、のべ850番組のTVアニメや特撮ヒーロードラマ主題歌をYouTubeで1曲1曲聴き、ぼく自身のメタル観にもとづいて判定した結果、1994年以降毎年3割程度の主題歌が、様々なバリエーションを持ちつつも、基本的に裏拍8ビートとヘヴィなギターリフを骨格とするヘヴィメタルだったことがわかった。
これらの番組の多くは、ロボット・異星人・未来都市・宇宙空間が登場するSFや、魔法使い・モンスター・ドラゴン・悪魔などが登場する異世界ファンタジー、あるいはスポーツで戦うカッコいいヒーローやヒロインが主人公である。その主題歌がヘヴィメタルだったなら、視聴者である子どもたちは、そこに「カッコよさ」を感じていたはずだ。
日本では、80年代後半~90年代の「ヘビメタブーム」の終焉によって、ヘヴィメタルは退潮したかに見えた。しかし、お茶の間では、将来の音楽市場を担う子どもたちが、メタル主題歌に触れ、「カッコいい」と思っていたのだ。
2004年当時、小学校1年生(6-7歳)だった子が、中学1年生(12-13歳)になった2010年にBABYMETALが結成され、高校1年生(15-16歳)になった2013年に「イジメ、ダメ、ゼッタイ」でメジャーデビューし、社会人あるいは大学1年生(18-19歳)になった2016年には、2ndアルバム『METAL RESISTANCE』が、米ビルボード200で坂本九以来53年ぶりにトップ40にランクインし、東京ドーム公演2日間で11万人を動員した。

これはそっくりそのままSU-METALのバイオグラフィと一致する。
この前後に生まれた世代こそ、今後のBABYMETALを、そして世界のメタル音楽を担い、かつ支えていく世代である。
ところが、BABYMETALを最初に「スゴイ」と思い、現在でもファン層のコアとなっているのは、この世代より2回りほど上の40代の方々であり、10代後半~20代の若い方たちは、ライブ会場で見かける限り、さほど多くない。
そのため、2017年12月2-3日のLegend-S-洗礼の儀@広島グリーンアリーナや、今年7月6-7日のBEYOND OF THE MOON@ポートメッセなごやでのMOAMETAL聖誕祭では、メンバーの年齢以下の“金キツネ世代”は格安チケットに設定されている。
この世代はアニメ・特撮主題歌のヘヴィメタル音楽を「カッコいい」と思っていたはずなのに、BABYMETALファンが少なかったのはなぜか。
少なくともさくら学院時代は、小中学生の「作られたメタル・アイドル」に見えたから、若い世代は「ロリアイドルオタ」であることを開き直れるほど厚顔無恥ではなかったとか、等身大の歌詞じゃないから共感できないとか、デザイン重視、高級感演出の戦略でチケットやグッズが他のアイドルグループやアーティストと比べて割高だったとか、ベビメタ好きオヤジのメタル論議がウザいとか、色々な理由が考えられると思うが、そのひとつに、「ヘヴィメタルはカッコいいが子どもっぽい」という価値観があるように思う。
確かに小学生時代は、ロボットSF、戦隊ヒーローものを夢中になって見ていたし、その主題歌のカッコよさを感じていた。しかし、成長するにつれ、見るアニメも変わり、より大人っぽく深刻な内容のものに惹かれるようになった。深夜帯のアニメを録画して見ることも覚えた。
1990年代には深夜アニメの主題歌はメタルであることが多かったが、2000年代になると、制作本数が爆発的に増えるとともに、単純でカッコいいメタルではなく、どこか都会的で洗練された16ビート表拍の小室サウンドやシティポップ、フュージョン、あるいは黒っぽいヒップホップが多くなる。
「アイドル」の楽曲も、ダンスをするため男性グループも女性グループも基本的には「♪ドンツクドンツク…」の16ビートだった。ただし、例外はあるもので、AKB48の出世曲「ヘビーローテーション」は8ビートのロックンロールである。
それはさておき、こうして1990年代後半生まれの世代にとって、裏拍8ビートとディストーションギターのメタルは「カッコいいけど小学生の時に見ていたアニメの感じ」=子どもっぽいイメージ、ダンサブルな16ビートの楽曲やシティポップやヒップホップ、アイドルソングでさえ「オ・ト・ナ」なイメージになってしまったのかもしれない。
BABYMETALはメタル。だから子どもっぽい。
そう思っている人がいるとすれば、それは間違いである。
フィクションと現実という話をしよう。
ぼくが小学生に国語を教えていて難しいことのひとつに、物語文と説明文の違いという問題がある。現行の小学校国語教科書に出てくる物語には、例えばこんな話がある。
タクシーの運転手である松井さんは、車道の脇に白い帽子が置いてあるのに気づく。このままでは風に飛ばされてしまうと思って帽子をつまみ上げると、中からモンシロチョウが飛び出す。それは、誰かがモンシロチョウを捕まえておいたものだった。松井さんはダッシュボードの中から、故郷から送られてきた夏ミカンを出して、帽子の中に入れておいた。
車に戻ると後ろのシートにおかっぱのかわいい女の子が座っており、「道に迷ったの。行っても行っても、四角い建物ばかりだもん」と言いながら、「菜の花横丁」まで乗せていってほしいと言う。
そんな地名に心当たりはないが、「菜の花橋」の近くまで来たので、後ろを振り向くと女の子はいない。窓の外を見ると、そこには小さな団地の前の小さな野原で、モンシロチョウがいっぱい飛んでいる。そしてこんな声が聞こえてくる。「よかったね」「よかったよ」…。
(光村図書小4上『白いぼうし』あまんきみこ)


これは作り話=フィクションである。しかし、小学校低学年の子どもにとって、チョウがしゃべることも、女の子に化けて仲間のところに戻ることも、決してありえないことではない。それについては後で触れるが、その場面の「登場人物の気持ち」や「なぜそんなことをしたのか」を読み取ることが、この単元の課題になっている。
一方、その2つほどあとの単元では、陸上400メートル走の選手だった高野進氏の『動いて、考えて、また動く』という説明文が教材になっている。
そこでは、高野氏が「ひざを高く上げて」「足を思い切り後ろにける」という当時の指導方法に疑問を持ち、「忍者がぴたあっと下り坂をかけ下りていくようなイメージ(原文のまま)」で走る方法にたどり着くまでを説明し、「まず動く、そして考える」「何度も失敗したり成功したりして工夫を重ねる」ことの大切さを述べた文章である。
これは「作り話」=フィクションではなく、高野氏が体験した事実に基づいた説明文である。
ここでの課題は、筆者の「気づいたこと、思ったこと、言いたいこと」と「そのもとになった経験や例」を区別して、文章全体の構造とポイントを読み取るということである。
だが、小学校低学年の子どもに、「例示(具体)⇔まとめ(抽象)」の区別や定義を口で説明しても、頭では絶対に理解できない。「設問への適切な答え方」を繰り返していくことで、「ああ、いくつかの事実に共通する要素を短くした言葉を見つけると、“まとめ”になるのだな」ということを体得・実感させていくしかないものだ。
具体的な経験や事実も言葉によって表すしかないが、それをさらに抽象化して短い文章にまとめることは、言語=思考の原点である。これができないと、経験や事実はただ並列的に積み重なるだけで、そこから教訓や知識を抽出する力を持たぬ大人になってしまう。
さらに、物語が「作り話」で、説明文は「事実を説明したもの」だということを理解させることも、実は大人が考えるほど簡単ではない。
なぜなら、現実経験の少ない子どもにとって、「チョウがしゃべること、化けること」が絶対にないとは言い切れないからである。というか、子ども向けの本のほとんどが物語であり、学校で習う教科書にさえ書いてあるのだから、ゾウが空を飛ぶことも、ツルが恩返しに来ることも、鏡が予言することも「あるんだろうな」と思ってしまうのである。
一方、体験した事実を説明しているはずの高野進の文章では「忍者がぴたあっと下り坂をかけ下りていくようなイメージ(原文のまま)」で走ったらうまくいったと書いているが、忍者は実在しますか?
物理法則にもとづかないことは、現実には起こりえない。歴史上、起こった出来事は変えられない。それを知ることは大人になる第一歩だし、独裁者が科学的事実や歴史的事実を都合よく消したり、ねつ造したりすることの危険性はいうまでもない。
だが、大人になることとは、「作り話」を子どもっぽいと切り捨て、「現実」しか信じない人間になるということではない。もしそうなら、教科書に物語文=「作り話」を掲載し、「登場人物の気持ち」を読み取らせる意味はない。
むしろ厳しく冷たい「現実」と対峙してなお、「作り話」の主人公のように優しい気持ちを持ち、利他的に行動し、理想的な社会を創ろうとする、つまり「現実」を変えてやろうと思って生きている人こそ、本当の大人なのではないだろうか。
アニメや特撮ドラマは「作り話」の最たるものであって、巨大ロボットも異星人も魔法使いもドラゴンも「現実」には存在しない。
ストーリーや設定が青少年あるいは作者の心理、ないし社会的・文化的・政治的な暗喩であるといった議論はちょっとおいておくが、基本的には勧善懲悪のストーリーであるアニメ・特撮ドラマの主人公の「カッコいい」生き方が「作り物」であるとしても、それは「子どもっぽい」と切り捨てるべきものではない。
主人公が立ち上がる姿に共感し、「行け!ガンバレ!」と声援を送った子どもの自分もまた、切り捨てるべきものではない。
中学入試や高校入試に始まり、大人の階段を上るたびに、人は、奇跡的な能力も魔力も持たない自分や、冷たく厳しくなっていく「現実」と対峙しなければならない。だが、その際、子どもの頃の熱いパトスを「くだらない」「子どもっぽい」と切り捨てるのではなく、それを糧にして生きていく方が素敵だし、実際に知恵や力や勇気が出てくるのではないか。
少なくともぼくは、巨大ロボアニメや、スーパー戦隊に憧れて、メタル主題歌に胸を熱くしたことを、照れながら告白してくれる人の方が、魅力的だと思いますね。
だから、かつてメタル主題歌に夢中になったのに、今は、メタル=子どもっぽい=だからBABYMETALはガキの音楽だと思い込んでいる人がいたら、それは生き方からして根本的に間違っていると思うのだ。
BABYMETALはフィクションではない。彼女たちは現実に「世界征服」を目指して戦っている。傷つき倒れてもなお、立ち上がって前へ進もうとしている。
「作り話」を超えた現実、現実を変えようとする「作り話」。
それがBABYMETALだ。
もっとも、子ども時代からアニメにも特撮にも夢中にならず、音楽はクラシックかジャズを「鑑賞」する程度という御仁も世の中にはいる。そういう人には、物語の話も、メタルの話も、あるいは人生の話も一切通じないのだろうなあ。