ご長寿バンドへの道(5) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ
本日4月3日は、2014年、YouTubers React to BABYMETALが公開され、世界的知名度が飛躍的にアップした日DEATH。

4月11日発売の『PMC』は、BABYMETALが表紙&グラビアを飾り、「新章、新体制への決意を語る! 」とのタイトルで、SU-METALとMOAMETALそれぞれ1万字におよぶ独占インタビューが掲載されるとのこと。
表紙は3年ぶり、インタビューは2年5か月ぶり。


SNSなどでの情報発信がまったくないBABYMETALだけに、「自分が置かれている状況を見つめ直した1年だった(SU-METAL)」というインタビューは貴重なものである。
インタビュアーはこれまで通り、阿刀”DA”大志。
まだ詳細な内容はわからないが、3rdアルバムリリースがアナウンスされ、6月横アリ、7月ポートメッセなごやの日本公演、8月のサマソニの日程が決まっている以上、新たな展開に関する現在の二人の決意は固まっているのだと思う。
この1年には様々なことが起こったが、二人が前を向いているというだけで十分である。

現在までのところ、BABYMETALと最も長く活動を共にしている大物バンドといえば、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ(以下レッチリ)である。
BABYMETALはニューメタル的ヘヴィメタル、レッチリはファンク、ハードコアパンク、ラップロックと、音楽ジャンルが違う。
レコード会社も、BABYMETALのアメリカにおけるレーベルであるRAL、BABYMETALレコーズや、プロモーション会社ウィリアム・モリス・エンデヴァー・エンターテインメントはソニー系なのに対して、レッチリのレーベルはワーナー系のEMIである。
メジャーレーベルの枠を超えて、レッチリがBABYMETALを2016年UK、2017年USツアーに帯同したのは、2016年のフジロックで、レッチリのメンバーがBABYMETALをステージ袖から観て、「どうしてもツアーに帯同したい」という思いに駆られたためだろう。


なぜ、そこまでレッチリがBABYMETALに惹きつけられたのだろうか。
レッチリは、1983年、アンソニー・キーディス(V)とフリー(B)、(G)、ジャック・アイアンズ(D)によって結成された。
翌年1984年、Capitol/EMI(のちにワーナー傘下になる)と契約し、デビューアルバム『レッド・ホット・チリ・ペッパーズ』をリリース。だが、ギタリストはほかのバンドと掛け持ちしていたヒレル・スロヴァクではなく、ジャック・シャーマンで、ドラマーはジャック・アイアンズではなく、元キャプテン・ビーフハートのクリフ・マルティネス(~1989年)だった。
初期のレッチリの音楽性は、作詞し、ラップっぽく歌うアンソニー・キーディスのライミング(押韻)と、フリーのベースラインのリズム感がピッタリ合致し、そこへカッコいいギターのリフがかぶさることで成立していた。この作り方は各メンバーの演奏技術の相乗効果によってスピード感や重厚さを表現するメタルとは全く違う。テクニックより「フィーリング」が合うか合わないかが、グルーヴの元なのである。
その「気持ちよさ」が、全裸でペニスにソックスをつけて演奏するなど、ライブハウスでの破天荒なパフォーマンスと相まって、ローカルな人気になっていたことが、メジャーレーベルと早期に契約できた理由だった。
だが、デビューアルバムはビルボード200で、惜しくも201位だった。
翌年1985年、ギタリストにヒレル・スロヴァクが復帰し、2ndアルバム『フリーキー・スタイリー - Freaky Styley』がリリースされる。このアルバムもビルボード200では圏外だった。
1985年当時、米西海岸の音楽シーンには、クワイエット・ライオット、モトリー・クルー、ラットといったLAメタルバンドがメジャーになっていたが、それに反発するオルタナティブロック=ポストパンク/ハードコア~グランジへ向かう流れが生まれ、一方メタルのジャンルではあるが、ハードコアを取り入れたメタリカ、スレイヤー、メガデスといったスラッシュメタルの流れも生まれていた。
レッチリのファンク/ラップロックという手法は、オルタナティブな流れに属するものだが、今考えれば、90年代に登場するレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンなどのラップメタル=ニューメタルや、アンスラックスがパブリックエネミーと共闘したりしたことの先取りとも思える。もちろんニューメタルのサウンドはよりヘヴィだし、攻撃的だ。
だが、政治信条も含めて、初期のレッチリはパンク的な色合いが強く、ローカルな人気はあったものの、全米ではまだ理解されなかったのかもしれない。
1987年にリリースされた3rdアルバム『The Uplift Mofo Party Plan(ジ・アップリフト・モフォ・パーティ・プラン)』は、ジャック・アイアンズ(D)も復帰し、創設メンバーが全員そろって製作された最初で最後のアルバムになった。
ジャック・アイアンズは、1988年に脱退してしまうが、BABYMETALが帯同した2017年4月の米東海岸~フロリダツアーのオープニングアクト=前座の前座としてドラムソロを披露した。
アンソニー、フリー、ヒレル、アイアンズは、元々「親友」であり、バンドを離れてもお互いを支えあうほど仲がよかったのだ。
次作の『Mother’s Milk-母乳』からメンバーとなったジョン・フルシアンテ(G)は、ヒレルを尊敬していたし、チャド・スミス(D)は、加入当初、ハードロック風の服装をイジられはしたが、性格的には信頼されており、ソロ活動も自由にやっている。
ジョン・フルシアンテは、レッチリをやめてソロになってからも、現ギタリストであるジョシュ・クリングホッファー(G)とライブ活動をしたりしている。

仲良し。
これが、レッチリが長寿バンドになった秘訣である。
もちろん、気の合わないメンバーが在籍したこともあった。だが、その場合、短期でバンドをやめている。例えば、ファーストアルバムに参加したジャック・シャーマンは、几帳面な性格で、アンソニーとそりが合わなかったというし、ジョン・フルシアンテが脱退した後、オーストラリア公演のために急遽加入したザンダー・シュロス(G)は、「合わない」という理由で、わずか4日で解雇されたという。
レッチリの場合、音楽性=グルーヴ=フィーリングが一致することが大前提なので、こうなってしまうのだろう。
レッチリの「危機」は、親友であり、フィーリングの合うメンバーだった最初のギタリスト、ヒレル・スロヴァクが、薬物のオーバードーズで亡くなってしまった1988年だった。
3作目でようやく創設メンバー全員がそろった『The Uplift Mofo Party Plan』はビルボード200で148位と初のランクインをした。
その直後の訃報。
ヒレルは、フリーにベースを教え、ロックへ導いただけでなく、カッコいいリフを作り、1stアルバムから3rdアルバムの収録曲の多くに関わっていたキーマンだった。
親友の死にショックを受けたドラムスのジャック・アイアンズも脱退してしまい、レッチリに残ったのはアンソニーとフリーの二人だけ。
その窮地を救ったのが、チャド・スミス(D)とジョン・フルシアンテ(G)だった。
アンソニーとフリーより1歳年上で28歳だったチャド・スミスは、オーディションでそのテクニックを買われて加入。当時18歳だったジョン・フルシアンテはもともとレッチリの大ファンで、ヒレルを尊敬していた。
1989年、この二人が加入して発表された『Mother’s Milk(母乳)』は、ビルボード200で52位と、全米規模のセールスを記録。
1991年に、ワーナーブラザースと契約し、プロデューサーにリック・ルービンを迎えて制作された5thアルバム『Blood Sugar Sex Magik(ブラッド・シュガー・セックス・マジック)』は、ビルボード200で3位、UKチャートで5位となった。

「Under the Bridge」「Give It Away」「Suck My Kiss」「Breaking the Girl」「If You Have to Ask」の5曲がシングルカットされ、「Under the Bridge」がシングルチャート2位、「Give It Away」がグラミー賞を獲得。
アンソニー、フリーの「親友」だったヒレル、アイアンズに代わったジョン・フルシアンテとチャド・スミスは、創設メンバーの代役どころか、バンドに前任者を上回る成果をもたらしたのである。
レッチリのドラマーといえばチャド、ギタリストといえばジョン・フルシアンテであり、二人は、いわば第二の創設メンバーとなったのである。
(つづく)