ご長寿バンドへの道(3) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ
本日3月31日は、2013年、さくら学院2012年度卒業式で中元すず香が卒業、神バンド帯同のFull Metal Band Live Tour 2013が発表され、2016年には、8月21日(日)開催のSUMMER SONIC 2016 OSAKAに出演すると発表された日DEATH。

ロンドン市内から鉄道で、ダウンロードUKの舞台であるドニントンパークへ行くには、ダービーから行く方法とバーミンガムから行く方法の二通りがある。
昨年6月にぼくが行ったときは、ロンドンEuston駅から西線でBirmingham New Streetで乗り継いで行った。
車中からみたバーミンガムの町は、古めかしい倉庫が立ち並ぶ地方都市だったが、ここは、オジー・オズボーンとトミー・アイオミの生地であり、ブラック・サバスが結成された町である。また、ご長寿バンドの一つでもあるデュラン・デュランのベーシスト、ジョン・テイラーが生まれたところでもある。


JUDAS PRIESTは、1969年、ここバーミンガムで結成された。
とはいえ、オリジナルのJUDAS PRIESTは、メジャーデビューした当時のメンバーとは全く違っていた。
のちにJUDAS PRIESTを支えるK.K.ダウニング(G)は、1966年から1968年にイギリスで活躍していたジミ・ヘンドリックスを観て衝撃を受け、ハードなギタープレイにほれ込んだ。レッドツェッペリンや地元の先輩であるブラック・サバスは、ピンとこなかったという。
よりヘヴィな表現を求めて、オリジナル・ジューダス・プリーストのオーディションに応募したが、不採用となった。
そのため、K.K.ダウニングは、1970年、イアン・ヒル(B)、ジョン・エリス(D)とともに、「FREIGHT」というバンドを結成する。半年後、このバンドにアル・アトキンス(V)が加入する。アトキンスは、オリジナル・ジューダス・プリーストの結成メンバーで、ギタリストのオーディションで、K.K.ダウニングに×をつけた一人だった。
実はオリジナル・ジューダス・プリーストは、メンバーの事故死などで活動停止状態にあった。
そのため、ローカルバンドながら、ライブハウスなどで地道に活動していた「FREIGHT」が、「ジューダス・プリースト」の名前を引き継ぐことになった。
しかし、売れない。
1971年、FREIGHT時代からのドラマー、ジョン・エリスが脱退。後任にアラン・ムーアが加入するが、年末に脱退。そこで翌1972年、ジャマイカ出身のクリス・キャンベルがドラマーとなる。
食えないが夢だけはあった。ライブこそ命とばかりに、果敢に国内ツアーを決行する。
イギリス中のライブハウスでハードなライブを行うが、日々飯を食うのが精いっぱい。
1973年、とうとうフロントマンであり、オリジナル・ジューダス・プリーストのメンバーでもあったアル・アトキンス(V)が脱退。続いてクリス・キャンベル(D)も脱退。
残ったのは、イアン・ヒル(B)とK.K.ダウニング(G)のみ。
イアン・ヒルには、スー・ハルフォードという恋人がいた。スーの兄のロブはゲイだったが、4オクターブに及ぶ驚異的な声域を持つヴォーカリストだった。
ロブのバンド仲間だったジョン・ヒンチ(D)も加入して、いよいよジューダス・プリーストの快進撃が始まると思いきや、まだまだ苦労は続く。
ライブ活動で徐々にファンがつき始めたジューダス・プリーストに、1974年、イギリスのマイナーレーベル「ガル・レコード」からお声がかかる。だが、この契約でバンドが受け取るギャラは一ヶ月50ポンドだった。
昭和49年(1974年)までは固定相場制だったので、50ポンドは当時のレートで5万円。
そのころの東京23区内の平均家賃が9万円程度だった。
50ポンドを4人で分けるのだから、到底食っていけず、メンバーはアルバイトで生活したり、生活保護(!)を受けたりしていたという。HMバンドの設立当初は、まあ、洋の東西を問わず、苦労するわけだ。
4月、ガル・レコードの提案で、元「FLYING HAT BAND」のグレン・ティプトン(G)が加入。これで、二人が美しいハーモニーや超絶速弾きの掛け合いをするツインギター体制となり、レッドツェッペリンやブラック・サバスとは明らかに異なるヘヴィメタル・サウンドの骨格が出来上がった。
1974年9月、ガル・レコードからファーストアルバム『ロッカ・ローラ』でデビュー。プロデューサーは、ブラック・サバスも手掛けるロジャー・ベインだったが、UKチャートでは圏外だった。
まだ食えないので、レコード会社とは無縁に、アルバム曲をセットリストにした全英ツアーを敢行。各地でファンを獲得していき、1975年8月には当時、イギリス最大級のフェス「ナショナル・ジャズ・アンド・ブルース・フェスティバル」に出演した。
だが、楽曲や演奏力への評価にもかかわらず、金銭的には困窮状態が続いたため、フェス後に、ロブが連れてきたジョン・ヒンチ(D)が脱退し、後任にアラン・ムーア(D)が復帰した。
1976年3月、2ndアルバム『Sad Wings of Destiny(邦題:)運命の翼』がリリースされる。
このアルバムも、UKチャートにはランクインしなかったが、収録曲「Ripper(切り裂きジャック)」は、この間のダウンロードジャパンでもセットリストに入っていた。
アルバムを通して、K.K.ダウニング&ロブ・ハルフォードに加えて、グレン・ティプトン(G)も作・編曲、キーボードで活躍しており、プログレハード的な音楽性に仕上がっている。今聴いても厚みのある音で、名盤といってよい。レコーディング・エンジニアには、のちに『ペインキラー』(1990年)をプロデュースするクリス・タンガリーディスが名を連ねている。
これほどの内容でありながら、ガル・レコードとの契約に縛られて、バンドの財政は好転せず、全国車中泊ツアーで、その日暮らしをするという状況が続く。
1976年当時、ロブ・ハルフォード、K.K.ダウニングは25歳である。
アルバムを2枚出しても売れないという状況に絶望したアラン・ムーア(D)は、二度目の脱退となってしまう。
捨てる神あれば、拾う神あり。
1976年12月、CBSレコードが、ジューダス・プリーストにメジャー契約をオファー。
1977年1月からメジャーデビューアルバムとなる『Sin After Sin(邦題:背信の門)』のレコーディングが始まる。プロデューサーは、元ディープ・パープルのロジャー・グローバー。


ダウンロードジャパンでも披露された「Sinner」がオープニングである。ツインギターの壮絶な掛け合いと、ロブの心の闇をつんざくようなシャウトは、ジューダス・プリーストのメジャーデビューにふさわしい。UKアルバムチャートで、初めて23位にランクイン。
苦節8年。ついに、ついにここまで来ました!
そして、ジューダス・プリーストをヘヴィメタルの代名詞にしたもうひとつのギミックも誕生する。
K.K.ダウニングは、バンドが売れない原因を、コスチュームにあると考えた。
のちのインタビューで、こんないきさつを吐露している。
「バーミンガムにBirmingham Reparatory Theatreってところがあるんだけど、そこの地下に演劇用の衣装を大量に保管してるスペースがあったんだ。その衣装がレンタルできるって知って、ロブと俺はそこに通うようになった。当時の俺たちが着てたコートやブーツは、全部そこでレンタルした舞台用の衣装だったってわけさ。」
当時、ロブがゲイであることはバンドの秘密だった。ダウニングに誘われてスタッズ付きの革の衣装を見たロブは一目で気に入り、それがジューダス・プリーストの「正装」となり、ハーレー、サングラス、乗馬用の鞭というあのメタル・ゴッドの姿が出来上がったのである。
アルバムのリリース後、ジューダス・プリーストは、新ドラマーとしてレス・ビンクスを迎え、CBS所属のバンド、REOスピードワゴンやフォリナーのOAとして、アメリカツアーを行った。オークランドで行われたフェス「DAY ON THE GREEN」では、レッドツェッペリンと同じステージに立った。
1978年2月、4thアルバム『Stained Class(ステンド・クラス)』をリリース。UKチャート27位、米ビルボード200では、173位と初のランクイン。
ダウンロードジャパンのセトリに入っていた「Saints in Hell」は、このアルバムから。
7月、初来日したジューダス・プリーストは、東京、名古屋、大阪で6公演を行った。イギリスへ戻ってすぐにレコーディングした『Killing Machine(邦題:殺人機械)』を10月にリリース。このアルバムからは、「Killing Machine」と「Delivering the Goods」がダウンロードジャパンで演奏された。
1979年、このアルバムからシングルカットされた「Take on the World」がUKチャートで最高14位となり、さらに「Evening Star」も53位にランクインした。
これが「売れる」ということで、ジューダス・プリーストは、BBCの音楽番組『トップ・オブ・ザ・ポップス』に2回も出演する人気バンドとなった。
なぜ、ジューダス・プリーストが急に売れ出したのか。
1979年夏、ヘヴィメタル史上、最重要なイベントが行われた。
ラジオのDJだったニール・ケイが企画した無名バンドによる「Heavy Metal Night」というライブが、Bandwagonというライブハウスで行われたのである。
重厚・長大化し、ビッグビジネスとなっていた70年代ブリティッシュハードロック/プログレシーンに対して、シンプルなリフとストレートで「反抗的」な歌詞を持つパンク=ニューウェーヴが、ニューヨーク、ロンドンで発生し、若者に支持されていた。
K.K.ダウニングが憧れたジミヘン的なヘヴィなギター表現や、ロバート・プラント(レッドツェッペリン)やイアン・ギラン(ディープ・パープル)のようなハイトーンのシャウトは、オールドウェーブ=「時代遅れ」とみなされていたのだ。これが、ジューダス・プリーストがなかなか売れなかった時代的な背景だったのだ。
だがしかし。
ロンドンパンクは、すぐにファッション化し、それを嫌ってハードコア・パンクが誕生する。
一方、ハードロックをさらに突き詰め、ツインギターやツインバスドラ、ダウンチューニングなどで、よりヘヴィな音や幻想的な世界観を表現したヘヴィメタル音楽を追求する若者たちもいた。
それが、もうひとつのニューウェーヴ、New Wave Of British Heavy Metalだった。
Bandwagonの出演バンドを紹介した「Sound」誌のライター、ジェフ・バートンにより命名されたNWOBHMの代表的バンドは、1979年5月以降にデビューしたサクソン、デフ・レパード、アイアン・メイデンとされ、このムーヴメント以前から活動していたレインボー、ジューダス・プリースト、UFO、シン・リジィは含まれない。
ジューダス・プリーストは、経済的な困窮、メンバーの脱退にもめげず、苦労に苦労を重ねて、ようやく「売れた」のだが、NWOBHMムーヴメントからは「売れるのが早すぎた」と言われちゃうのだ。
だが、公正な目で見て、少なくともジューダス・プリーストが「売れた」のは、NWOBHMの動きと無縁ではなく、それ以降も、1980年代のヘヴィメタルシーンをけん引する存在だったことは間違いなく、ロブ・ハルフォードは「メタル・ゴッド」とまで呼ばれたのだから、ジューダス・プリーストは、広義のNWOBHMに含めてよいと思う。
こうして、1980年代に全盛期を迎えたジューダス・プリーストは、ヘヴィメタルブームが終焉した1990年代、一転、危機に陥る。
(つづく)