音楽と民主主義(6) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ
本日3月19日は、過去BABYMETAL関連で大きなイベントのなかった日DEATH。

初めて知り合った人がどんなバックグラウンドを持っているかを知ろうとするのは、何も欧米に限ったことではなく、日本でだってそうだ。
お見合いめいた合コンではなく、仕事あるいは親睦目的の会食では、当たり前の話である。
気が合うか、親しくなれそうか、それとも敬遠すべきかのジャッジをしなければならないとき、趣味の分野で共通の話題を探るのは常套手段であり、アジア人でも欧米人でも関係ない。
ただ、海外へ進出したカラオケは、その「バイパス」になりうるのだ。
なかなか通じない英語でごちゃごちゃ話すより、世界的にヒットした洋楽を原語で歌えれば、一発でその人の「信用」になる。歌の上手い下手は関係ない。
洋楽のアーティストは、世界的に知られており、「あの頃」「このアーティストが好きだった」ということは、国を超えて、同じ感覚を持っているという証明になるからだ。
つまりカラオケが海外で受け入れられたのは、ビジネス社交上、あるいは見知らぬ者同士がお互いを知り合う際に便利なツールだったからではないか。
仮設の二つ目は、単純に生バンドの代わりだからということである。
日本式の個室カラオケが普及しているのは東南アジアまでで、欧米ではカラオケ装置のあるレストランやバーは限られる。あったとしても生バンドの代わりにステージで歌うのが主流である。
基本的に欧米人は独唱が苦手で、みんなが知っている歌を「大合唱」したがる。
それは前に書いたように、日本では、明治以来、学校教育で「一人で歌えるかどうか」が、評価基準だったからである。授業の斉唱でも、音程が違うと、「君、ここ一人で歌ってごらん」とか言って、指導される。テストでも、一人ひとり、ちゃんと譜面通り、正確な音程で歌えるかどうかを試される。
こういうのは、本来の音楽を楽しむということからはほど遠いと思うが、学習指導要領で、「譜面通り正確に歌えるかどうか」が、ひとつの評価基準になっているから仕方ない。
欧米人はこういう音楽教育は受けていない。
むしろ、家庭や地域社会ないし教会で、誰かがオルガンやピアノやヴァイオリンやマンドリンやギターを弾き、みんなで合唱するという場面が多く、これが音楽教育になっているのだろう。
だから、一人でみんなの前で歌うのは、幼いころから歌が上手いということで選ばれた人に限られる。
パーティなどの席では、こういう人がステージに立って歌い、列席者が合唱するわけだが、カラオケがない頃には、当然、生演奏でバックを務める人々が必要だった。演奏クオリティの伴ったバンドは、当然プロ、セミプロであり、費用がかかる。
日本人が発明したカラオケ装置がお店にあれば、無料ないし安価に利用できる。要するに、カラオケは、生バンドの代わりなのだというのが第二の仮説である。
社交上のツールになったという一番目の仮説にしろ、便利な生バンド代わりという二番目の仮説にしろ、歌ないし音楽を、仕事仲間、友人、家族と楽しみつつ、共通点や絆を確認するという文化は世界共通であり、カラオケはその一翼を担う装置として受容されたのだと思う。
プロの演奏・歌唱を、誰でも居ながらにして聴くことのできるレコード、テープ、CD、mpegといった発明とならんで、誰でも、プロの演奏をバックに歌えるカラオケは、音楽史上に燦然と輝く発明なのである。それを明治以来の音楽教育を受けてきた日本人が成し遂げたということは、やはり誇るべきことだと思う。
ではカラオケの普及度は、「民主主義」のバロメーターとなり得るのか。
残念ながらそうとは思えない。
欧米諸国では日本式個室カラオケはほとんどないし、逆に中国やベトナムの繁華街にはそれがある。北朝鮮のホテルや海外の出先機関が外貨稼ぎのために経営するバーにも、必ずカラオケ装置がある。
これらの国のカラオケは、曲目が限られ、「最新曲」のページにあるのが、10年前の曲だったりするが、それはフィリピン、インドネシア、タイのカラオケ店と同じレベルである。ぼくら日本人は、歌いたい曲がないのでイライラすることになる。
ぼくがよく行っていたフィリピンでは、田舎のニッパ屋根の庶民向け食堂にも古ぼけたカラオケがあり、曲目は少ないが、1曲5ペソ(10円)で利用できた。昼間っから、現地のオジサンがガンガン歌っていたなあ。

プノンペン(カンボジア)の文字が全く読めない地元民用食堂も、ハノイ(ベトナム)から車で3時間の田園地帯の食堂もフィリピンと同じだった。
中国の田舎ではどうなのか、行ったことがないのでわからないが、庶民が入れない「高級店」だけにカラオケがあるというのは、おそらく北朝鮮だけだろう。
つまり、北朝鮮を除けば、民主主義国も共産主義国も、カラオケは庶民の生活に根づいているのであり、ライブを含む音楽商品の発売-流通、つまり音楽市場の売上高が民主主義のバロメーターになるのとは違っている。
ここを突き詰めていくと、ちょっと面白い分析ができる。
新譜の売上は、表現の自由や社会的インフラと密接に関連している。
表現の自由が保障され、誰でも新譜がリリースできるインフラ(例えば無料動画サービスや、プリペイドによる有料配信)が整っている国は、音楽市場も活性化している。音楽市場の売上高は、「民主主義」度を示すのである。
「民主主義」度が低い国では、その国に流通する楽曲やアーティストは限定される。政府による検閲があれば、「政府公認」のアーティストしか新譜をリリースできない。
ただし、こういう国では、ライバルが少ないので、市場規模は小さいが、アーティストごとの市場占有率は高くなる。「国民的歌手」が生まれやすい。
「民主主義」度が高い国は、市場規模は大きいが、誰でも新譜を発売できるので、ライバルが多くなり、アーティストごとの市場占有率は低くなる。大ヒット曲や「国民的歌手」はどんどん生まれにくくなる。
かつて、アメリカでも、日本でも「国民的歌手」や「ビッグネーム」がいた。
だが、最近はアーティストが小粒になった。
それはアーティストのせいではない。「民主主義」度が進み、同じジャンルのライバルが増えて価値観が相対化し、ファンが分散したためである。
それでも市場規模が膨らんでいるうちはいい。人口が減り、市場規模がシュリンクしていく中で、アーティストが増え続けたらどうなるか。
当然、アーティストごとの占有率は小さくなり、売り上げも小さくなる。アーティストは、小さくてもロイヤリティの高い固定ファンベースを大切にして、息の長い活動をしていくしかない。
BABYMETALのスタイルは、「民主主義」度の高い日本だからこそ生まれたというわけだ。


もっともベビメタの場合、海外に進出して市場規模を大きくしようとしているし、ファンベースが大切にされているかどうかはOTFGKだけど。
話を元に戻すと、カラオケはリリースされた曲しか収録できないし、その国で人気のあるアーティストや楽曲が入っていて、庶民が歌えればいいのだから、「民主主義度」は関係ない。
権利関係や収録の都合から、経済的に厳しい国の庶民の店で、最新曲が入っていることを望むことはできない。ぼくら日本人が、カラオケの発明者だからといって、曲目やアーティストが少ないことに文句を言える筋合いではないのだ。
(つづく)