音楽と民主主義(3) | 私、BABYMETALの味方です。

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★今日のベビメタ
本日3月15日は、2016年、オーストリアのフェス「ROCK IN VIENNA」の6月3日に2年連続で出演すると発表され、2017年には、Live at Tokyo Domeのトレイラーが公開された日DEATH。

では、『民主主義』の内容は、まったく子どもたちに伝わらなかったのだろうか。
尾高朝雄が情熱を込めて書いた文章は、無意味だったのだろうか。

(尾高朝雄)
そんなことはないとぼくは思う。
敗戦直後、物資の乏しい中、『民主主義』は、文部省が全国の中学・高校に配布した真新しい教科書であり、子どもたちには大人気だったようだ。
1935年に生まれ、『民主主義』が発行された1948年に、ちょうど新制中学1年生になった大江健三郎は、この本を手にしたときの様子をこう書いている。 
「終戦直後に配給された、新聞紙をいくつかに折ってとじただけの国語教科書を、ぼくらはにせの本と呼んでいたものだったが、それほどひどくはないにしても、新制中学で、ぼくらに与えられた教科書は、やはり、ひとつの物として愛着を感じさせる、という対象ではなかった。ところが、このこの『民主主義』だけは、分厚く、がっしりした、素晴らしい本で、滑稽なさし絵まで入っていたのである。誰もが夢中になった。(中略)生徒の数に比べて届いた教科書が少なく、くじ引きが行われ、外れた生徒の中には肩を震わせてすすり泣くものまでいる始末だった」(『厳粛な綱渡り』より)
感激して受け取った教科書『民主主義』を、大江少年はどう読んだのだろうか。
大江は、戦後民主主義者であることを自認し、国家主義に反対する立場を貫いている。
初期作品は、戦後日本の社会を「閉塞状況」ととらえ、その表象のようにシュールな場面設定の中で格闘する青年の実存的内面をみずみずしく描いていた。
だが、一方で大江は、1961年、朝鮮総連の巧みなプロパガンダに乗せられて北朝鮮への帰還事業を礼賛したこともあったし、1970年の『沖縄ノート』では、沖縄戦の集団自決について、沖縄タイムスの本を根拠に、本土から沖縄を守るために戦った日本軍兵士を「自決を強要した」「罪の巨魁」と断罪したため、遺族から訴訟を起こされたこともあった。(原告敗訴)
大江にとって『民主主義』は、天皇制を含む戦前の日本を断罪するイデオロギーに過ぎなかったのではないか。
イデオロギッシュな見方で『民主主義』を読んでいたら、プロパガンダにダマされないこと、物事を考えるときには一面的な見方をせず、事実に基づいてさまざまな観点から判断すること、というこの本のエッセンスは、結局のところ理解できないだろう。
だが、「戦中派」世代すべてがイデオロギッシュに『民主主義』を曲解したはずはない。
『民主主義』は、1948年から1958年までしか使われなかったので、1935年~1945年生まれまでのいわゆる「戦中派」だけがこれを中学校で手にしたことになる。
1948年~1958年に新制高校に進んだ人は、1932年~1942年生まれだが、当時の高校進学率は40%~50%なので、その世代の約半分が高校まで『民主主義』を読んだはずである。


この世代は、1954年~1973年の高度経済成長期に20歳~38歳の働き盛りになった。
1947~1949年生まれの第一次ベビーブーマー=団塊の世代は、一回り若く、教科書としての『民主主義』を読んでいない。また、団塊の世代が20歳になるのは1967年~69年の学生運動の季節であり、大学を卒業して就職した直後にオイルショックが起こって、高度経済成長時代が終わってしまった。
つまり、日本の高度経済成長期を担い、現在の民主主義社会の骨格を形成したのは、団塊の世代ではなく、一世代上の『民主主義』世代なのである。
ぼく自身そうであったように、尾高朝雄の情熱のこもった『民主主義』を、中学・高校時代に読んだかどうかで、いわゆる戦後民主主義に対する評価は、まったく違ってくる。
ぼくらが学校で習い、なんとなく思い込んでいる主権在民だとか、人権だとか、討論のルールだとか、そもそも民主主義の概念とかは、みんな社会科の教科書に暗記すべき事項として書いてあった断片的な「用語」に過ぎなかった。『民主主義』のように、情理を尽くして歴史的背景から成り立ち、注意点までしっかり教わったわけじゃなかったのだ。
だが、1935年~1945年に生まれた方々が、中学校や高校で『民主主義』を学び、長じて高度経済成長期を担い、その考え方を伝えていったことで、さまざまな制度が生まれ、日本はいまぼくらが享受しているような民主主義社会になった。
インターネットの発達によって、ぼくのようなオジサン世代でも、事実に基づかない報道のあり方は「原則的におかしい」と思い、自分と異なる意見に「ネトウヨ」とかのレッテルを貼り、言論を圧殺するようなネットの使い方は間違っていると考え、自由に意見を書き込むことのできる社会になった。
もちろん、尾高朝雄が説いたような、政治意識の高い国民主権の国になったわけではない。むしろ、政治に関心の薄い人たちがほとんどだ。官僚機構や経済格差などの問題は色々ある。
だが、少なくとも『民主主義』が注意を呼びかけた「プロレタリア独裁」の国にはならなかった。
それは『民主主義』が、復興期の日本人に深い影響を与えたからではないか。
現在、日本の与党第1党、野党第1党、第2党は、すべて〇〇民主党という名前である。
もっともこれこそ、『民主主義』に書いてある「自分の立場にりっぱな看板を掲げ、自分のいうことに美しい着物を着せるという手」かもしれない。そういえば韓国の与党も「共に民主党」だなあ。
『民主主義』のもう一つの特徴は、角川文庫版解説の内田樹が書いていたように、戦前の日本にも民主主義の要素はあったと述べていることである。
それは、ほかならぬ学校教育の中身を調べてみればわかる。
明治5年(1873年)の学制発布以来、学校で習う教科は、わが国の実情に合うように整備され、明治40年(1907年)には、尋常小学校の教科は、「修身」「読書」「作文」「習字」「算術」「体操」「図画」「唱歌」という構成になった。
その後、「歴史」「地理」「理科」「裁縫」「手工」が加わり、昭和16年(1941年)の戦時下に「武道」が新設された。
ぼくらは、なんとなく、戦前の学校は、天皇の命令なら決死の覚悟で突っ込んでいく“愛国少年”を養成する全体主義的な教育が行われていたのだろうと思い込んでいるが、実際には全く違う。
「修身」は「道徳」であり、「読書」「作文」「習字」は「国語」、「算術」は「算数/数学」、「体操」は「体育」、「図画」は「図画工作/美術」、「唱歌」は「音楽」、「歴史」「地理」は「社会」、「理科」は「理科」、「裁縫」「手工」は「技術家庭」である。
つまり、現在の小学校・中学校の教科とほぼ同じだったのである。
もし、戦前の日本が、天皇を中心としてアジア諸国を征服するのを目的とした「悪の帝国」
だったら、なぜ「図画」や「唱歌」を必修科目としたのだろう。
実は、現在でもなお、「音楽」を初等教育の必修科目として、ナショナル・カリキュラムが組まれ、初等および普通中等教育の学校すべてに、専門教育を受けて免許を取った音楽教諭が置かれている国はほとんどない。


日本は、明治時代から、国をあげて音楽教育に力を入れてきた国なのである。
そして、それは、近代化のために欧米諸国を視察して回った明治の元勲たちが、「国民すべてが、音楽を理解し、楽しめる国にしたい」と考えたからに違いないのだ。
近代化した欧米諸国には西洋音楽があった。音楽が近代に到るまでの人類が生み出した歴史の果実だとすれば、近代化する日本は、それを学ばねばならない、と。
軍隊を鼓舞する行進曲という音楽があり、明治政府が音楽を必修教科にしたのも軍国主義のためではないかと思う人がいるかもしれないが、だとしたら同じ芸術科目である「図画」を必修にしたことの説明にはならないし、第一、小学校で教わる「唱歌」はもっと牧歌的なものだった。
明治政府の掲げた教育方針は、近代化に貢献する国民づくりであると同時に、日本人は音楽を楽しむ豊かな感性をもった人間でなければならないということだった。
そしてそれは、戦後になっても変わらなかった。
1947年の学制改革で、6-3制の義務教育となっても、「音楽」は学習指導要領に残った。
小学校に入れば、週に1回は「音楽」の授業があった。音痴でも、恥ずかしがり屋でも、とにかく歌わせ、音楽に親しませる。そして通知表で点数化され、高校入試の「調査書点」にも加わる。国民の権利である義務教育で、ここまで音楽を「強制」される国は類を見ない。
(つづく)