音楽と民主主義(2) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ

本日3月14日は、過去BABYMETAL関連で大きなイベントのなかった日DEATH。

 

BABYMETALは、テレビを通じて知名度を上げ、CDを売るというビジネスモデルから脱却している点で、従来の「アイドル」の枠から外れる。

テレビに出ていなくても、いや、だからこそネットがメインの情報伝達手段となり、堅固なファンベースを持つ世界的スターになれたのは、ぼくらが「テレビに出ている人だけがメジャーなのだ」という思い込みから解放されているからである。ぼくらは、自分の目で、耳で頭で、本物だと思う音楽やアーティストを好きになればいいのであって、「メジャー」であることかどうかも関係ないのだ。

このように、宣伝に惑わされずに、情報を主体的に選択することこそ、民主主義の基本であると教えていたのが、1948~49年(昭和23~24年)に発行され、1958年(昭和33年)までの10年間、新制中学・高校で使われた社会科の教科書『民主主義』である。

この教科書は、長い間忘れられていたが、近年、復刻されたものを読み直してみると、右からも左からもウサン臭く思われてきた「戦後民主主義」という言葉や文部省のイメージをくつがえすほど深く、豊かな内容を持っていた。

特に主権者である国民が正しい判断を下すのに不可欠な情報を取捨選択する方法については、現代に通じる鋭い指摘に満ちている。

―引用―

「宣伝のことをプロパガンダという。プロパガンダということばがはじめて用いられたのは、1622年であった。それはローマ法王の作った神学校の名まえで、キリスト教の信仰を異教徒に伝えひろめるために、世界に送り出さるべき青年たちを、そこで教育した。それ以来、それが、組織的な宣伝を行う技術の名称となったのである。」(P.128)

「扇動政治家、特に扇動的共産主義者がきまって目をつけるのは、いつもふみにじられて、世の中に不平を持っている階級である。こういう階級の人たちは、言いたい不満を山ほど持っている。しかし、訴えるところもないし、自分たちには人を動かす力もない。それで、しかたなく黙っている。扇動政治家は、そこをねらって、その人たちの言いたいことを大声で叫ぶ。その人気をとる。もっともらしい公式論をふりまわして、こうすれば富の分配も公平にいき、細民階級の地位も向上するように思いこませる。自分をかつぎ出してくれれば、こうもする、ああもできると約束する。不満が爆発して動乱が起こっても、それはかれらの思うつぼである。そこを利用して政権にありつく。公約を無視してかってな政治をする。けっきょく、いちばん犠牲になるのは、政治の裏側を見ぬくことのできなかった民衆なのである。」(P.132)

「これをもう少し分析してみると、宣伝屋が民衆をあざむく方法には、次のような種類があるといいうるだろう。

第一に、宣伝屋は、競争相手やじゃまな勢力を追い払うために、それを悪名をもってよび、民衆にそれに対する反感を起こさせようとする。保守的反動主義者・右翼・ファッショ・国賊・左翼・赤・共産主義者など、いろいろな名称が利用される。(中略)

次は、それとは逆に、自分の立場にりっぱな看板を掲げ、自分のいうことに美しい着物を着せるという手である。真理・自由・正義・民主主義などということばは、そういう看板にはうってつけである。(中略)

三番目めは、自分たちのかつぎあげようとする人物や、自分たちのやろうとする計画を、かねてから国民の尊敬しているものと結びつけて、民衆にその人物を偉い人だと思わせ、その計画をりっぱなものだと信じさせるやり方である。(中略)

四番めには、町の人気を集めるために、民衆の気に入るような記事を書き、人々が感心するような写真を新聞などに出すという手もある。(中略)

五番めは、真実とうそをじょうずに織りまぜる方法である。いかなる宣伝も、うそだけではおそかれ早かれ国民に感づかれてしまう。そこで、ほんとうのことを言って人をひきつけ、自分の話を信用させておいて、だんだんとうそまでほんとうだと思わせることに成功する。(後略)」(P.134)

このあと、新聞、雑誌、ラジオについて述べ、「中でも新聞の持つ力は最も大きい。新聞は、世論の忠実な反映でなければならない。むしろ新聞は確実な事実を基礎として、世論を正しく指導すべきである。しかし、逆にまた新聞によって世論が捏造されることも多い」(P.137)と書き、それでも政府が強権をもって報道機関を取り締まることをせず、言論、出版の自由を保証するのが民主主義なのだと説き、「自由な言論のもとで真実を発見する道は、国民が”目覚めた有権者“になる以外にはない」(P.142)と断言する。

では具体的に、どうすればいいか。

『民主主義』は、そこで新たに「報道に対する科学的考察」という項目を立て、次のように書く。

「真実を探求するのは、科学の任務である。だから、うそと誠、まちがった宣伝と真実とを区別するには、科学が真理を探究するのと同じようなしかたで、新聞や雑誌やパンフレットを通じて与えられる報道を、冷静に考察しなければならない。乱れ飛ぶ宣伝を科学的に考察して、その中から真実を見つけ出す習慣をつけなければならない。」(P.143)

現代の情報社会で、最も大切な「情報リテラシー」こそ、民主主義の破壊者から身を守る必須の技術だというのが、戦後間もなく書かれた『民主主義』の骨子をなしているのである。

「一.科学的考察をするにあたって、まず心がけなければならないのは、先入観念を取り除くということである。われわれは、長い間の経験や、小さい時から教えられ、言い聞かされたことや、最初に感心して読んだ本や、その他いろいろな原因によってある一つの考え方に慣らされ、何ごとをもまずその立場から判断しようとするくせがついている。それはよいことである場合もある。しかし、まちがいであることもある。そういう先入観を反省しないでものごとを考えてゆくことは、とんでもないかたよった判断にとらわれてしまうもとになる。(中略)」(P.143)

この部分は、以前紹介した『ファクトフルネス』(ハンス・ロスリング)の書き方とソックリである。

『ファクトフルネス』が発行される70年も前に、わが日本の文部省は、中高生に対して、ウソの報道を見ぬき、「とんでもないかたよった判断」に陥らないように、「思考のクセ」を取り除き、科学的に考察せよと教えていたのである。

「科学的考察」のために注意すべきことは、このあと具体的に列挙される。

「二.情報がどういうところから出ているかを知ること」

「三.新聞や雑誌などを読むときには、イ.社説を読んで、保守か、急進かをできるだけ早くつかむこと。ロ.それがわかったならば、それとは反対の立場の刊行物も読んで、どちらの言っていることが正しいかを判断すること。ハ.低級な記事を掲げたり、異常な興味をそそるような書き方をしたり、ことさらに人を中傷したりしているかどうかを見ること。ニ.論説や記事の見出しと、そこに書かれている内容とを比べてみること。ホ.新聞や雑誌の経営者がどんな人たちか、その背後にどんな後援者がいるかに注意すること」

「四.今日では、国の内部の政治は国際問題と切り離すことのできない関係があるから、国際事情にはたえず気をつけて、その動きを正しく理解することが必要である。」

「五.世の中の問題は複雑である。問題の一つの面だけを取り上げてそれで議論をすることはきわめて危険である」

これらの項目は、現在もなお、マスコミやインターネットからの情報を取捨選択するうえで、必須事項である。

GHQの検閲下にありながらも、文部省が将来の国民を育てるために作った『民主主義』の先見性と正しさは疑いようもない。

ただ、こうした情熱のままに書きあげられた文体は、「教科書」としてはなかなか扱いにくいことも事実である。

どんな社説が「保守」あるいは「急進」なのか、何が「低級」なのか、「人を中傷している」とはどういうことなのか具体性を欠くし、情報を発信する経営者、後援者の素顔は、政治的意図があればあるほど、隠されているのが普通だ。

だから、この内容を本当に子どもたちに伝えようとするなら、「一部切り取り」「レッテル貼り」「繰り返し」「印象操作」などの典型的な例を示し、事例の練習問題を通じて、ウソを見ぬき、騙されない技術を身につけさせる教材やシラバスに落とし込む必要があるだろう。

もし、それを当時の文部省が徹底的にやっていたら、わが国の報道のあり方や、国民の政治的素養は大きく変わっていたに違いない。

しかし、おそらく、この本の高度な問題意識と、当時の現場教員の素養には相当な開きがあったはずだから、確信をもって工夫を凝らし、子どもたちに教えたとは思えない。教室で少し読んできかせ、あとは生徒の自主性にまかせるだけで終わったのではないか。

実際、『民主主義』は、1958年まで使われたとはいうものの、その後、1958(昭和33)年の学習指導要領の小・中学校第2次改訂、高等学校第3次改訂で、小・中学校に「道徳」が、高等学校に「倫理社会」が新設された際に、『民主主義』は教科書から外された。

その一因として、教科書『民主主義』には、「プロレタリア独裁」を掲げるソ連型共産主義(東欧、中華人民共和国、北朝鮮を含む)のありようを、民主主義とは真逆の「全体主義」と位置づけた部分があり、左翼陣営から激しく反発されていたこともあるだろう。

要するに、当時は、近代思想の基礎知識をもたない教員も、左翼党派にシンパシーを持つ教員も、ニュートラルで高尚な『民主主義』という教科書の意義を理解できず、うまく活用できなかったということなのだろう。

(つづく)