音楽と民主主義(1) | 私、BABYMETALの味方です。

私、BABYMETALの味方です。

アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ

本日313日は、2016年、NHK総合で、二度目の特集番組となる「MJ presents  BABYMETALスペシャル(仮)」が44日に放映されることが発表され、2017年には、AMDデジタルコンテンツオブジイヤー2016で、BABYMETALが優秀賞に輝き、KOBAMETALがスーツ姿で受賞するとともに、MIKIKO師も審査員特別賞を受賞した日DEATH

 

「ギミチョコ!!」のYouTube視聴件数が、2019310日ごろ、1億回を突破しましたね。めでたい。

日本人では、AKB48「ヘビーローテーション」「恋するフォーチュンクッキー」、きゃりーぱみゅぱみゅ「PON PON PON」、RADWINPSの「前前前世」、SEKAI NO OWARIRPG」、ピコ太郎「PPAPPen-Pineapple-Apple-Pen)」、三代目 J Soul BrothersR.Y.U.S.E.I.」などが1億回を突破しています。

「ギミチョコ!!」は、公開から5年かかりましたが、まだまだ伸びているのだから、ヤッパリBABYMETALはスゴイっすね。

 

現在ぼくらは、言論や表現の自由が保障され、選挙権、被選挙権という形で、誰でも平等に政治に参加できる社会に住んでいる。明文化された法律に抵触しない限り、インターネットでの発言を制限されることも、検閲されることもない。

それは、日本が民主主義国家だからである。

YouTubeで「ギミチョコ!!」動画を見たり、RedditBABYMETAL板に集まったりしている世界中のファンの中には、独裁的な政府の監視下におかれている人もいるし、そもそも自由にネットにアクセスできない人たちもまだ大勢いる。

その意味で、ぼくは日本に生まれて幸せだと思う。

敗戦後間もない昭和23年から24年(194849年)、文部省(現文部科学省)が自ら書いた社会科の教科書として、上下二巻で刊行され、昭和28年(1953年)まで新制中学・高校で使われていた『民主主義』という本がある。

1995年に径書房から復刻版が出版され、2016年には幻冬舎から新書サイズの「エッセンス復刻版」が出版されていたが、昨年10月に現代かな遣いに改めただけの全文収録の角川ソフィア文庫版(¥920税別)が出て、現在3刷まで重版されている。

著者が文部省(現文部科学省)であるということにも驚くが、その内容にはもっと驚く。

幻冬舎の「エッセンス復刻版」を編集した社会学者で東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授の西田亮介氏は、「『民主主義』は、GHQの指示のもと、法哲学者の尾高朝雄が編纂したもので、現在ならおそらく大学で使うにしても難しく感じるほど守備範囲が広く、内容が充実している。民主主義とは何かからはじまり、その留意点、ファシズムや独裁との差異、資本主義と社会主義の対立、日本における民主主義定着の歴史、民主主義を維持する方法論等々、この本を1冊読めば一通りのことはわかる」と述べていた。

また、これを読んだ作家の高橋源一郎氏は、「圧倒された。これは教科書以上のものであり、また『論』以上のものである」と述べた。

今回の角川文庫版では、作家の内田樹氏による解説とともに「読み終えて、天を仰いで嘆息した」というキャッチコピーの帯がついている。

現行の日本国憲法は成文法であり、条文が存在するが、戦後ぼくらが教えられてきた「民主主義」は思想の名前であり、厳密な条文があるわけではないとぼくは思っていた。

だから、日本国憲法と同様、日本の「戦後民主主義」は「GHQに押しつけられたもの」であるとか、「アメリカ型資本主義を導入するための欺瞞」であるとか、「悪平等をもたらす生ぬるい理想主義」とかの思い込みも生じやすかった。

右からも左からも、とかく「戦後民主主義」は評判が悪かった。

例えば、1970年に自衛隊市谷駐屯地に侵入し、クーデターを呼びかけて割腹自殺した作家・三島由紀夫は、

―引用―

私の中の二十五年間を考えると、その空虚に今さらびっくりする。私はほとんど「生きた」とはいえない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ。

二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変えはしたが、今もあいかわらずしぶとく生き永らえている。生き永らえているどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまった。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善というおそるべきバチルス(つきまとって害するもの)である。(197077日産経新聞夕刊「私の中の25年」より)

―引用終わり―

と述べているし、一方、同時期に新左翼運動の思想的支柱のひとりだった吉本隆明は、

―引用―

僕は戦後民主主義については終始批判をしてきました。もちろん、現在の市民社会についても僕は批判的です。なぜ、戦後民主主義や市民社会に対してぼくが批判的かというと、それはやはり、そこにはウソがあるからだということになります。戦後、GHQがやったことと比較しても、日本の戦後民主主義がいかにダメかということは明瞭です。(中略)

自民党から共産党に至るまで、日本の政党もウソばかりついている。ウソをついているというのは、「自分のことは棚上げにしてモノをいっている」ということです。自分が実際に実行できるかどうかということは棚上げにして、キレイごとやカッコいいことばりいっている。そして、他人にはキツイことばかり要求しているんです。

僕が戦後民主主義を批判するのはそういう点です。自分のことは棚上げにして、キレイごとやカッコいいことばかりいっていると、棚上げされた部分が汚物みたいに、すべて下に沈んじゃうんです。そして、何かきっかけがあると、その汚物がワーッと表面に出てくる。そういう社会は、非常に病的で、悪い社会です。

(「小林よしのり『戦争論』を批判する」19997月ぶんか社刊より)

―引用終わり―

もっとも、吉本隆明は、続けて「〝一般の民衆を主にして、あらゆることを考える〟ということを民主主義というのであれば、それはやはり、民主主義が基本だということになるんじゃないでしょうか。一般の民衆があらゆる意味で自由になり、豊かになっていく――それが、人類にとっての「理想の社会」「最終の社会」のイメージであるというのは疑いようのないことですから。歴史とは何かといえば、究極的には、その実現をめざしているのが歴史なわけです。ただ、僕が「民主主義がいい」というふうなことをあまり大声でいいたくないのは、そういうことをウカウカいっちゃうと、「共産党もそういっているし、かつてのスターリンだってそういったじゃないか」ということになって、彼らと同類とみなされかねないからです。自分を棚上げにして、ウソをいっているじゃないかと思われかねないからです。」

とも言っているので、射程はむしろ、「民主主義」と言いながら人々を抑圧する体制に向いているような気もする。

いずれにせよ、「戦後民主主義」は、なんとなく「ダメな思想」という風に見なされてきたと思う。

そしてその「ダメさ」の根源は、自分で考えず、子どもを鋳型にあてはめ、体制に順応する人材を養成するだけの学校教育にあり、それを管理するダメ役所の筆頭=文部省が、諸悪の根源であるというイメージにさえ結びついていたのではないだろうか。

ところが、この『民主主義』を読むと、そのイメージが一変する。

著者は、世界史や思想史の知識を網羅し、よりよい社会を築くために、人類が民主主義というしくみをどうやって形成してきたか、その欠点は何か、その破壊者は誰か、どうすれば守れるかといった情熱ほとばしる文章が、じゅんじゅんとつづられている。

日本の戦後民主主義には、きわめて精緻で具体的な「成文」があったのだ。それが、この『民主主義』である。

執筆にあたったのは、東大教授で法哲学者の尾高朝雄(1899年~1956年)であるとされている。

上巻が発行された1948年は、敗戦から3年後であり、中学・高校の教科書なので、当然GHQによる検閲がなされた。

だから、太平洋戦争に関しては、「軍部の独走」に、国民が歯止めをかけられなかったとか、大本営の宣伝を信じ込まされたという記述は多い。

だが尾高朝雄は、主権が天皇にあっても、国民にあっても、日本では社会制度上の道徳(=ノモス)にもとづいた政治が行われてきたというノモス主権論者だったため、明治憲法にも民主主義的要素はあったという「民主主義連続論」も一章を設けて説明されている。これを解説の内田樹は「焼け跡から掘り出すような」努力の跡と評している。

それより、文部省著作教科書『民主主義』の凄さは、現代でも全く色あせない、「民主主義を壊そうとするもの」への鋭い指摘である。

(つづく)