学校と成長(2) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
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★今日のベビメタ

本日8月1日は、2014年、Lady GAGA’s Art Raveラスベガス@MGMグランド・ガーデンが行われた日DEATH。

 

1995年、埼玉県土屋義彦知事(当時)の「偏差値は永遠に高校に渡さない」発言に端を発し、全国に「脱偏差値」という嵐が吹き荒れた。

当時、東京、埼玉、千葉などの中学校で恒常的に行われていた業者テストの偏差値を用いた進路指導が「青田買い=悪」とされ、その後、「人物重視」による公立・私立高校の推薦入試導入、「新しい学力観」に基づく学習指導要領の削減(=ゆとり教育)、中学校の内申書(通知書)が相対評価に代わって絶対評価となるなど、2000年代中頃まで、矢継ぎ早に「教育改革」「高校入試改革」が行われた。

ぼくは、この一連の文部科学省の政策は、ゆとり教育という名のもとに公教育の学力水準を下げ、国力を低下させた戦後最悪の愚民化政策だったと考えている。

当時、文部省初等中等局長として、次々に全国の中学校や私立高校に脱偏差値の「通知」を出していたのが、前川喜平前文部科学省事務次官のオトモダチ、Mr.脱偏差値こと、寺脇研氏だった。

直接の結果でないにしろ、この20年の間に、長年アジアにおいて理数系の学力No.1だった日本人高校生の平均学力順位は相対的に低下し、「新しい学力観」で学んだ「ゆとり世代」と呼ばれる卒業生が社会に出て、それまでの世代とは“常識”や価値観が異なるといった指摘がなされるようになった。

それが再転換され、各都道府県の高校入試において、従来の学力重視型試験に戻ったのは、2012年の第二次安倍政権で、板橋区の学習塾出身の下村博文衆議院議員が文部科学大臣に就任した時代であり、教育再生会議(現教育再生実行会議)で、2020年以降の大学入試制度の変更、学習指導要領の改訂がスケジュールに上っている。東京都議会議員選挙の投票日直前に、下村氏が加計学園理事長と会席していたとしてマスコミに取りざたされ、都議選惨敗の責任をとって、自由民主党東京都連会長を辞任した。

マスコミは教育関係の問題が新聞購読数や視聴率につながると思えば、ものすごい集中力で取材・報道する。ぼくも“脱偏差値”のキャンペーン中には、取材を受けたり、テレビ(さ学、ベビメタと同じテレビ埼玉だよーん)に出たりしたこともあるのだが、社旗を立てた黒塗りの社用車でやってくるA新聞、Y新聞、M新聞の社会部記者は、都道府県・市区町村の教育委員会が運営する公立中学・高校と、学校法人が運営し、都道府県知事部局(学事課)が管轄する私立中学・高校の違いも知らなかった。

インタビューを受けた後、出た新聞記事や発言のほとんどがカットされたTV放送を見て、結局、マスコミが望むのはセンセーショナルな見出しになるワンフレーズだけなんだなあと思ったのを覚えている。

だが、毎年コロコロ変わる「入試改革」で迷惑するのは、入試を控えた受験生なので、その都度、新制度批判の論陣を張ったり、保護者への説明会や、超党派のオンブズマンサークルに参加したりしてきた。

ぼくが90年代に主催していた、当時のパソコン通信Nifty-Serveの「塾と予備校の教育情報フォーラム」は、その議論の場として作ったのだが、実際には全国1万人の塾・予備校の先生の交流の場となった。

そんなぼくから見て、森友学園、加計学園の“問題”の本質は、とても単純である。

森友学園“問題”は、小学校を開設したくてたまらない理事長夫妻に学校設立に必要な基本財産がなかったのがそもそもの発端である。そこで彼らは、ネットを使って強烈な教育方針を打ち出し、安倍首相の妻に接近し、その知名度や権威を利用して、強引な寄付を募り、設立申請書、補助金の申請書にもいくつも虚偽記載をした。近畿財務局が、国有地を二束三文で予約分割売却したのは、そこが誰も買い手がつかないほど劣悪な条件の土地だったためである。

そうした胡散臭い動きを地元の革新系市議がかぎつけ、革新系の政党連合が安倍政権の倒閣運動に利用した。その無茶苦茶なキャンペーンに辟易して、安倍首相側が、学校法人とは無関係と強調したため、これまで安倍首相を“味方”だと思いこんでいた理事長夫妻は、あろうことか掌を返して革新系の政党に肩入れし、安倍首相批判側に回った。つい先日、理事長は補助金詐欺容疑で逮捕された。

加計学園“問題”は、日本獣医師会からの要望を受けて私立大学の獣医学部新設申請は当面認めないという文部科学省の方針(告示)を、今治市が国家戦略特区という規制改革のしくみを利用して打ち破った。これに対して、文部科学行政の慣習および省の権能を守ろうとして、あろうことか前文部科学事務次官の前川喜平氏(と省内の協力者)が、安倍政権倒閣を目指す革新系政党及びマスコミとタッグを組んで反乱したという事件である。

新聞、テレビ局などのマスコミは、1970年代型の心情サヨク思考で、自民党政権を批判すれば、新聞購読数や視聴率が伸びると思いこんでいる。

しかし、今回のキャンペーンは、70年代に田中角栄政権に対して、事実関係を詳細に調べて汚職を糾弾した立花隆のロッキード疑獄のようなしっかりとした論拠があるわけではなく、小学校新設や大学の学部新設の手続きに、安倍首相本人が関与していた“かもしれない”という、業界を知る者としては到底理解しがたいストーリーが骨子となっている。

そして安倍首相の“味方”だったはずの愛国思想の理事長夫妻、天下りの責任をとって辞めさせられた前事務次官が、告発者として登場し、安倍政権に対して反乱を起こすという事態が今回の大きな特徴である。

自民党総裁としての安倍首相が、憲法改正を現実的な政治課題として掲げたため、なんとしても安倍政権を倒したい革新系政党と心情サヨクのマスコミは、格好の劇場型のネタとして大キャンペーンを張る。テレビと新聞しか見ない、ネットで調べることをしない世帯にとっては、安倍首相が権力をかさに着て、オトモダチに利得を図ったスキャンダルのように見える。これによって内閣支持率、自民党支持率は下がったとされる。

だが、私立学校の新設に、内閣総理大臣が関与することは、行政手続き上、不可能である。

日本は法治国家なので、行政手続きはすべて法律に規定されている。学校の設置や学部新設が、権力者の鶴の一声で行われることは絶対にありえない。行政手続きを定めた制度を変更する際には、選挙で選ばれた国会議員の多数決で法律を変えなければならない。どこかの国のように、一党独裁、人治主義の国ではないのだ。

学校関連では、学校教育法、私立学校法、学校教育法施行規則、各都道府県の条例という法律にのっとり、学校設置基準を満たし、近隣の私学代表や有識者からなる審議会の審査を受けて了承されなければ、何人たりとも学校を新設することはできない。

幼稚園から高等学校までは、都道府県ごとに置かれた私学審議会を経て、知事部局が最終的に認可・公示するし、大学の学部新設の場合は文部科学省の高等教育課が設置基準をクリアしているかどうかをチェックし、大学設置審議会の審査をパスしたものを文部科学大臣が最終的に認可・公示する。このプロセスに内閣総理大臣が関わること自体、不可能である。

学校設置基準というのは、基本財産、寄付行為(学則)、定員と就任予定の有資格教職員数、校舎や教室や校庭の面積、必須の設備・備品・蔵書などを事細かく規定したもので、地方自治体によって地域事情を勘案して数値が異なる部分もあるが、私立学校といえども、公立学校と同等の教育環境を国民に提供しなければならないという観点で設定されている。

また、認可前に生徒、学生を募集してはいけないのだが、私学審議会をパスした段階で、「○○年4月開校予定」「認可申請中」という文字を入れれば、前年から募集活動をしてもいいことになっている。

海外にはこういう地方自治体や国=文科省による法的な基準や審査そのものがほとんどないので、日本は遅れているといった意見を一部の識者が出しているが、ぼくは、ナショナルカリキュラムである学習指導要領も含め、こうして法律に定められ、公的機関および審議会による審査があるということは、良いことであり、公教育の公平性や水準を担保する上で必要な措置だと考えている。

念のために言っておくと、国立、都道府県市区町村立の大学・高校・中学校・小学校・幼稚園だけでなく、学校法人によって経営される私立大学・専門学校・高校・中学校・小学校・幼稚園も、社会的に価値のある卒業証書がもらえる公教育ですよ。

株式会社や個人事業主によって経営される学習塾や英会話教室、スポーツジム、音楽教室、アクターズスクール、ダンス教室などは、申請など不要で、生徒さえ集まるなら誰でもでき、「能力を身につける」ことが目的で、卒業したからといってなんら資格が取れるわけではない私教育である。

外国人向けの日本語学校は、学校法人が設置し、都道府県が認可すれば日本語学校や大学の別科と名乗れるが、株式会社立の場合は、国(文部科学省及び法務省)が設置基準を作り、日本語教育振興協会が申請を審査し、都道府県及び法務省入国管理局が認可するもので、日本語「学院」「インスティテュート」などになっているはずである。

加計学園の件は、そのような行政上の区分や法的構成から長年行われてきた文部科学省による規制が、国家戦略特区という別の仕組みで突破されたことに対する官僚の猛反撃だとはいえよう。

しかし、「安倍首相が関与した」という話は、倒閣を企図する政党と、社会の木鐸を自称する新聞社と、反権力で視聴率が取れると思っているテレビ局のワイドショーで面白おかしく語られるネタに過ぎない。

本当に議論すべきは、法治主義という大前提のもとで、これまでの文部科学行政、言い換えれば、学校や教育の公的規制がどこまで妥当か、時代遅れになっていないかということであり、問題にするならそれを具体的に論じ、法律の改正案として国会で審議するべきであって、首相が誰であろうが関係ない。

今回に関していえば、大阪府学事課および大阪府私学審議会が、資金力に不安のある森友学園の審査を通してしまった甘さこそが問題であり、加計学園に関しては、7月10日以降4回も行われた国会の閉会中審査をYouTubeで全編ちゃんと見れば、真相はクリアである。

元文部省官僚で、元愛媛県知事の加戸守行氏の参考人答弁によれば、愛媛県と今治市は、鳥インフルエンザや牛口蹄疫の被害が出ているのに獣医師が不足している四国に、獣医学部を持った大学を誘致しようとし、いろいろ当たったが、なかなか手が挙がらなかった。12年前に近県にある岡山理科大学(学校法人加計学園)が候補になり、土地の手当て、設置基準、大学経営の事業計画は十分に準備済みだった。

ところが、前述した日本獣医師会の要請を受けた文部科学省の規制によって、15回も行った申請はことごとく阻まれてきた。昨年ようやく、国家戦略特区という規制改革のしくみによって設置妥当とされ、来年2018年4月の開学にこぎつけた。

獣医学部の新設は52年ぶり。この間、既存大学の獣医学部の人気は高く、入試は難関で、毎年総定員を数百名もオーバーする事態が続いてきた。日本獣医師会の要請による文部科学省の獣医学部新設申請却下という“方針”こそ、異常だったのである。

「安倍首相の関与」によって文部行政が歪められたなどとする前川喜平氏の主張は、内閣総理大臣が、大学の学部新設プロセスに関われないことを熟知していて、なおかつ国家戦略特区という規制改革のしくみに打ち破られたからこその悔し紛れの発言である。語るに落ちるとはこのことである。

だが、そこをはっきりと報道するテレビ局や新聞はない。閉会中審査での加戸氏の発言部分をカットし、前川氏の発言だけを取り上げるのは、事実を客観的に報道すべしと定めた放送法違反である。改憲に向かう安倍政権を打倒するためなら何でもするというマスコミの姿勢こそが、本当の“問題”なのである。

 

だが、このことによって公教育の信頼が失墜したかというと、そうでもなさそうだ。

というより、もともと、学校には子どもにきちんとした教育をしてほしいが、過重な期待もしていないというのが庶民の実感ではないか。文部科学省の役人や、学校教育関係者の使命感とは裏腹に、学校と子どもの成長とは、関係しているようでほとんど関係ない。

学校だけが子どもの成長の場ではない。学校に行っていない今、夏休みの方が、子どもが大きく成長することを、ぼくらは肌身で知っている。

子どもは、法的に正規の学校でなくても、きちんとしたカリキュラムがなくても、生活の中で、大人や社会とのかかわり合いを通じて、勝手に何かを学び成長していく。そしてそこが「私の“学校”だった」と、後になって懐かしく思い出すものだ。

だから、正規の学校でないさくら学院のことを、YUIは「いつか有名になって、スーパーレディになって、さくら学院はこんなにすごい学校だってことをいろんな人に広めたい。」と述べたし、MOAは「とりあえず卒業したらSU-、YUIとBABYMETALとして信じる道を進んで、さくら学院を広げてって、いつかはMOAMETALじゃなくて、菊地最愛として戻ってきたい。」と述べた。

SU-は卒業に際して、特に何も述べていないが、世界的歌姫として認知された今でも、毎年3月のさくら学院卒業式には、全くオーラのないすっぴんで登場している。

アミューズと契約解除になってしまった武藤彩未や、モデル、女優として活躍している三吉彩花、松井愛莉が来ていない中、SU-、杉崎寧々、飯田来麗、佐藤日向、YUI、MOA、田口華、野津(本条)友那乃らが卒業式=同窓会に来ることが、どれだけ在校生の励みになることか。さくら学院は、学校教育法上の学校ではないが、卒業生、在校生にとってはかけがえのない学校なのである。

そのことは私立恵比寿中学にも言えることだろう。コミカルな設定なので、リアル中学を卒業し、リアル高校を卒業したあと大学へ進学しないと、「プロ中」=プロ中学生と呼ばれるようになるのだという。小林歌穂、中山莉子は今年高校2年生だから、あと1年半、星名美怜は大学生なので、まだプロ中ではないが、廣田あいかはもうプロ中である。そんな中、大学進学を目指していた松野莉奈が亡くなるという不幸がメンバーを襲った。前回も書いたようにそのことが、私立恵比寿中学というサブカルアイドルユニットに深みを与えた。

子どもの成長は、国や学校が用意したカリキュラムにしたがって起こるのではない。

子どもが、家庭や、自分が置かれた環境とせめぎあう生活史の中で起こるのである。

もし自分たちの働きかけによって子どもの成長を起こせると考えている学校経営者や教員がいるとすれば、それは未熟というしかない。子どもは与えられたものによってだけではなく、不幸や逆境や悲しみによっても成長するのだから。

(つづく)