学校と成長(3) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
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★今日のベビメタ

本日、8月2日は、2014年、Lady GAGA’s Art Rave@ステイトライン・Harveys Lake Tahoeが行われた日DEATH。

 

教育という営みは、複雑で、二面性を持った動的なプロセスである。

そもそも教える者と学ぶ者は対等であり、両者の関係性、教育法、評価、成果などをめぐって、常に綱引きをしているといってよいものだ。

「出藍の誉れ(しゅつらんのほまれ)」という故事成語がある。『荀子』にある言葉で、「青は藍より出でて藍より青し」ともいい、藍草で染めた布は、藍草よりも鮮やかな青色となることから、これを師匠と弟子の関係に喩えたものだ。

師匠は弟子を教えるが、弟子が師の教えた通りのことを習得しただけでは修了とはいえない。師の教えの範疇を超え、師を上回って初めて教えが完成されるという。

西洋近代の教育法では、あるひとつの知識や技術の体系を、段階的にマスターできるように計画的に配置することを意味する“カリキュレー”という動詞から、“カリキュラム”というものが組まれ、それに従って学習が進む。

しかし、職人や伝統芸能に見られる古くからの教育法は、弟子に頭で考えさせることなく徹底して「型」を叩き込むか、「言葉ではなく背中で教える」といった、一見、弟子の人間性を無視するような非合理なやり方だった。

西洋近代の教育法は、誰でも、わかりやすく、速習が可能で合理的に見える。だが、このやり方では、学習者は、指導者の作ったカリキュラムの枠組みを超えることはできない。カリキュラムがよくできているほど、学習者は受け身になってしまう。そのため、ある一定のレベルには容易に達するものの、それ以上の伸びが止まってしまうのだ。だからそれに気づいた主体的な学習者は、その枠から外れることを望むようになる。

伝統的な教育方法では、カリキュラムなどなく、学習者が指導者に疑問を発することさえ許されず、自分で気づきを得なければ先へ進めない。逆説的だが、そのためにより主体的に、深く考えるようになり、最終的には指導者の限界に気づき、それを超えるところまで伸びていくことになる。それを「出藍の誉れ」といって、教育の理想としているのだから奥が深い。

前者を西洋的・近代的とすれば、後者はアジア的・伝統的と表すことにしよう。

この教育をめぐる二つの考え方は、両者のミックスであるわが国では、近代的な公教育制度の中でも、教育を施す側と学ぶ側の生徒の関係性の中に見え隠れする。

学習塾という現象は、その一つの表れだとぼくは考えている。

また、日本の学校では、教育を受けることの意味そのものが二面性を持っている。

日本では、公教育制度としての学校は、明治の学制以来、「国家に有為な人材育成の場」であった。だがそれと同時に、学校は「近代化の橋頭保」(イギリスの教育社会学者R.Pドーアの言葉)であり、近代化を進める国にあって、学校を出ることは「庶民の立身出世の手段」だった。

ヨーロッパの階級社会やアジアの発展途上国では、出身地や門閥や財力で卒業校=社会的地位が決まってしまう。しかし、日本には、東京帝国大学を頂点とする国公立大学・高校・中学・小学校という全国ネットワークがあり、全国一律の学習指導要領に準拠した学力テストをパスしていけば、田舎の貧しい農民の子でも、高給取りの国家公務員や大企業の社員になれる。これは世界的にも稀な平等・公正な教育制度だ。

明治以降、日本の近代化、社会階層の流動化はこの制度によって非常に効率的に実現した。だから、最終学歴によって社会への入職経路が決まる学歴社会ないし「学校歴社会」(教育学者天野郁夫の言葉)は、国の教育政策と庶民の出世欲との共犯関係によって生まれたのだといえる。

その証拠に、明治25年には、すでに「東京遊学案内」という受験案内本が出版され、官立学校受験のための予備校も存在した。それらの中には、のちに発展して専門学校や大学になったものもある。(『試験の社会史』天野郁夫)

経済格差が教育格差につながる「負のスパイラル」が生じている今、一方的に学歴社会が悪い、などと決めつけることはできない。

東大生の家庭は年収1000万円以上などといわれるが、今でも、塾へ行けない貧しい家庭に生まれても、義務教育のうちは無償で配布される教科書や副教材を完璧に暗記してしまえば、はっきり言って都道府県のトップ公立高校には合格できる。そこでも5教科7科目の教科書内容を完全にマスターし、図書館にある過去問題を完璧に解けるようになれば、東京大学や京都大学に合格でき、そこでも努力して国家公務員試験をパスすれば、実務能力はともかく、大蔵省や法務省に入れ、その家族は「負のスパイラル」から確実に抜け出せる。

画一的な学力検査だけで合否が決まるのは悪だとするのは一面的な見方であり、実は、きわめて平等・公正な制度だともいえるのだ。

学校が二面性を持つもうひとつの例をあげよう。

日本では、教科書は、国が決めた学習指導要領に準拠し、授業もそれに沿って行われる。そして成績評価は、定期テスト、小テストの点数をベースにつけられる。そして進学しようとする学校の入学試験も学習指導要領に準拠した学力テストが中心となる。合否結果は得点次第であり、きわめて公正である。

欧米やアジアの名門校では、教育内容に国家統制がないために、試験内容は各校まちまちで、出身地や家庭の教養度と、選考する学校側の学力観が一致していないと合格しない。最初から競争から除外されてしまういわゆるHidden Curriculumの問題が生じる。

それに比べて日本の制度は、努力がきちんと報われる、合理的かつ平等な制度である。だから、教師は生徒たちに「頑張って勉強すれば努力は必ず報われる」と言って励ます。

その一方、学校という場で、教師は生徒に対して「個性を伸ばせ」「君たちには無限の可能性がある」などとも言う。教育心理学では、赤ちゃんのような「万能感」が矯正(去勢)され、社会に適応していくことこそ、「成長」だと規定しているのだが、教師は生徒の人間性や自由を尊重して、「ありのままの君でいい」「常識を疑え」といった理想論を語る。

これはダブルバインドだ。勉強の評価は点数という形で客観的に数値化できるものであり、採点基準は公正に同一でなければならない。同じ尺度の点数競争で「頑張れ」といっているわけだ。しかし「個性を伸ばせ」ということは、一般的な価値基準に縛られず、自分らしく生きろということであり、大人の決めた点数競争からドロップアウトせよと言っているに等しい。

こういう矛盾したことを平気で言うのが教師や教育関係者なのだが、これは教育や学校が持つ二面性に由来しているからしかたがない。

これを矛盾しないようにすると、かえってヘンなことになる。

寺脇研氏らが進めた1990年代後半の“教育改革”では、「新しい学力観」とやらに基づいて、客観的な点数を取れなくても、教科に「興味関心がある」「意欲がある」というだけで評価し、教師が「この生徒は頑張っている」と思えば「5」をいくらでもつけていいという「絶対評価」を採用するよう、全国の小中学校に通知した。しかも各都道府県の公立高校は、すぐさまそれを推薦入試の尺度にした。

これで何が起こったか。

教え方の巧拙が如実に出るテストの点数、順位だけでなく、自分の主観で評価してもよくなった教師は、教科担当クラスの絶対権力者となり、生徒は、先生の目の前でやる気があるように見せかければいい内申点がもらえ、推薦入試に有利になるという事態が生じた。

先生にいい評価をもらうための嘘演技を指南する塾さえ現れた。例えば、数学の定期テストでひどい点数をとっても、職員室へ行って、「先生、今回は点数悪かったけど、あたし、先生のおかげで数学が好きになってきたんだ。次は頑張るね♡」と、毎回ヨイショしまくるのだ。これで絶対評価では「興味・関心・意欲がある」ということになる。一方、塾へ通ってコツコツと勉強するタイプで、テストの得点はいいのだが、引っ込み思案でコミュニケ―ション力に乏しい生徒は、「意欲に欠ける」「積極性がない」と評価されて内申点が悪くなった。当時、こういうタイプの受験生や保護者からずいぶん相談を受けたものである。

演技力やコミュニケーション能力が「学力」になったのだ。このころ、全国にキッズ向けの劇団やアクターズスクールが乱立するようになったのは直接関係ないと思うけど。

日本において「人物重視」の推薦入試制度が公教育制度に導入されたのは、この1990年代後半~2000年代の時期だけではない。実は、戦前、難関となった官立中学校の入学者が、学力検査を通った「学力秀才」ばかりで困るということから、愛国心にあふれた生徒を尋常小学校や高等小学校の「内申」によって推薦入学させる制度が導入されたのだ。その結果、縁故、情実が横行し、有力者の子弟が優遇される事態となって、この制度は短期間で廃止された。明治憲法下の戦前でも、わが国は、階級社会でも、人治主義の国でもなかった。

日本では、入学試験に客観性や公平性を担保することは、公教育制度の生命線なのだ。1990年代の“高校入試改革”の推進者たちは、こうした歴史に学ばなかったのだ。

ぼくは、1990年代から、ある女性塾長が主催していた埼玉県の市民オンブズマンのメンバーとして学習会に参加し、その会では推薦入試の廃止、一般学力試験の復活を訴える提言書を何度も県に提出した。

2010代頃から、主に学力低下の問題と、受験生が殺到して高倍率になる推薦入試の不合理さが広範に知られるようになり、“脱偏差値”の発祥地の埼玉県は、先頭を切って推薦入試を廃止した。そのほかの都道府県でもサミダレ式に推薦入試が廃止され、かつてのような学力検査中心の高校入試制度に再変更されていった。関東の公立高校入試で推薦入試が残っているのは東京都だけである。

それはともかく、公教育制度としての学校が、様々な位相で二面性を持っており、学校は教育の場であるだけでなく、進路選択=社会的選別の場であることがおわかりいただけるだろう。また、教育を施す側のカリキュラムや評価方法を工夫しても、主体的な学習者ほど、その枠からはみ出ようとするものであり、そこでの「成長」は、本当の成長ではないこともわかるだろう。

学校とは、こういう矛盾に満ちた場所なのだ。だから、学校という場に放り込まれた子どもは、思春期のどこかで気づくのだ。

先生は「無限の可能性がある」と言うけれど、自分の成績はたいしたことはないし、部活も楽しいけれど天才的にうまいわけじゃない。ぼくは特別じゃない。自分の限界を見極めて、社会の歯車のどこかに組み込まれていくのが、「大人になること」なのだろう。いつまでも「プロサッカー選手になりたい」「世界的なアーティストになりたい」などと言っているのは、大人になり切れない「モラトリアム」だ。先生はいいように言うけれど矛盾だらけだ。騙されてはいけない。大人の嘘を見抜き、つまらない大人と同じになることが、望まれている「成長」なんだ、と。

だから、BABYMETALやエビ中はもちろん、他のアイドルグループや神バンドのメンバーが「成長」したのは、学校という場ではなかった。社会的な「成長」にどこか折り合いをつけねばならなかった同級生に比べて、彼らは決してあきらめなかった。年齢や境遇に関係なく、人の心を動かすアーティストを目指して頑張り続けている。

ぼくらは、その成功する過程を見て、「成長した」などと感慨にふけっているに過ぎない。

では、「成長期限定ユニット」を「卒業」して、看護師を目指しているといわれる杉崎寧々や、演者側ではなくプロデュース側を目指すという磯野莉音は「成長」したのではないのか?

一体、本当の「成長」とは何か?

(つづく)