『敗者の想像力』をめぐって(2) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
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★今日のベビメタ

本日5月27日は、過去BABYMETAL関連で大きなイベントのなかった日DEATH。

 

同じく本日5月27日は、2016年、オバマアメリカ前大統領が広島を訪問した日DEATH。

原爆慰霊碑の前で、オバマ前大統領が安倍首相と並んで行った演説は次の言葉から始まる。

「Seventy-one years ago, on a bright cloudless morning, DEATH fell from the sky and the world was changed.」

「71年前、雲一つない朝、空から”死”が落ちてきて、そして世界は変わってしまった。」(翻訳:jaytc)

オバマ前大統領の演説から1か月後の2016年7月、庵野秀明監督の「シン・ゴジラ」が封切された。

公開から111日となる11月16日に累計動員数は560万人と、東宝ゴジラ映画としては「キングコング対ゴジラ」(1962年、1255万人)、初代「ゴジラ」(1954年、961万人)、「ゴジラの逆襲」(1955年、834万人)、「モスラ対ゴジラ」(1964年、722万人)に次ぐ興行成績を収めた。

「シン・ゴジラ」のキャッチフレーズは「現実(ニッポン)VS虚構(ゴジラ)」である。

この作品の特徴は、映画に描かれた現代の日本が、従来の東宝ゴジラ映画シリーズとは違ってゴジラの存在を全く知らず、怪獣の出現を一種の災害ととらえ、政府に「巨大不明生物災害特別対策本部」(巨災対)を設置して対応するというプロットになっていることである。

右往左往する登場人物はほとんどが政府関係者、公務員であり、字幕で登場人物の名前と役職が出る。

謎の科学者、牧博士のデータにより、ゴジラ出現の原因は「60年前」に海洋投棄された大量の放射性廃棄物を食べた生物の突然変異であるとわかるのだが、機密に触れたためか博士は行方不明になってしまう。

しかし、これは明らかな「嘘設定」である。原子力発電所が実用化されたのは1957年のアメリカ・シッピングポート発電所が最初で、日本は1963年、フランスは1964年であるから、2016年の「60年前」、1956年ごろに「大量の放射性廃棄物」が出るはずがない。

米国政府の代表として巨災対に乗り込んでくる石原さとみ演じる野心的なバイリンガルの女性行政官は、明らかに胡散臭い。

さらにいえば、第一形態から第四形態まで姿を変えるゴジラの造形も、上陸した頃はとてもゴジラとは思えない、コミカルなナマズのような姿だった。

こうして嘘っぽさを織り込むことで、庵野監督は、この映画がフィクションであり、ゴジラが原発事故などの“非常事態”の換喩であることを示唆している。

映画に描かれる2016年の日本国民が「初めてゴジラを見た」という設定になっているのも、現実の日本がそうだからだ。これによって、「シン・ゴジラ」は、初代ゴジラと同じく、「フィクションだがリアル」という観客の視座を確保している。

とりわけ、初代ゴジラと同じように、対怪獣という形をとりつつ、映画の中で自衛隊による「戦闘」が描かれることは、大きな意味を持つ。

日本国憲法第九条は、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。第二項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。戦争は国際紛争の解決の手段としては認めない」となっているが、政府は、「日本国憲法は自衛権の放棄を定めたものではなく、自衛のための必要最小限の実力は「戦力」には当たらない」として、朝鮮戦争が勃発した1950年の警察予備隊、1952年の保安隊を経て、1954年、自衛隊が発足した。

初代「ゴジラ」では、その発足したばかりの自衛隊(映画の中では「防衛隊」)の戦車、火砲、戦闘機、護衛艦による攻撃が堂々と行われる。ゴジラは「国」ではなく、怪獣退治は「戦争」ではないので、憲法違反には当たらないし、軍国主義の復活だと批判を浴びることもなかった。

しかし、いうまでもなく、このシーンは円谷英二が担当している。円谷は戦争中に「ハワイ・マレー沖海戦」や「加藤隼戦闘隊」などの戦意高揚映画を撮影し、戦後、米軍関係者から実写だと思われるほど、卓越した特撮技術を持っていた。

日本の再独立後、1953年に公職追放が解除されると、円谷英二は本多猪四郎監督とのコンビで、特撮戦記映画「太平洋の鷲」を撮影する。1954年公開の「ゴジラ」はその延長にあり、観客=敗戦国民に久しぶりの「戦意高揚」感をもたらしたはずだ。

2016年の「シン・ゴジラ」では、日米安全保障条約および施行されたばかりの平和安全法制(安保法)に基づき、日本国政府が米国政府に米軍の出動を要請し、自衛隊と在日米軍が、日本の領土内で初めて共同軍事作戦を行う事態が描かれる。これもまた、サヨク系から「違憲だ」「戦争法だ」とか、隣国から「軍国主義の復活だ」と非難されることはなかった。相手はゴジラなのだから。だが、観客=日本国民は、この映画に、なにがしかの「リアルな有事体制」を見ることになったはずなのだ。

こうして、「シン・ゴジラ」は、初代「ゴジラ」と同様、荒唐無稽な巨大怪獣映画でありながら、子ども向けの娯楽映画ではなく、日本国民に一種の「思考実験」を強いる作品になった。ゴジラが原発事故という“災害”の、あるいは北朝鮮のミサイル発射や中国の尖閣諸島侵略といった“有事”に際して、政府や国民がどう行動するかをシミュレーションしてみせ、考えさせるのだ。

もっとも、「ゴジラ」の防衛隊や、「シン・ゴジラ」の日米連合軍は、無力である。自衛隊のロケット砲に動きが鈍ったようなシン・ゴジラだったが、米軍の攻撃機による爆撃に、初めてシリアスに怒り、口と背びれから熱戦を出して、米軍機を全滅させる。そして初代ゴジラのように咆哮する。「おれの日本はどこへ行ったのだ」と。

加藤典弘は、こういう「シン・ゴジラ」もまた、「敗者の想像力」の産物だとする。

監督の庵野秀明は、いうまでもなくアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」の監督であるが、6年間を費やして制作された2012年公開の「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」で神経をすり減らし、「重い鬱状態だった」という。彼が戦った相手は誰だったのか。加藤典弘はそれを「電通的なるもの」、と呼んでいる。

株式会社電通は、日本最大の広告代理店であり、グループ連結売上高4兆円に達する世界での5指に入る巨大企業である。TV広告はもちろん、TV番組、映画、アニメ、音楽作品、スポーツにいたるまで、日本の大衆芸能・文化のほとんどの分野の制作に関わる。表現者、アーティストにとって、その存在を無視することはできない。実際、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」にも「シン・ゴジラ」にもタイトルロールに「電通」がクレジットされている。

もちろん、加藤典弘は実体としての株式会社電通を名指しているわけではないし、広告代理店のすべてがクライアントの意向を笠に着て、表現者、アーティストに対して具体的明示的な「規制」を敷き、現場で細部にわたって干渉するわけでもないだろう。

しかし、作品を商品として流通させることを考えたとき、「表現したいこと」と「ヒットさせること」とのせめぎあいや、表現者自身に内在化された「戦後日本社会の良識」や「公共の福祉」との葛藤がない方が不自然だ。それを指して、加藤は「電通的なるもの」と言っているのだと思う。

商業作品として作品を完成させ、流通させつつ、そうした「電通的なるもの」との戦いを自らに課していくことは、やはり表現者にとって、相当の苦痛と覚悟を伴うのではないか。それを引き受けつつ、完成させた庵野秀明の「シン・ゴジラ」を、加藤典弘はやはり「敗者の想像力」から生まれたと評しているのだ。

秋元康とAKBグループの営業は電通が仕切っており、メンバーが社員やクライアントを接待している云々の話は、ネット上に流布する煽情的なネタなのでここでは触れない。

だが、BABYMETALが、日本のTV番組やCMに出演せず、ライブ活動と海外エージェントによる活動を中心にしているのは、こうした「電通的なるもの」との摩擦を避ける知恵なのかもしれないという気はする。

 

BABYMETALのライブで、オープニングの定番は、「BABYMETAL DEATH」である。

この曲は、2012年、TIF=「東京アイドルフェスティバル」で、1秒バージョンが披露され、初出演したサマソニ2012のSide Show Messeでも披露された。

そして、同年10月のLegend“I”でフルバージョンが初披露され、2013年2月のLegend“Z”では、解散の危機にあったBABYMETALが、SU-のさくら学院卒業後も存続する、という文脈の中で、ファンのC&Rに応えて、死からの復活を意味する白装束を来た三人が、同じく再降臨した神バンドの生演奏の中、この曲を歌い踊った。

2016年4月のウェンブリー公演は、「Even DEATH has no power for BABYMETAL…」(死でさえも、ベビーメタルには無力だ)という紙芝居からスタートする。

一体、日本の、世界の、どんなアイドルが、ライブのオープニングで、「死、死、死…」と叫び、トランス状態に入っていくだろう。

「電通的なるもの」と相いれないことは明らかだ。

もちろん、日本語の「~です。」という断定の助動詞が、英語の「DEATH=死」と発音上似ている=ダジャレに過ぎないというのはその通りだ。

KOBAMETALがアイドルにデスメタルをやらせるにあたって、1秒曲でギネス記録を持つナパームデスを“オマージュ”したり、METALLICAの「One」をモチーフにしたというのも、単なる知的お遊びに過ぎないかもしれない。

だが、今やBABYMETALの「BMD」は、もっと深い意味を持っている。

原爆=オバマ前大統領のいう「空から落ちてきた死」によって、変わってしまった世界、その当事国である日本の、しかも広島出身のSU-METALという「アイドル」が、歌い踊るのだから。

重い鬱状態にあったぼくを、「死」の誘惑から立ち上がらせたのは、ほかならぬ「死、死、死」と歌い踊るBABYMETALだった。

ぼくにとってそれは、「死んでしまえ、死んでしまえ、くだらない過去の自分に、死を!」というメッセージだった。死とは、再生の謂いである。

「想像力」とは、見えないものを見るチカラのことだ。

電通は株式会社アミューズの大株主でもあるが、「電通的なるもの」は目に見えない。

同じように「朝日新聞的なるもの」や「岩波文化人的なるもの」も目には見えない。

そんなモヤモヤした霧のような文化状況の中に、BABYMETALも、ぼくらも立っている。

ぼくらができることは、その生身の有りようをしっかりと見つめ、「想像力」を駆使して、現代日本における「死と再生」の意味を考え、彼女たちの意志やOnly OneのBABYMETAL道を応援し続けることではないだろうか。

(つづく)