『敗者の想像力』をめぐって(1) | 私、BABYMETALの味方です。

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★今日のベビメタ

本日5月26日は、2012年、インディーズデビュー曲「ヘドバンギャー!!」のレコーディング日でした。また、2013年に初めてMETROCK(東京・新木場、若洲公園)に出演し、2016年には、米国プロレスWWEのファーム団体「NXT」が、テーマソングに「KARATE」を採用した日DEATH。

 

5月22日、文芸評論家、早稲田大学名誉教授の加藤典弘の新刊『敗者の想像力』(集英社新書)が発行された。

以前、このブログの「BABYMETALはモスラである」という連載記事で、加藤典弘の『ゴジラとアトム~一対性のゆくえ』(慶應義塾大学アート・センターBooklet 20、2014年)という文章を取り上げた。

BABYMETALがモスラであるというぼくのコジツケは単なる思いつきに過ぎないが、氏のゴジラ論は、戦後の日本人のありようを考察した意味深いものである。東日本大震災後の状況を考察した『ゴジラとアトム~一対性のゆくえ』も、もともと氏自身の『さようなら、ゴジラたち』(岩波書店、2010年)に所収された論考を発展させたものである。

ゴジラに関する加藤典弘の考察をぼくなりにかいつまんで要約すれば、次のようになる。

敗戦からわずか9年、1954年に公開された初代「ゴジラ」が、当時961万人という観客動員をなしえたのは、ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験、第五福竜丸の被爆という現実への恐怖感もさることながら、ゴジラが太平洋戦争で散華した日本軍兵士の「英霊」を象徴していると受け取られたからではないか。

ゴジラは、南洋で誕生した後、第五福竜丸を思わせる漁船を襲い、他の国には見向きもせず、一直線に日本の首都、東京へやって来る。

戦後、アメリカの属国として民主化され、復興を果たしつつあった日本だが、そのアメリカを敵国として戦った無名の兵士=父たちに対して、当時の日本人はある種の「痛恨」「なつかしさ」「うしろめたさ」を感じていたのではないか。観客のその思いがゴジラに投影される。東京湾から上陸し、隅田川沿いに下町を破壊していくのは、1945年3月10日の東京大空襲と同じルートだが、皇居を回避したのは、ゴジラが天皇と国体のために戦った旧日本軍兵士の象徴だったからだ。町を破壊し仁王立ちするゴジラの咆哮は「おれの日本はどこへ行った」と訴えているように聞こえる。

ラストシーンで、ゴジラが芹沢博士と共に東京湾に沈んでいくとき、観客は安堵と悲哀、そして鎮魂の感情を味わった。

その後、「ゴジラ」シリーズは東宝のドル箱となり、50年間にわたって断続的に続いたが、初代ゴジラのもつ「英霊の復讐」の不気味さはすぐに消え、外来怪獣から地球を守るコミカルなヒーローとなっていく。「ゴジラ」映画は子ども向けの定番になったが、「ウルトラマン」などテレビの影響で動員力は落ち、2004年の「ゴジラFinal Wars」をもって終了する。

戦後の日本人の心の機微を刺激する「不気味なもの」を飼いならし、無害化するには「カワイイ」ものにすればいい。今はポケモンやハローキティといった“カワイイ”キャラクターが日本を代表するものになり、ゴジラを無害化する必要もなくなった。それは「戦後」の終焉なのではないか…。

こうした論考には、戦後の日本人の心情という深い洞察が含まれているが、ぼくのモスラ論は、それほどの深みはない。確かにモスラは、東宝怪獣映画で唯一、アメリカ本土に遠征した怪獣である。双子の小美人がYUI&MOA、モスラがSU-という三位一体性や、欧米ツアーを敢行するBABYMETALと似ていなくもない。だがそれはコジツケに過ぎず、1961年公開の映画で、現代の「BABYMETAL現象」を説明できるはずもない。

もし、それに何らかの意味があるとしたら、今回公刊された本において、氏が提起している「敗者の想像力」というものの見方が普遍性を持っていることと、BABYMETALは日本という異質で特異な「テクノオリエンタリズム」の国だからこそ生まれたのではなく、世界の音楽史の流れに位置づけ得る存在なのだというぼくの主張とが、幾分か重なり合う点かもしれない。

そこで、何回かに分けて、氏の「敗者の想像力」という考え方を紹介してみたい。

 

2004年の「ゴジラFinal Wars」はゴジラ映画の集大成と銘打ち、ハリウッドコンプレックスのない若手の北村龍平を監督に起用し、過去の怪獣総出演、恒例となっていた「とっとこハム太郎」の併映もなく、125分の長尺、動員1億人を目指したが、結局ゴジラ映画史上ワースト3の100万人動員にとどまった。

ゴジラ映画は幕を閉じ、2006年1月1日、朝日新聞の一面は、日本の「カワイイ」文化が、今、海外から注目されているという記事を掲載した。

だがしかし。

ゴジラは蘇った。

2014年に公開されたギャレス・エドワーズ監督の「GODZILLAゴジラ」と、2016年に公開された庵野秀明監督の「シン・ゴジラ」がそれである。

2014年のものは、1992年のローランド・エメリッヒ監督の「GODZILLA」に続くハリウッド版だが、2011年の東日本大震災と原発事故の後、戦後ならぬ「災後」初のゴジラ作品でもある。

ギャレス・エドワーズはイギリス人の若手監督であり、プロットは、これまでのゴジラ映画と根本的に異なる。フランスの核実験の失敗によって生まれた「ムートー」なる怪獣が、東海地方の原発を襲い、そこに巣を作ってしまう。これがいわば日本の原発事故の比喩で、主人公のアメリカ軍兵士の母親がそこで亡くなる。14年後の2014年、成長したムートーは、アメリカネバダ州にいるメスのムートーを求めて太平洋を渡るのだが、それを待ち構えて襲うのがゴジラであり、結局、上陸寸前に雌雄2匹のムートーを倒してアメリカを危機から救う。

この作品には、「唯一の被爆国」「太平洋戦争の敗戦国」である日本にとっての「怨念」としてのゴジラという視点はない。アメリカは、戦争はおろか核実験の当事者ですらない。それはプロット上、フランスに押し付けられている。そして「かつて核兵器及び原発事故で被害を受けた戦後日本」の象徴であるゴジラが、無力なアメリカを救うのである。

映画評論家たちに酷評されたこの作品に、加藤典弘は、「アメリカのうしろめたさ」、「無力な若い世代の新しい出発」を見る。

第二次世界大戦後、民主主義の担い手、世界のリーダーとしてのアメリカの輝かしい時代はとうに終わった。核拡散防止条約(NPT)は無力で、核兵器はインド、パキスタン、北朝鮮にまで広がっている。もうアメリカは核をコントロールできない。そして原発の安全性神話も、2011年3月11日の地震と津波によって崩壊した。勝者としてのアメリカは自信喪失に陥っている。

この作品では、日本の原発がアメリカ人の技術者によって運営されているというように、現実世界よりももっと明確に日本がアメリカの属国として描かれる。しかし、アメリカを救うのはフランス人のジャン・レノではなく、アメリカ映画らしく、最後には生き別れた家族と会える若い父親でもある主人公の米軍兵士でもない。怪獣の生態の謎を解くのは、「広島で亡くなった父」の形見を持つ日本人科学者芹沢猪四郎(明らかに初代ゴジラの芹沢博士と本多猪四郎監督の合成)を演じる渡辺謙であり、ヒーローは「日本軍兵士の怨念」ならぬ「東日本大震災の犠牲者の魂」の象徴たるゴジラなのだ。

加藤典弘は、勝者と敗者の関係について、ヘーゲルや吉本隆明の定義を引きながら、こう説明する。

勝者が主人となり、敗者が奴隷になるが、主人は奴隷に労働をさせ、自分はのうのうと暮らす。奴隷は労働によって自然と直接向き合い、主人の分の富も生産しなければならないが、それによって一人で生きていく力を身につける。一方、主人は奴隷に依存するから、一人では生きていけなくなる。

しかし、奴隷が主人の真似をして、自分も主人の威光を笠に着て「小主人」として他者を抑圧し奴隷にして使役しようとすれば、主人と同じく、やがてその奴隷に依存するようになり、自立することはできない。奴隷であることを真正面から引き受けることによってのみ、敗者は新しい世界を発見するのだ。

敗戦後の日本には、アメリカの民主主義や、ソ連・中国の社会主義を金科玉条のものとして、戦前の日本を断罪する、いわゆる戦後民主主義思想があった。一方、そういう明快な論理にこそ疑問を抱く、苦渋に満ちた言論人もいた。この本で加藤典弘が挙げているのは、林達夫、吉本隆明、鶴見俊輔、多田道太郎らである。前者は「小主人」を目指すものであり、後者こそ「敗者の想像力」による実り豊かな思索を繰り広げた人たちではないか。

ここで問題です。トーナメントの参加者が100人いるとすると、優勝が決まるまで何試合必要でしょうか。

答えは99試合である。優勝者が1人出るためには、99人の敗者が必要なのだ。

世界はこうした敗者だらけである。敗者が「小主人」を目指すのではなく、敗者であることを引き受け、自らの生き方を考えるという方法論は、普遍性を持つのである。

戦後民主主義を唯一の正しい生き方だとすることは、いわば「いい子ちゃん」の思想である。

「いい子ちゃん」であることを拒絶して、夜な夜なライブに通い、自らの心に潜む「泣き虫な奴」「邪魔をする奴」に「消えろ」と叫び、もう二度と戻「れ」ないわずかな日々を思い出に刻みつつ、自立する15歳の女の子の青春の一刹那を描いたのが、ご存知「ヘドバンギャー!!!」、BABYMETALのインディーズデビュー曲である。

そして、♪「時は戦国、勝てば天国、負けっぱなしなぼくらは地獄。そんな日々は、ここでサラバイ、さあ立ち上がろうよ」と歌うのが「META!メタ太郎」である。

BABYMETALこそ世界に通じる「敗者の想像力」の産物なのである。

(つづく)