日本文化は滅んだか(2) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
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★今日のベビメタ

本日5月19日は、過去BABYMETAL関連では大きなイベントのなかった日DEATH。

 

Black jaytcモードは続く。

知識人の第一条件は常識を疑うことであり、長澤寛行氏が、「日本は白村江の戦い以来、鎖国を国是としてきた」「日本の実態は今もなお潜在的な鎖国状態にあり、日本人自身も明確に精神的な島国根性・鎖国根性の支配下にある」という、誰も思いつかなかったテーゼを打ち出したことは、それが正しいかどうかはともかくとして、一定評価しよう。

インターネットでこれだけの情報が取れる時代にあって、言論人が、自分が習ってきた歴史教科書やマスコミの一方的情報を比較検証して、自らを疑ってみるということをしないという時点で、歴史や政治を語る資格はない。

言論を物しようとする者にとって、思想が変わらないことより、今、正しいことの方がより重要である。自分のルサンチマン=不運な境遇への不満にステレオタイプ化されたドグマをおっかぶせて主張するなどというのは、知識人でもなんでもない。ただの困ったちゃんである。

例えば、太平洋戦争への評価について、1970年代~80年代まで言論界の主流だった意見と、現在の歴史研究の成果とは全く違う。

知的好奇心と問題意識をもってネットを渉猟していれば様々な情報が得られるが、まとまった基礎資料としては、『フーバー大統領回顧録(英書:Freedom Betrayed: Herbert Hoover's Secret History of the Second World War and Its Aftermath)』(Hoover Institution Press Publication、2011年11月)と、『歴史問題の正解』(有馬哲夫、新潮新書2016年8月)の2冊があげられる。

『フーバー大統領回顧録』は英書だが、日本語で読める解説本も出ている。『日米戦争を起こしたのは誰か ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず』(加瀬 英明他、勉誠出版、2016年1月)と『ルーズベルトの開戦責任』(ハミルトン・フィッシュ、草思社文庫、2017年4月)である。

有馬哲夫氏の『歴史問題の正解』は新書で、戦時中から戦後に起こった問題に関する各国の公文書を収集したもので、帯はセンセーショナルだが、事実のみが記述されたリファレンスである。巻末には膨大な参考文献リストも掲載してある。

最近出たこの2冊は第一次資料なので、こういう事実を議論の土台としないで、太平洋戦争や戦後の様々な問題について語ることは不毛だとぼくは思う。

もうひとつ、言論人の資質として、ぼくが大切にしているのは、その発言が、様々な境遇にいる人々の立場を繰り込んでいるか、思い至っているかという視点である。

例えば、長年メタルを愛してきたファンの方が、BABYMETALを非難したとする。

それに対して、「BABYMETALこそ未来のメタルであり、それをわからないなんて馬鹿だな」とはならない。そのファンの方が長年大切にしてきた「メタルの定義」や「メタル愛の源泉」は何かと考え、それを繰り込んだうえで、BABYMETALのどこが未来的なのかを主張しなければならないと思う。

その意味で、ネットはマスコミとは違ってインタラクティブだから、様々な方の立場や見解を織り込みやすいわけだが、それ以前に、言論人として、批判する相手の立場や、それが拠って来るところの境遇を思いやるという資質があるかどうかが重要だと思うのだ。

『鎖国の精神』で、長澤寛行氏は、次のような文章を書いている。

-引用-

「現実対処において論理に従って判断行動するという行動基準がないので、いきおい現実の場面では論理的に考えて判断行動することがないのである。まず周囲との調和を考えてしまい、容易に気が付くはずのことにも全く頭が働かないという矛盾に埋没しているのだ。」(P152上段9行目)

「日本人は理念・理想というものを真実としては理解しがたく、他国の人は日本人の本音の捉え方を理解しがたいのである。日本人にとって「本音とは真実のことであり、人間の本性のこと」だと信じて疑わないからである。」(P156上段10行目)

-引用終わり-

筆者の頭には、ご自分の仕事でぶち当たった組織の歯がゆさの記憶のようなものがあるのだろうが、それを日本人一般に当てはめて断罪してしまっている。別の個所では、「本音と建前、隠ぺい体質は、日本社会に構造として存在するものだ」とまで主張しているのだが、こんなに簡単に一般化できるのだろうか。

というより、どんな組織でも、またアメリカやアジアの国でも、組織は目的・目標となる理念や理想を掲げなくては会社登記もできないし、社長が訓辞を垂れることもできない。

そこで働く人々は、建前だろうがなんだろうが、与えられた役割を日々必死でこなしている。

より合理的で新しい仕事の進め方が導入されるときには、これも同じく、どんな国のどんな組織でも抵抗は生じる。その際、必要なのは根回しだったり、提案者の地位や人間関係なのは当然で、それを欠けば、合理性=論理よりも組織の構造や感情が優先されることもある。

ひとたび組織に問題が生じたときには、理念や理想どおりにいかず、組織防衛や責任回避に流れてしまうこともあるだろう。その際、明らかに論理的ではなく、後から見れば拙速な決断をしてしまうこともあるだろう。

長澤氏は、その組織にいる人の境遇や心理状態に思いを馳せることをせず、あたかも日本人だけの特質だと断じ、相対性や客観性を担保しようとしていない。鎖国的なのは、実は長澤氏の方ではないのか。

-引用-

「理想というものを知らない日本では、当然のことに真に純粋な恋愛は成り立たない。」(P158 下段1行目)

「日本人は、日本にも少数ではあるが純粋な恋愛はあるし、当然外国にもあると思っている。しかし実際には日本にはないし、また外国のそれの意味は想像できないはずである。日本に真に純粋な恋愛がもし有るとすれば、論理矛盾であるか、錯覚か、アニメの世界か、または非日本人的だということになる。」(P158下段17行目)

-引用終わり-

そんなことあるかー。

勝手に「純粋な恋愛」の定義をしておいて(一段階)、「日本人は理想を知らないから成り立たない」と定義し(二段階)、もし「純粋な恋愛をしたなら非日本人」だ(三段階)と言っているのである。どれだけ恋愛マスターなんだ。( ;∀;)

まあ、このくらいにしておこう。

全編こんな調子。ただ、日本人および日本社会が持っているある種の傾向、例えば複数の異なった考え方を「並存」させることを不思議と思わないとか、論理的な優劣を競うのではなく「和」を第一義の目標にしているといった指摘は、その通りだと思う。

ぼくの考え方と違うのは、せんじ詰めれば2つ。

まず、日本の国是が663年以来、「鎖国の精神」になったというのは、事実として違うということ。

もうひとつは、日本社会の特質である「並存」や「和の重視」、「自己完結的にものごとを極めようとするところ」は、「ダメなところ」もあるが、「いいところ」も多いと思うことである。

663年の白村江の戦いの大敗を受けて、中大兄皇子が近江に遷都し、唐軍の侵攻に備えて防衛体制をとったというのは歴史的事実である。しかしそれが、その後の我が国の基本政策になり、かつ国民性の基礎になったというのは、どう考えてもあり得ない。

政治はいい悪いとか、好き嫌いとか、楽だとか怖いとかの“感情”によって行われるものではない。為政者が“現実”の必要に応じて行うものである。

国内の政治・経済上の安定性や、国際政治上の必然によって、国内政治を優先しなければならない時代もあれば、国外に打って出ないと外交上不利益を被る時代もある、というだけのことだ。

日本は、内政を優先した時代でさえ、外憂には全力で立ち向かった。

14世紀、北条時宗の鎌倉幕府と武士たちは世界帝国モンゴルの二度にわたる来襲を退けた。

16世紀、織豊政権は、卓越した軍事力と高い文化水準によって、スペインやポルトガルの植民地化をあきらめさせた。同時期、台湾とインドネシアはオランダの、フィリピンはスペインの植民地にされていた。国内を統一した秀吉の朝鮮出兵は、そのパラダイムの中にある。

17世紀から18世紀にかけて、インドと清はイギリスの、ベトナムはフランスの植民地となったが、徳川家康は、江戸幕府の外交顧問として、イギリス人三浦按針とオランダ人ヤン・ヨーステンを江戸に住まわせ、遠く離れた長崎に奉行所をおいて、オランダとのみ限定的に通商しつつ、他の西欧勢力の接近を許さず、260年間、高い識字率にもとづく独自の文化を発展させ、国富を増強させた。

19世紀、江戸末期の開国に際して、幕府は、アメリカだけでなく、イギリス、フランス、ロシア、オランダの5カ国と同時に条約を締結し、お互いにけん制させるという賢い政治判断をしている。同時期のフィリピンでは、スペインの支配から脱しようとした独立の志士エミリオ・アギナルドがアメリカ1国とだけ密約を交わしたために、結局は狡猾なアメリカに乗っ取られてしまった。

明治維新によって、近代化、グローバル化に舵を切ると、明治政府と国民は、短期間にその国家目標を成し遂げ、当時の大国だった清、ロシアに勝ち、ルーズベルトに嵌められた太平洋戦争では、アメリカには負けたものの、東南アジア諸国を欧米から解放する世界史上重要な契機を作った。今その事実を否定するのは中国と韓国・北朝鮮だけである。

1500年の歴史の中で、本土を外国に占領されたのは、1945年から1952年までの7年間だけ。こうした外交史、政治史のどこがダメだというのか。ぼくらの祖先は、その都度の現実的な政治判断と必死の働きで、祖国を守り抜いてきたのだ。感謝するしかない。

我が国は島国であり、海外進出した時代の方が少ないのは当然である。また、様々な民族が流入し、文化を持ち寄って共存してきた国である。長澤寛行氏自身、そう書いているのだが、それがなぜか「日本は有史以来鎖国の精神に支配されている」となってしまう。

結局は70年代の日本人論の感覚で「日本はダメな国だ」と言いたいのと、他者との議論を経ておらず、単純な考え方の誤りさえ指摘されずに来たからだろう。

ならばぼくが言おう。

日本は、有史以来、孤絶して存続してきたのではない。さまざまな地域から流れついた民族が共存するために、政治的統合のシンボル、宗教的権威としての天皇をいただき、「和を以て貴しとなす」を最上位とする最古の憲法ができた。それは有効に機能し、国土、国民、国語と統治機構が、少なくとも1500年以上継続するに至った、世界史上稀に見る国である。

その結果、異なるものの「並存」や「融合」、共同体的な組織帰属意識や、自己完結的で巧緻な生産手法、目先の理よりも組織の利をとる政治手法などの“国民性”が生まれた。

歴史が長いから、他国との違いが目立つのだろうが、それはさまざまな要因が絡み合って生成されたのであって、単純に「663年に鎖国」したからではない。平安時代の国風文化や鎌倉から室町時代に独自に発展した禅-能楽-茶の湯といった文化、江戸時代の武士道や国学、歌舞伎のように独自に発展したものもあれば、ヒンズー/仏教的な「泥濘のアジア」の要素や、中国漢字文化の影響、明治以来のヨーロッパ近代主義や、戦後のアメリカ文化の影響もある。要するに多様なのだ。

長澤氏から見れば独特と見えるかもしれないが、戦前の韓国人から見たら、日本人は誇り高いイギリス人みたいに見えただろうし、現在、東南アジアの発展途上国から見たら、日本人はアメリカ東部人に近い、礼儀正しく合理的な金持ちのビジネスマンのイメージである。ちっとも鎖国的なんかじゃない。

もちろん、日本はけっしてユートピアではない。長所ばかりではなく、現実にさまざまな問題はあるし、政治的に改善されねばならないことはまだまだ多いだろう。

しかし、日本文化は滅びたりしない。様々な要素を「融合」してきたからこそ、グローバル化した世界が、その卓越性を「発見」したのだ。

「アイドルとメタルの融合」であるBABYMETALは、そういう素晴らしい日本文化の中にこそ生まれ、日本語で歌うJ-POPである以上否応なくそれを背負って、幼い生身の体で、数万人の海外の観客の心を動かす戦いを続けている。

もし、長澤氏のいうように、現代の日本人が行き詰まりを感じ、閉塞状況にあるとするなら、その原因は「有史以来の鎖国精神」なんかにあるのではなく、戦後70年間の「日本はダメな国だ」という占領軍の武装解除方針や、冷戦時代を引きずるマスコミによる刷り込み、さらには自民党の中にもいた、国の舵を取る政策ではなく政局と選挙しか考えない政治家が、なあなあで作ってしまった諸制度のせいである。今必要な「提言」があるとすればそこではないか。

それを日本人の精神構造がダメだという。ポイントがずれている。

(つづく)