日本文化は滅んだか(1) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ

本日5月18日は、2013年、DEATH MATCH TOUR五月革命(@Zepp Diver City Tokyo)が行われた日DEATH。

 

『日本文化が滅んでBABYMETALが生まれた』(長澤寛行著、ブイツーソリューション、¥1,200+税)という本が、5月10日に出版された。BABYMETALに関連した本が出版されるのは、BABYMETALの味方として、実に慶ばしいことである。

しかし、タイトルがネットに上がった途端、多くのメイトさんが違和感を表明した。

著名な評論家でもないし、ブログをやっている方でもないので、「誰?」という反応がベースにあった。

それに、このブログでもたびたび言及しているように、「アイドルとメタルの融合」、「キツネ様降臨!」というコンセプトのBABYMETALは、日本文化を基盤とする大衆音楽史の集大成/最先端と見るべきであり、「日本文化が滅ん」と、「BABYMETALが生まれた」の間が、「で」なので、単純接続で並行して起こっている現象だといっているのか、順接で因果関係があるといっているのかもよくわからない。ううーむ。謎だ。なんか胡散臭いな。そういう直感から、多くの方が違和感を覚えたのだと思う。

ぼくは、国籍や宗教や年齢や性別や所属集団によって個人を批判することはしない。だが、公表された個人の見解については、相手が誰であろうが原文を当たって、間違っているものは間違っていると言うことにしている。

この本はBABYMETALの名を冠して上梓されたものだし、当ブログはBABYMETALのファンブログだから、触れないわけにはいかない。

3回くらいの連載になると思うが、結論から言うと、おそらく団塊の世代より上のおじいちゃんメイトさんで、BABYMETALを熱狂的に好きになってくれているので憎めないけど、言ってることは滅茶苦茶(^^)/であった。

問題の連文節の接続関係は、「戦後、日本文化は完全に滅びた」

「のに、あり得ないくらい奇跡的に」「BABYMETALが生まれた」のだ、という文脈になるらしい。

相手を論破するときの基本は、「相手の神を叩け!」である。

まず、その人の背景を知り、論拠となっているものを把握することにより、その論の構造がわかる。そこに欠けている視点があれば、それが相手を突き崩す有力手となる。

そこで、『日本文化が滅んで…』の前に、前著である『鎖国の精神―現代日本を支配するもの』(2006年、ブイツーソリューション)をまず読んでみることにした。定価は2,000円だが、アマゾンの中古で100円だった(^^♪

本題ではないので、出版社による内容紹介文を引用する。

 

―引用―

「一つの想念が日本列島を覆っている」から始まる本書は、日本の歴史と日本人の無意識の精神をたどって、現代の日本と日本人の原像を解明している。古代から現代まで一貫して日本人が抱き続け、その社会構造を作り上げてきた無意識の想念が、本書の表題とする「鎖国の精神」である。これを日本人の原点としての精神と言い、鎖国を見えざる日本の国是と提示する。日本人の胸には、何か得体の知れないもやもやとした苛立ちと閉塞感がわだかまっている。本書ではその原因を黒船渡来後の150年間の近代に起因するものではなく、日本人の有史以来の精神構造によるものと説いている。そしてその現状を日本の二千年の歴史における行き詰まりの時と位置付ける。この「誰にも意識されていない精神」が紡ぎ出す日本の歴史の流れと日本社会の諸々の現象を跡付けて、現代の日本を呪縛する根源を明らかにしている。本書は現代日本の解剖図であり、現代の「日本解体新書」である。さらに見えない日本文明の意味と日本の未来像にも言及する。この壮大な物語によって、「日本を形づくり、日本人を支配するものとは何か」を御一考されたい。物事を論じるということ、推論によって物事の本質を分析することの醍醐味をご堪能あれ。

-引用終わり-

2段組み310ページという大著で、確かに壮大な物語である。

しかし、実際に読んでみると、筆者の主張はかなり違和感のあるものであった。

例えば、こんな感じ。

 

-引用-

「日本の国是とは、天智天皇二年(663年)朝鮮半島における白村江の敗戦を起源とする、「鎖国」である。」(P59下段6行目)」

「だからこの国民的無意識の禁に触れる者は指弾され、国禁の心に沿うものは賞賛されたのだ。その賞賛される象徴的な人物が、遣唐使の廃止を唱えた「菅原道真」である。この故によく国民の好みに合うのだ。」(中略)「国禁を冒すという国民の好みに合わない人物の嚆矢は、「平清盛」である。身内と朝野を問わない不評に逆らって、一人海外との交易を推し進めようとした稀代の人物である。また国禁を守ったことが元寇の際において「北条時宗」のとった態度が国民的な好みに合う所以である。(後略)」(P92下段5行目)

「国を閉じた日本の中では、鎖国の精神とそこから派生した精神構造が培養形成されてゆく。そこに出来上がった中心的な世界観は、「外部の世界はあってなきが如しとする」「日本だけを天地とする」というものである。これはいわば日本の「宇宙的世界中心観」と言える。また形を変えた「日本の中華思想」とも言うことが出来る。」(P97下段14行目)

「日本は地理上では島国でありながら、歴史上の理由から一個の大陸的世界である。そして米国は地理上では大陸でありながら、国民の移民事情という歴史的な理由による一つの島国的世界であるという点である」(P122下段16行目)

「鎖国以降(jaytc註:663年のこと)に記された文学書にしろ、宗教書にしろ、思想書にしろ、そこには内部志向一辺倒の安心感が如実に現れている。」(中略)「この日本が世界の他の地域とは隔絶した独自の文明圏となった状況は、日本の完全な鎖国が生んだ稀有な現象である。したがって日本文明とは「鎖国文明」であると言える。」(P125下段10行目)

「白村江の敗戦の影響は、永く日本と日本人を覆って消えることがない。したがって鎖国の精神もまた、永く日本に根付いて消えることがないものである。消えることなく、また消す必要もないものでもある。」(P130上段6行目)

-引用終わり-

 

とにかく、日本は663年の白村江の戦い以降、「鎖国」を国是としており、それが日本文化や日本社会の特徴であり、かつ諸悪の根源である、という持論が展開される。

続く章、「日本の社会構造」「現代日本の深層」「日本の行方」「日本の諸相」において、歴史的人物や歴史的事件、日本社会の特徴を、すべてこの概念と結びつけているが、それはぼくもときどきやるコジツケに過ぎない。コジツケというのは、エヴィデンスに基づく因果関係ではなく、要素あるいは構造上の類似があるというだけで、二つの事象に関連がある、と主張することである。

この概念が「誰にも意識されていない」というのはその通りだ。筆者の思い込みに過ぎないのだから。

一体、現代日本人の誰が、663年の朝鮮半島で、百済の要請で出兵した日本軍が唐・新羅連合軍に敗れたことを気にしているだろうか。学校の歴史で一度は習うが、そんなこと忘れている人がほとんどではないか。

「あとがき」にこうある。

 

-引用-

「この文はほとんど偶然から出来あがった。必ずしも意図して書いたわけではなく、殊更に深く考えていたわけでもない。(中略)また長い学究と勤勉の賜物でもない。」(中略)「7,8年前に長年の日本の現状に関する疑問の結論を得てこれをメモに記している。「日本を支配しているのは、飛鳥時代から出来あがった鎖国の精神である」と書いて友人に示したことを覚えている。」(P307あとがき)

-引用終わり―

 

これですべてがわかる。要するに検証も、批判者との議論や自己研鑽も経ていない、素人さんの言いっぱなしエッセイに過ぎない。それにしては、歴史的事実について詳細に調べて書いてあるし、使われている単語や言い回しは高尚である。

奥書きには、生年月日や経歴がなく、「富山中部高校、東北大学卒業、富山県在住」とだけ書いてある。2006年の上梓の7-8年前だから、1990年代の終わりごろ、おそらくは、職場では学歴や博識から尊敬を集めていた筆者が、知人と会話していてふと思いつき、時間とお金に余裕のできた引退後に、パソコンと格闘しながら書き、長年夢だった本を自費出版した、ということなのだろう。名古屋に本社のあるブイツーソリューションは、自費出版をメインとする出版社で、HPには、そういう「引退を機に」出版されたような本がいっぱい載っている。

 

ぼくの父は、戦後、樺太からの引き揚げ者で、高卒で東京の郵便局員になり、夜学に通いながら英語を学んで羽田空港の国際郵便局に勤め、スカウトされて日本航空に入社し、ノンキャリとして40年勤続した。

胃がんで定年1年前に早期退職し、引退後、パソコンの扱い方とワープロの使い方を教えてくれといってきた。ぼくは当時、自分の会社をやりながら、Nifty-Serveの塾フォーラムのシスオペをやっていたからだ。父と二人で秋葉原に行き、中古のNECのノートパソコンと一太郎とプリンターを買い、設定をして、DOSのメニューパッチを作ってやり、起動のしくみやら、キーボードの打ち方、印刷のしかたを教えた。

父が死んだあと、遺品の中から、郵便局時代のことを書いたエッセイというか、小説というか、A4二段組み縦書きで印字し、袋とじにしてこよりで綴じ込んだ厚さ6-7センチの「本」が2つ出てきた。どこにも発表されなかった、父の生涯唯一の「本」だった。

ぼくと違って几帳面なひとだったから、おそらくは当時の日記を見ながら、自分の人生に起こったこと、感じたことを、死ぬまでに残しておきたいと思って書いたのだろう。

そして、その「本」は、誰に向かって書かれたのかに思い至ったとき、ぼくは涙が止まらなかった。それは、長男であるぼくに向かって、わざわざパソコンとワープロで書かれた「本」だったのだ。

5月15日は、父の誕生日。父が亡くなってもう15年になるが、その「本」は今でもぼくの手元にある。

 

長澤寛行氏の『鎖国の精神―現代日本を支配するもの』と、『日本文化が滅んでBABYMETALが生まれた』は、自費出版とはいえ、公刊された本である。どんな動機があるにせよ、本を上梓するということは、自分の考えを世に問うことだ。

ならば、一般読者として本を購入し、きちんと向き合って読み、批判すべきは批判するのが礼儀であろう。まして、主題はBABYMETALである。

Black jaytcモードに突入する。

日本人は島国根性で、内向きで、外交下手である」という主張には、いくつかの先例がある。70年代にベストセラーとなった日本人論だ。

これらを読むと、確かに日本人の性格の一面をうまく突いていると思える部分もあるが、総じて70年代という時代に特有の「だから日本人はダメなんだ」という結論ありきの論述である。

現代の評論空間では、これらの日本人論はとっくに超克されている。

例えば韓国人評論家である李御寧が書いた『縮み志向の日本人』(1982年、講談社学術文庫)。これは、現在世界中が賞賛している日本人の繊細な色彩感覚や、細部にこだわった丁寧な手仕事や、きめ細かな心遣いを「縮み志向」という言葉でネガティブにとらえており、今出版されれば、明らかに「反日」本だと見なされるだろう。

『甘えの構造』(土居健郎、初版1971年、現行版 弘文堂)は、九鬼周造の『「いき」の構造』のタイトルを拝借したもので、フランス哲学の構造主義やら共産党構造改革派に見られる「構造」という言葉が、当時いかに文壇の流行りであったかを示している。2000年代初頭の小泉内閣による「構造改革」は、当時すでに30年遅れだったのである。

それはともかく、『甘えの構造』は、日本人の性格には、人間関係を形成するとき、他者に依存し、また集団の中で依存され愛されることを希求する幼児的傾向があり、「近代的自我の欠如」だと指摘しながら、それが日本社会の形成原理になっているとした。

ぼくらの世代では、これが大学の教養課程の比較文化論のテキストになったりした。

しかし、1990年にサントリー文芸賞を受賞した青木保は『「日本文化論」の変容』で、『甘えの構造』について、物差しとなっている西欧近代の方が、孤立や疎外を生む社会であり、相互の信頼に基づく関係性を取り結べる社会を形成したことが、日本人の規律正しさや集団主義の根底を形作っていると積極的に評価している。

では、2006年に上梓された長澤寛行氏の『鎖国の精神―現代日本を支配するもの』はどうか。

この本の論旨をぼくの言葉でいえば、「663年以降、日本人はDNAの中に、鎖国の精神を持っているからダメなんだ」であり、その「構造」は70年代に流行した日本人論と全く同じである。

確かに、70年代当時、筒井康隆だったか、売れっ子評論家になるには日本文化や日本人の特徴の一面をクサせばいいとふざけて指南する作家もいたなあ。

しかしそれは、とにかく日本の“遅れた”伝統を貶し、日米の政府批判をすれば売れた左翼全盛時代の話であって、現代にあってもそう思い込むのは、筆者が70年代的思考をアップデートしていないからだろう。

『日本文化が滅んでBABYMETALが生まれた』の前段、日本文化について、長澤寛行氏は「誰も言ってないことを言ったった」と思い込んでいるかもしれないが、それはきわめて一面的で、説得力に欠ける。

出版の意図と思われる、日本および日本人を自覚させるという目的は正しいと思うが、こういうぜい弱で一方的な論理展開、コジツケをやっていては逆効果である。

(つづく)