日本文化のヘンな感覚 | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ

本日5月16日は、2015年、米国オハイオ州コロンバスで行われたRock on the Rangeフェス(Crew Stadium)に出演した日DEATH。

 

今日の話はヘンな話である。

ちゃんとした大人なら、人生経験に基づいて、たいていのものごとを「正しい」か「間違っている」かに分類できると思う。それが万人に認められるかどうかはともかくとして、例えば、ぼくは次のような意見をもっている。

嘘をついてはいけないというのは「正しい」。嘘も方便とか、人を傷つけないための嘘は正当化されると言いたがる人はいると思うが、ジジイになると、どんな場合でも結局嘘は人を傷つけ、言った自分をどんどん小さくするという道理がわかってくる。言いたくないことは口に出さなければよいのであって、嘘にする必要はない。嘘をつかないでいると、何となくスッキリするし、嘘をついてしまうと気持ちが濁る感じがする。

学校の勉強なんてしなくてよいというのは「間違っている」。勉強よりもっと大事なことがあるとか、仕事の上で学校の知識なんて何の役にも立たないとか言いたがる人があるだろう。しかしそうではない。少なくとも中学の教科書に出てくるくらいの歴史や地理や公民や理科や国語や英語の知識がないと、30代、40代になったときに、仕事の進め方や、お客さんからの信頼、部下からの人望、子どもの育て方に差が出てくる。高卒程度の英語(英検2級)が読み書きできれば、外人対応ができるし、世界史や古典・漢文の教科書レベル知識があれば、相当な物知りだと思われるはずである。中学の公民分野や高校の政経の知識があれば、政治や経済の話題をふられても間違ったことは言わずに済む。勉強は必ず人生にプラスになる。

こんなふうに、年をとって当否がはっきりしてくることがほとんどなのだが、同じように、世の中や人生には、どちらも正しいよなあと思うものごともあることに気づく。

ふたつの二律背反することがらが、不思議な感じで「並存」しているという感覚。

ちょっと説明しにくい、ヘンな感覚なのだが、いくつか例をあげてみる。

高校で習う新古今和歌集の西行の歌がそれである。

 

“心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ”

 

西行は「空(くう)」を真理とする仏教の僧だから、喜怒哀楽の感情を捨てたことになっている。しかし、そういう自分にも「あはれ」の感情が立ち現われてくる。渡り鳥が羽音を立てて旅立っていく秋の夕暮れの風景には、心が動くというのである。

西行は、ここで「心ない=心を動かさない僧の立場」であるはずなのに、「心が動く」という自分の感情の並立をどこか客観的に描写している。

もともと西行は平安時代末期、平清盛と同僚の、佐藤義清(のりきよ)という北面の武士であり、主君の女房に懸想して出家した。自分の世俗的な感情を消すために修行して僧となったのに、その自分の中に、まだ自然の情景を見て動く心がある。

単純に考えれば、「秋の夕暮れの情景が素晴らしすぎて、心を動かしてはならない僧であるはずの私も思わず感動しちゃいました、てへへ。」という「あはれ」を強調した表現だ、という解説になるだろう。

しかし、それだけでは、人生の紆余曲折を経て僧になった“心なき身”であるはずの西行という人間が目の前の素晴らしい光景に心動かされてしまうという「現象」の妙味が消えてしまう。本当に西行が伝えたかったのは、その「現象」なのだ。

そして、こういう二律背反する感情そのものを、ぼくら日本人は理解し、共感してきたからこそ、この歌は高校の教科書にも載っているのである。日本人はこういういわく言い難い「並立」の感覚、文字通り微妙で繊細な感覚を愛してきたのだ。

もう一つ例をあげてみる。

受験生や、選挙に臨む政治家御用達の達磨の張り子。

石の上にも三年というが、禅の始祖、達磨大師は悟りを得るため、壁に向かって9年間修行を続け、足が腐り、手もなくなり、文字通り達磨の姿となった結果、悟りを得た。

つまり肉体なんてどうでもいい。世俗的な欲望の充足なんてどうでもいい。人間はただただ「存在」なのだと気づく。凄い行者である。そんな境地になれたら、融通無碍。確かに手も足もいらないよなあと思う。鎌倉時代以降、この禅の思想が日本に定着し、武士道精神の背骨になっている。

しかし、日本にはその達磨さんを模した張り子の人形を作り、目を片方だけ入れて、祈願したことが成就したときにもう片目を入れるという習慣がある。

一説によると、中世~近世には、失明する危険の高かった天然痘を防ぐための魔除けとして、赤い衣を着ただるま人形を販売したところ、目がきれいに塗れているものだけが売れ、雑なものは売れ残った。そこで、目をわざと塗らずに置き、客が自分で塗れるようにしたのだという。それを庶民は「願掛け」に使った。手も足もいらない、ただただそこに在るという悟りを開いた達磨大師なのに、というより、だからこそ「片目」が欲しくて願いをかなえてくれるだろう、という発想。

庶民は、簡単に悟りの境地になど入れない。生まれた境遇の中で、与えられた手と足と体を使って、働いたり、食べたり、遊んだり、人を助けたり、傷つけたり、泣いたり笑ったりして、病気になって死んでいくのが「人間」である。喜怒哀楽を捨てた「存在」や「真理」なんて「タテマエ」に過ぎない。だからだるま人形を売り出すお寺は、世俗的な願望を無欲の達磨大師に祈願する庶民を容認する。

いわゆる「タテマエ」と「本音」だが、どちらが正しいかじゃなくて、両方の立場が「併存」している。

BABYMETAL的には、2013年のタカ&トシ司会の「ミュージック・ドラゴン」で、「だるまさんの一日」を披露したことくらいしかつながりがないが、だるま落とし、にらめっこ、雪だるまなど、だるまさんは今でも子どもや庶民の味方だ。

禅という深遠な思想を受容しつつ、その象徴である、修行のために手足を失った達磨さんを親しみやすい存在としておもちゃにしてしまう。そういう一見矛盾したことが不自然ではないという宗教観をもっているのが日本文化なのである。

ぼくの経験の範囲内に過ぎないが、東南アジアの人々も、アメリカやイタリアの人々も、例えば西行のような感情は、ピンと来ないと思う。秋の夕暮れは「あはれ」という言葉で表される感情につながるのが日本人なのだという「知識」は理解できても、西行がわざわざ「心なき身」と書いたことの意味は理解できないだろう。

西欧のキリスト教の修行者の目的は「神にすべてを任せる心境」になるということだから、それで完結するのだが、無欲であることを真理とする禅の修行者が、スーパーパワーを発揮して庶民の世俗的願望を引き受けるという矛盾は、「贖罪の犠牲とされたキリストに祈る」感覚とは決定的に異なるだろう。

こうしたムズムズするようなヘンな感覚が日本文化にあるということに気づいたのは、BABYMETALのことを考え始めてからだった。

「アイドルとメタルの融合」。

アイドルというジャンルと、メタルというジャンル。

確かに楽曲やプロダクトとしては二つのジャンルを「融合」させて完成度を高めているのだが、二律背反する要素を「融合」するためには、まず「並存」しなければならない。

このブログは「アイドルとメタルの弁証法」というサブタイトルで、正→反→合、ないし、テーゼ→アンチテーゼ→アウフヘーベンという過程をたどるアイドルとメタルの「融合」もしくは「昇華」が含意されている。

ライブで現出する熱狂は、確かに「融合」なのだけれど、アイドルの要素とメタルの要素は、どこまで行っても消えはしない。東京ドームは、確かにメタル季刊誌ヘドバンのいう通り、「スタジアムメタル」なのだけれど、一方で、小箱よりもジャニーズ系のような「アイドル色」が強かったようにも感じた。

その感覚は、BABYMETALが日本人アーティストだからこそ醸し出せる、二律背反するものが「並存」していることを不思議と思わない、ある種の日本文化の伝統から来ているような気がするのだ。

やっぱりどう書いてもヘンな話にしかならないな。

わかんないですよね。