★今日のベビメタ
本日5月4日は、2016年、Metal Resitance第四章、BABYMETALワールドツアー2016ニューヨーク公演(米国ニューヨーク、Play Station Theater)が行われた日DEATH。
昨日WOWOWで、X-JAPAN Live at Wembleyを観た。
昨年BABYMETALが立ったステージにX-JAPANが立っていた。
素晴らしいライブだった。
X-Japanらしいメロディックかつドラマチックな構成をもつプログレメタル。
日本では“ヴィジュアル系”の元祖という扱いだが、海外から見ると美しいメロディと、多様な音楽性と前衛的なSE、抽象的な歌詞から、クラシック/プログレッシブメタルと評されることも多い。音楽性を“見た目”でくくるのはやはりヘンだと思う。
オープニングで、YOSHIKIがHIDEとTAIJIのことを叫んだところでグッと来た。
TOSHIも全編英語でMCをしていた。YOSHIKIはアメリカに住んでいたこともあるからそこそこしゃべれるが、もともと1980年代に大手レコード会社と契約しながらアメリカ進出の足カセになったのが英語であった。軽妙な二人のやり取りを聞きながら、いきさつを知っているだけに、ウェンブリーにかけたTOSHIの意気込みが感じられ、どんどん胸が熱くなってくる。
英語がヘタクソなPATAのギターソロ、HEATHのベースソロ、SUGIZOのヴァイオリンソロもよかったわあ。
ほぼ満員の会場は映し出される客席には日本人の姿も見えるが、ほとんどはイギリス人。
若い女の子も多く、うっとりとメロディに聴き入っている。
「Say Anything」からの「Born to be free」で、観客がシンガロングする。
続く「紅」のイントロではHIDEの姿がスクリーンに映る。「♪紅に染まったこの俺を慰める奴はもういない」のパートを、観客は日本語でシンガロングする。
長いバンドの歴史の中で、悲しいことがあっても、それを糧にして音楽はより深く、強くなっていく。ファンはそれを共有しつつ、共に今を生きていく。それがバンドというものだ。
Dir en Grey、Scandal、One OK Rock、BABYMETALなど海外進出バンドが相次ぐ現在のジャパニーズ・インベージョンの中心にいるのが再結成以降のX-JAPANである。
X-JAPANなくしてKOBAMETALなし、したがってBABYMETALもなかったのだ。
ロッククイーンの系譜のつづき。
ロック大国たる日本では、ガールズバンドの登場も欧米とほぼ同時だった。
ザ・ランナウェイズがブームとなった1977年には、そのコピーバンド、ガールズ(~1979年)がデビューしている。ガールズは日本の女性ロックバンドの草分けで、ギタリストとして、のちにジューシィ・フルーツ(「恋のベンチシート」1980年ほか)のボーカルとなるイリア(奥野敦子)が在籍していた。
1979年には、女性ロックバンドとしてギネス最長活動期間記録を持つZELDA(~1996年)が結成される。メジャーデビューは1982年「ZELDA」。女性ベーシストの小嶋さちほを中心に、ハードロックからパンク、中東風ワールドミュージック、ブラックミュージックまで音楽性が大きく変化したバンドであったが、ムーンライダースの鈴木慶一や四人囃子の佐久間正英がサポートするなど、日本のガールズバンドの基礎を築いた。
1980年代に入ると、音楽事務所ビーイングから、LOUDNESSの樋口宗孝のプロデュースでデビューした浜田麻里(1983年)や、ボーカルの寺田恵子を中心とした女性ロックバンド、SHOW-YA(1985年)が登場する。
「日本のロック史」で書いたように、つかの間のメタルブームが終わった80年代後半以降、ロックバンドの多くがJ-POP化していき、HR/HMカラーはどんどん失われていく。この頃メジャーシーンに登場したガールズバンドには、プリンセスプリンセス(1986年)、ジッタリンジン(1989年)、マサ子さん(1989年)、男女混成バンドとしては、LINDBERG(1989年)、JUDY AND MARY(1993年)、The Brilliant Green(1997年)、Hysteric Blue(1998年)などがある。
浜田麻里は、デビュー時には「麻里ちゃんは、へヴィメタル。」(by糸井重里)というキャッチコピーがあったが、1989年にザ・ベストテンに出演した際、ポップな新曲が黒柳徹子に「脱へヴィメタル」と紹介されてしまい、その後の主戦場が渡辺美里、大黒摩季、広瀬香美らと同じ、J-POP歌ウマ女性歌手市場だったため、“衝撃”的メタルクイーンという印象はやや薄くなった。
SHOW-YAは「素敵にダンシング」でデビューした当初、ミニスカート姿でアイドルバンド的な扱いだったが、その後革ジャンをコスチュームにしたHR/HM路線に戻したことで売り上げが伸び悩んでいた。しかし1989年に7枚目のアルバム「Outerlimits」が大ヒットし、「私は嵐」や「限界Lovers」がヒットし、日比谷野音で「NAONのYAON」を主宰するなど、ロック路線のガールズバンドのリーダー的存在となった。
しかし浜田麻里も、寺田恵子もロック路線をとりながら、ランナウェイズやブロンディのようなセクシーさ、ビッチ感の訴求をしなかった。ガールズは、ザ・ランナウェイズのコピーで、下着姿で歌うこともあったらしいが、その後のガールズバンドでは、プロモーション上、そこが強調されることはなかった。
それには大きな理由がある。
それは、おそらく日本のガールズバンドの訴求対象が、「性的刺激を求める男子中高生」ではなく、同性のファンだったためではないか。日本人の男子中高生は、ガンガン迫るセクシーなロッククイーンではなく、「おとなしくて清純そうだけどナイスバディなグラビアアイドル」へと向いたのだ。
それゆえに、80年代以降の女性ロックシンガーないしガールズバンドは、男子中高生向けの“危険な香り”ではなく、ポジティブな青少年ロックあるいは青春女子ロックという感じになっていったと思う。
渡辺美里や大黒摩季は、野球場など大規模な野外ライブをガンガンやっていて、曲調はHRに近く、熱狂的で、ライブ終わりには感動の涙にぬれるファンも多かったが、歌詞はきわめてポジティブな「青春応援ソング」だった。
“衝撃”的で“危険”なロッククイーンという意味なら、1980年代から1990年代にかけて、HR/HMではないが、ぼくには2人の女性シンガー・ソングライターが頭に浮かぶ。
少し前後するが、1982年、細野晴臣プロデュースで、昭和初期をオマージュした、ゲルニカ「改造への躍動」でアルバムデビューした戸川純。これは“衝撃”だった。
第二次世界大戦で日本が負けずに大日本帝国のまま現代まで発展していたら、という映画「K-20怪人二十面相」(2008年)みたいなSF仕立てで、懐かしい未来、レトロな管理社会の休日が描かれていた。当時ぼくは下北沢のアパートでLPをほとんど毎日聞いていた記憶がある。
同じ年、帰省したぼくが実家のテレビを見ていたら、TOTOウォシュレットのCM「おしりだって洗ってほしい」に戸川純が出てきてショックを受けた。これで一躍時の人になる。
1984年にはソロデビューとなる「玉姫様」をリリース。これも強烈だった。恋した男に徹底的に支配されたいと願う「怒涛の恋愛」や、パッヘルベルの「カノン」で、背中に寄生された芋虫(冬虫夏草)の心情を歌う「蛹化の女」。タイトル曲の「玉姫様」も「♪中枢神経 子宮に宿り レディヒステリック玉姫様乱心」という女性の意識変容を歌っていて、怖かったよお。
その後、戸川純は紆余曲折を経て、現在は個性派女優となっている。
1998年、「幸福論」でデビューし、翌年の「ここでキスして」と「本能」でブレイクした才人、椎名林檎の登場も“衝撃”だった。
独特の声と歌い方、歌詞の切迫力、昭和歌謡やグランジ、ジャズ、テクノ、パンクなどあらゆる要素が入ったメロディライン、コード使いの妙。楽曲提供やバンドの育成など、プロデューサーとしての才能。どこから見ても天才だった。
特に浮雲(G、長岡亮介)と伊澤一葉(K)をフィーチャーした東京事変(2004年~2012年)の「教育」「大人」「娯楽」「スポーツ」「大発見」と続くコンセプトアルバムは、ストーリー性があり、バンド/アーティストとしての椎名林檎の成熟度がわかる。椎名林檎は、リオオリンピック閉会式の総監督を担当。演出・振付はBABYMETALの師MIKIKO氏で、ともに、2020年東京オリンピックへの橋渡しを行った。
戸川純や椎名林檎の特徴は、アート性の高い楽曲、コンセプトの追求である。
もし、日本社会がマッチョな男社会で、欧米と同じく女性のロックミュージシャンに成熟したセクシーさを求める社会だったら、戸川純や椎名林檎のように才能にあふれた女性ミュージシャンは、マドンナと同じように、「女性性」を逆手に取ったコンセプトを立てていたかもしれない。
欧米では、マドンナ以降、90年代後半~2000年代にかけて、女性ロッククイーン像にもう一つの流れが生まれていた。
それが、Nightwish(1996年、フィンランド)、Within Temptation(1996年、オランダ)、
Evanescence(2003年、アメリカ)などの、美声の女性フロントマンを全面に出したシンフォニックメタル、オペラメタルの流れである。
(つづく)