融合と抵抗、日本のロック史(4) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ

本日4月4日は、BABYMETAL関連では過去に大きなイベントのなかった日DEATH。

 

松田聖子や中森明菜らのアイドルと並んで、80年代後半にはロック色の強いアーティストが、続々と音楽番組に登場し、ヒットチャートをにぎわすようになるが、その中でもへヴィメタルというジャンルがブームを迎える。

1973年に小学校の同級生で結成され、1977年に朝日放送の「ハロー・ヤング」でディープパープルの「Burn」を演奏し、かまやつひろしの目に留まってデビューしたLAZYは、事務所の方針でアイドルバンドとしてプロモートされていた。コンサートではTOTOやUFOの曲をカバーするなど、「アイドル離れ」していたが、1980年「へヴィメタル宣言」を行い、アルバム「宇宙船地球号」をリリース。翌年、音楽的方向性の違いから解散し、メンバーの高崎晃(G)と樋口宗孝(D)を中心に本格的なメタルバンドLOUDNESSを結成した。浅草国際劇場でのデビューコンサートは完売になり、1983年からは欧米でのライブを敢行。1985年に「Thunder in the East」で全米デビュー(Billboard 200の74位)、モトリークルーの前座として日本人で初めてMSGのステージに立った。

1976年にデビューしたBOWWOWも、当初は「あまり本格的になってもいけない」との事務所の方針で、演奏力でメンバーを選ぶことはせず、天才ギタリスト山本恭二(G)が率いる「売れるハードロックバンド」としてプロモートされた。しかしLOUDNESS同様、へヴィメタル路線に転換し、1982-83年にはイギリスのレディング・フェスティバルに日本人として初めて出演し、1985年にはVOWWOWと改名した。

80年代半ばには、関西からはEARTHSHAKER、44MAGNUM、東京からANTHEM、北海道からFLATBACKERなど、本格的なへヴィメタルバンドが続々登場。

LOUDNESSの所属事務所ビーイングは、高崎晃プロデュースの本城未沙子(1982年デビュー)、樋口宗孝プロデュースの浜田麻里(1983年)などを本格的女性ロックシンガーとしてデビューさせた。

全員が楽器を演奏する女性ロックバンドとしては、1985年に「素敵にダンシング」でデビューしたSHO-YAが、当初のアイドルバンド色を徐々に払しょく、1989年には「限界LOVERS」の大ヒットで、ガールズバンドの先駆けとなり、女性アーティストのみのフェス「NAONのYAON」を主催した。

1980年代初頭に登場した「劣化しない」「小さくて便利」なコンパクト・ディスク(デロリアンではなくて(^^♪)というメディアは1986年に初めてLPを抜き、バブル期を背景に、アイドルからへヴィメタルまで、音楽産業の売り上げは右肩上がりに伸びていく。

1985年10月10日、日比谷野音で「Japan Heavy Metal Festival」が開催された。

出演者は、ANTHEM、聖飢魔Ⅱ、FLATBACKER、MARINO、RAJASなど。ゲストにスェーデンのネオクラシカルメタルバンド、シルヴァー・マウンテンが招かれた。

1987年、インディーズから「高木ブー伝説」でデビューした筋肉少女帯は、1988年トイズファクトリーからアルバム「仏陀L」シングル「釈迦」でメジャーデビュー。

フロントマンの大槻ケンヂの強烈なキャラクターで、「オールナイトニッポン」のパーソナリティとなり、「ボヨヨンロック」、3rdアルバムに収録された「日本印度化計画」、続くシングル「元祖高木ブー伝説」が大ヒット。1990年2月から1994年まで通算4度、単独での武道館ライブを行った。

同じ年、1987年にはFLATBACKERがE.Z.Oと改名し、KISSのジーン・シモンズのプロデュースによる「E.Z.O」で全米デビュー(Billboard 200の150位)。

さらに同年、VOWWOWのシングル「Don’t Leave Me Now」はイギリスで3週連続チャートインした。

聖飢魔Ⅱ、X-Japan、筋肉少女帯の知名度、LOUDNESS、VOWWOW、E.Z.Oの海外での活躍、イカ天出身のインディーズバンドブームなど、80年代後半は、ロックバンドという形式、へヴィメタルという音楽が日本社会に定着したかに見えた。

しかし、90年代になると、へヴィメタルは急速に退潮していく。

すでに80年代から、もうひとつのラウド系ロック、ニューウェーヴ=パンク系のバンドが日本に登場していた。

ぼくは大学時代に、70年代後半~80年代前半のパンクバンドを直接いくつか見ている。

S-KEN、暗黒大陸じゃがたら、町田町蔵、アナーキー、ザ・スターリン。その多くが70年代の頭脳警察に近い、反体制的、サヨク的な歌詞や過激なパフォーマンスをしていた。学生文化団体がこういうバンドを学園祭や学生会館祭といったイベントに呼んでいたのだ。

1982年に中曽根康弘が第71代内閣総理大臣に就任、「戦後政治の総決算」「歴史教育の見直し」「国有企業の民営化(専売公社、電電公社、国鉄)」を掲げると、マスコミは一斉に「右傾化」だと批判し、「反戦反核運動」などが盛り上がった。

教育現場では、いわゆる校内暴力が全国的に広がった。毎日日本のどこかで中学校、高校の窓ガラスが夜中のうちに割られていた。パンクバンドの騒音や暴力的なパフォーマンスは毛嫌いされたが、歌詞には時代の雰囲気があった。

長髪・パンタロン、ジャラジャラとアクセサリーをつけてポックリを履き、ハイトーンのシャウトとピロピロのギターソロ、大げさな歌詞という70年代型HR/HMバンドと、短髪・細身のジーパンと革ジャンTシャツで、シンプルな楽曲に乗せて、アジテーションのような歌詞を歌う80年代型パンクバンドは、確かに対照的だった。

80年代中盤になると、ライブハウス周辺では、武骨なパンクバンドによる軟弱なメタルバンドへの暴力行為、“メタル狩り”が横行したが、インディーズのパンクバンドの中から、暴力性を取り去り、ポップなセンスを取り入れたLaughin’ Nose、JUN SKY WALKER(S)、THE BLUE HEARTSといったバンドが現れ、メジャーになっていく。

1987年のブルーハーツのファーストアルバム「BLUE HEARTS」には「パンクロック」という曲があった。

サビは、「♪ぼく、パンクロックが好きだ あーやさしいから好きなんだ、ぼく、パンクロックが好きだー」という。中学か高校で、おずおずと新しい友達に自分の音楽の好みを話しかけて、バンドをやろうよと誘う微笑ましい情景が浮かぶ。確かにパンクは易しいのだが、アルバムを通して聴くと、やっぱり元HR少年には物足りなかった。

同じ1987年、44MAGNUMは「へヴィメタルなんかもう古い」と言ってポップ路線に転向するも人気が急降下して1989年に解散。

1989年のNHK紅白歌合戦には、へヴィメタルバンドとして初めて聖飢魔Ⅱが出場したが、浜田麻里は1989年に「Return to myself~しない、しない、ナツ」のリリースにより脱へヴィメタルを宣言。

E.Z.Oもアメリカでの売り上げは順調とはいかず、1990年に現地解散。

1989年にボーカルがアメリカ人のマイク・ヴェセーラに変わったLOUDNESSの8枚目のアルバム「Soldier of Fortune」はセールス的に苦戦し、結果的に海外進出は一時とん挫した。同じくVOWWOWも1990年解散。1992年にはANTHEM、1994年にはEARTHSHAKERが解散した。

1987年のへヴィメタルブームと1989年の「イカ天」によるバンドブームの裏で、すでに90年代初頭にはメタル退潮の傾向は出ていたのである。

LOUDNESSの所属事務所ビーイングでは、TUBE(1985年)、B’Z(1988年)、ZARD、T-BOLAN、WANDS(1991年)、大黒摩季(1992年)らがデビューしていた。

90年代前半には音楽番組が次々と終わり、「アイドル氷河期」と言われるが、アイドルに代わって音楽性に依拠するアーティストが主流となっていった。その立役者がビーイングであり、ZARDだった。元モデルで作詞・ボーカルの坂井泉水は一切露出しなかったが、「負けないで」「揺れる想い」「マイ フレンド」など9作でミリオンセラーを記録した。

また、1995年にはTMネットワークを解散した小室哲哉が、観月ありさ、篠原涼子、TRF、HITOMI、内田有紀、H Jungle with T、DOS、GLOBE、華原朋美、安室奈美恵など、「小室ファミリー」と呼ばれる数多くのアーティストをプロデュース。1996年4月には、オリコンのシングルチャートで、小室プロデュース曲がトップ5を独占した。

このほか、90年代にチャートを賑わせたアーティストは、DREAMS COME TRUE、Mr. Children、シャ乱Q、スピッツ、JUDY AND MARY、THE YELLOW MONKEY、ウルフルズなど。小室ブームは、つんく♂のプロデュースによるモーニング娘。や、宇多田ヒカルの登場により終息へと向かう。

こうした90年代中盤以降のミュージック・シーンの裏で、80年代に活躍したへヴィメタル系のアーティストは、アニメの主題歌でヒットを飛ばした影山ヒロノブ(元LAZY)のように、へヴィメタル以外の音楽への転身などを余儀なくされ、「メタル氷河期」を迎えてしまう。

筋肉少女帯は、移籍した事務所が1998年に倒産、大槻ケンヂは何とかバンドの存続を図ろうと画策するも、1999年5月に「凍結」に至り、一時ソロ、文筆業に専念することになる。

東京ドーム3Daysを行い、全米デビュー一歩手前まで行ったX-Japanは1997年、メンバーの不和、体調不良などにより解散。

1989年にへヴィメタルバンドとして初めて紅白歌合戦に初出場した聖飢魔Ⅱも1999年に「地球征服」を完了し、解散してしまう。

そして、この2つのバンドの解散年、宿命であるかのように、1997年にSU-METALこと中元すず香、1999年にYUIMETALこと水野由結とMOAMETALこと菊地最愛が誕生するのである。

(つづく)