融合と抵抗、日本のロック史(1) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ

本日4月1日は、FOX DAY。2016年、セカンドアルバム「Metal Resistance」が世界同時リリースされた日DEATH。

それにあわせて、今年のBABYMETAL公式サイトもヴェールを被った三人が、新しい写真に変わりました。

 

今年初のBABYMETAL単独ライブとなる6月16日のロサンゼルスPalladiumのチケットをゲットすべく、アナウンスされていた現地時間3月31日午前10時、日本時間4月1日午前2時過ぎにアクセスしてみました。チケットは49ドルで、手数料含めて65.75ドル。

Other Countryでいろいろ打ち込んだけど、最後には「some reason…we can’t accept your request」と出て、タイムアウトになってしまう。しばらくすると、通常チケットでは受け付けなくなり、隣の「resale」というタグをクリックしてみると1枚94ドル~96ドルのチケット2枚セット、4枚セットが出ている。正規チケットサイトがリセールをやっているってどういうことだかよくわからない。結局買えませんでした。

190ドルのVIPチケットというのがあって、こちらは、1日早く売り出されたようだが、午後にアクセスしたときにはもうSOLD OUTの表示が出ていましたね。

まあ、アメリカ人Foxたちが群がって即完売し、すでにリセール市場になっているということでしょう。さすがBABYMETAL。Fuse TVの人気投票でアリアナ・グランデを破ったのはフロックではない。めでたい。

 

1945年8月15日のポツダム宣言受諾により、サンフランシスコ平和条約が発効した1952年4月28日まで、日本は米軍を中心とした連合国(日本では通称国連)進駐軍の占領下にあった。

早くも1945年8月21日に、進駐軍のための「特殊慰安施設協会」の設立が閣議決定され、それはのちにGHQによって改組され、RAA(Recreation and Amusement , Association)となり、食堂部、キャバレー部、慰安部、遊戯部、芸能部、特殊施設部、物産部などがあった。慰安部は兵士の性的欲求不満を解消し、日本女性へのレイプを防止するためのものだったとされ、1949年に廃止されるが、各地の「進駐軍クラブ」には、飲食以外に、床屋、クツみがきなどのサービス、ダンサーや歌手によるショー、バンドの生演奏によるダンス、手品師やコメディアンによるエンターテイメント・ショー、ビンゴ大会など、様々なイベントが行われた。

(参考:進駐軍クラブから歌謡曲へhttp://zip2000.server-shared.com/sinchyugun.htm

戦争に生き残った日本人バンドマンにとって、進駐軍クラブで兵士たちのリクエストに応えてジャズやカントリー&ウェスタンを演奏する仕事は、割のいい仕事であった。また、アメリカとのパイプにより下請け仕事などで戦後復興に成功した日本人富裕層の子女や学生を対象としたダンス・パーティ(ダンパ)に呼ばれることもあった。

再独立から2年後の1954年、そうして誕生したカントリー&ウェスタンのバンドを、有楽町蚕糸会館6階の東京ヴィデオ・ホールに集めたイベント「ウェスタン・カーニバル」が開かれ、回を重ねるごとに多くの女性ファンが集まるようになった。

それに目をつけた渡辺プロの渡辺美佐は、より多くの集客を見込んで、1958年2月8日、東宝が所有していた日本劇場(現有楽町センタービル)を借り切って、「日劇ウェスタン・カーニバル」を主催した。ここにはカントリー&ウェスタンだけでなく、50年代のアメリカで流行していたロカビリーのバンドも含まれており、これが日本における「ロック」の始まりである。

そのため、2月8日は「ロカビリーの日」、渡辺美佐はマダム・ロカビリーと呼ばれる。

1977年まで続いた「日劇ウェスタン・カーニバル」出演者からは、ミッキー・カーチス、平尾昌晃、山下敬二郎の「ロカビリー三人男」、第1回レコード大賞受賞者水原弘、かまやつひろし、尾藤イサオといった50年代のロカビリースターから、寺内タケシ、内田裕也、ジャッキー吉川とブルーコメッツ、ザ・スパイダース、ザ・タイガース、ザ・テンプターズといったGSの人気者、フォーリーブス(ジャニーズ事務所)などの70年代アイドルへとつながる“スター”が輩出した。

1962年、カントリーともロカビリーとも毛色の異なる西海岸のサーフロックの雄、ベンチャーズが初来日。1965年にベンチャーズは再来日し、スプリングエコーたっぷりの「テケテケ」のエレキサウンドが大流行する。

翌年の1966年にはThe Beatlesが来日し、日本武道館で公演を行っている。前座は、ジャッキー吉川とブルーコメッツ+寺内タケシとブルージーンズの演奏、尾藤イサオと内田裕也のツインボーカルという、当時日本最高のロック系演奏陣と、ジャズ・コミックバンドだったザ・ドリフターズである。おいッス!

「日劇ウェスタン・カーニバル」を母胎とし、米英2つのバンドに対する日本側のリアクションが、1965年からのエレキブーム、GS(グループサウンズ)ブームだった。

ぼく自身は当時小学生で、その熱気を体験しておらず、あまり思い入れはないのだが、現在YouTubeにアップされている動画や音源を聴きなおしてみると、高い音楽性を持ったバンドがいくつかある。

ザ・スパイダースには、田辺昭知(のちの田辺エージェンシー社長)、かまやつひろし、堺正章、井上順、井上堯之(G)、大野克夫(K)といった作詞作曲能力と歌唱力、演奏力を持ったメンバーがそろっていた。

ブルージーンズの寺内タケシは、ベンチャーズと同じメーカーのギター(モズライト)で、ブルースと日本民謡共通の“ヨナ抜き音階”で「津軽じょんがら節」を弾きまくる日本最初の速弾きエレキギタリストだった。ザ・タイガースには、稀代のスター、ジュリーこと沢田研二がおり、コンサートで失神者が続出したステージは、ロックシンガーの原型だろう。タイガースには岸部一徳(俳優)、岸部シロー(司会者)の兄弟もいた。ザ・テンプターズにはショーケンこと萩原健一がいた。

中でも、ザ・ゴールデン・カップスにはエディ藩(G、エディ藩グループ)、ルイズルイス加部(B、ジョニー、ルイス&チャー)、ミッキー吉野(K、ゴダイゴ)、柳ジョージ(B→G、レイニーブルー)といった70年代の欧米ロックバンドとそん色ない演奏力をもったメンバーがそろっていたが、麻薬取締法違反によりメンバーが逮捕され、あえなく解散。この辺も「本場」っぽい。

1959年に日劇ウェスタン・カーニバルに初出演した内田裕也は、当時もうベテランであり、ザ・タイガースをスカウトするなど、プロデューサー的立場であったが、ビートルズに衝撃を受け、1967年頃欧米を回って、クリーム、ジミ・ヘンドリクス、レッド・ツェッペリン、ピンク・フロイドなど、勃興しつつあったハード・ロックを知り、GSから歌謡曲へという流れに抗して、本格的なロックバンドの結成を志す。1970年、ジョー山中(V)をフィーチャーしたフラワー・トラベリン・バンドで、カナダに渡り、アメリカのアトランティック・レコードと契約して「SATORI」「SATORI Part2」をリリース。帰国後の1973年、ローリング・ストーンズの前座を務めるはずだったが、ストーンズが麻薬問題で来日できず、フラワー・トラベリン・バンドも4月に解散してしまう。

フジテレビの「勝ち抜きエレキ合戦」のグランドチャンピオンとなったギタリスト成毛滋は、慶応大学卒業後の1967年、ザ・フィンガーズとしてプロデビュー。1969年の解散後、アメリカ、イギリスに長期滞在し、ウッドストックフェスティバルを体験。帰国後、日本でも野外ロックフェスをやりたいという思いから、日比谷野外音楽堂での「10円コンサート」を開く。これが草創期のロックフェス、日比谷野音の始まりである。以降、成毛は、柳ジョージ、角田ヒロ(つのだ★ひろ)ミッキー吉野らと、ジプシーアイズ、ストロベリー・パスといったグループをつくり、のちには高中正義がベーシストとして参加する。

1969年に「時には母のない子のように」でレコード大賞を受賞したカルメンマキは、ジャニス・ジョプリンに触発されて、1972年に当時18歳だった春日博文(G)とともにカルメンマキ&OZ(~1977年)を結成、「私は風」「午前1時のスケッチ」など、物語性の高いハード・ロック楽曲を世に出した。

高校を卒業した翌日、卒業証書を破り捨てて広島を出て、横浜のジャズ喫茶でライブを積み重ね、1972年に革ジャン、リーゼントのロックンロールバンドとしてデビューした矢沢永吉率いるキャロルも、「成り上がり」の志向は持っていたものの、GS→歌謡曲という流れには乗らず、独自に「ロック」の水準に達したバンドである。

1966年ごろ、小学校5年生でヤードバーズやローリング・ストーンズをレパートリーにしたバンドを組んでいたギタリストChar(竹中尚人)は、中学校3年生だった1971年ごろ、スタジオミュージシャンとして、ギター奏法の教則本「ロック完全マスター」の付録カセットテープにエリック・クラプトンなどの曲を録音。他に演奏できるミュージシャンがいなかったためで、「歪み」と「フィードバック」奏法をデモしたとき、スタジオ付きの録音技師に激怒されたという逸話がある。その後、高校生なのに、乞われるままスタジオミュージシャンとしての仕事をこなし、日比谷野音にも出演、1973年に金子マリ、鳴瀬喜博らとスモーキーメディスンを結成した。その超絶的な演奏力は内田裕也の耳に入り、主宰するロックフェス「フラッシュ・コンサート」(渋谷西武劇場)では、海外公演のため欠場したサディスティック・ミカ・バンドの代わりに抜擢、アマチュアなのに「期待の新人バンド」として紹介した。

その他にも、1973年にミッキー・カーチスがプロデュースした外道、1969年に金沢の高校生が結成し1973年にNHK「ステージ101」にいきなり出演して全国にその名を轟かせたブルースロックバンドめんたんぴん、同じく1969年に東京で結成され、ピンク・フロイドを完璧に演奏できる18歳のバンドとの評判をとり、1975年に「一触即発」でデビューしたプログレハードロックの四人囃子(森園勝敏、佐久間正英、岡井大二、坂下秀実)、1970年に福岡で結成され、1975年にデビューしたブルースロックバンド、サンハウス(シーナ&ロケッツの前身)など、歌謡曲に「融合」されない、本格的なロックバンドが次々と現れた。

沖縄では、1970年~71年ごろ、駐留米軍クラブで圧倒的な演奏力を競っていた紫、コンディショングリーンという2つのHRバンドが誕生している。(“本土”でのデビューはそれぞれ1975年と1978年。)

このあたりがぼくのど真ん中であり、高校時代に組んでいたバンドのレパートリーは、ディープパープル、レインボー、ジェフベック、四人囃子、マキ&OZであった。

なお、2014年1月に逝去した四人囃子のベース佐久間正英は、筋肉少女帯との対バンライブ(2014年1月24日)において、プロミュージシャンとして初となるSAKUMA-METALのメタルネームを贈られた。

(つづく)