歌謡曲の正常進化(2) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ

本日3月30日は、過去BABYMETAL関連では大きなイベントがなかった日DEATH。

 

1971年デビューの「新三人娘」、天地真理、小柳ルミ子、南沙織。

しかしその「次」を担う女性歌手三人セットは、わずか2年後に登場した。

1973年に日本テレビの「スター誕生」から登場した「花の中三トリオ」は、森昌子が演歌、桜田淳子、山口百恵がポップスというくくりだった。

山口百恵はその中で一番地味だったが、1974年「青い果実」「ひと夏の経験」で人気が爆発。「秋桜」「いい日旅立ち」(谷村新司)、「ロックンロールウィドウ」(宇崎竜童)といったミューミュージックのアーティストから楽曲提供を受けるとともに、「プレイバックPart2」「絶体絶命」「ロックンロールウィドウ」では、矢島賢(2015年逝去)という稀代のスタジオ、ロックギタリストが名演を残している。矢島賢は松田聖子「青い珊瑚礁」、中森明菜「少女A」、岩崎良美「タッチ」のギターも弾いているので、ほとんどの方がその音を脳内再生できるはずだ。

アミューズの大里会長がマネージャーをしていたキャンディーズも、「年下の男の子」「春一番」「微笑み返し」のギターを弾いていたのは水谷公生というロックギタリストである。水谷公夫は、尾崎紀世彦「また逢う日まで」、ちあきなおみ「喝采」、渡辺真知子「かもめが翔んだ日」も弾いている。

歌謡曲のサポートギタリストについては、『ギターマガジン』2017年4月号(リットーミュージック、発売中)に詳しく掲載されている。

そんな中、1976年に「ペッパー警部」でデビューし、オリコンで連続9曲1位・10曲連続ミリオンセラーという大記録を打ち立てたのがピンク・レディーだった。楽曲的には、三人組のキャンディーズより、曲調やコーラスがスリーディグリーズっぽい感じだが、なんといっても独創的なコレオグラフィー(振付け)で、全国の小学生を虜にし、「踊りながら歌う」というアイドルの原型を作ったといえる。

80年代以降は、ポップス、フォーク、ロック、ダンスミュージックを「融合」することは当たり前となる。

このころのアイコンであった松田聖子は、確かファーストアルバム「SQUALL」のライナーノーツで読んだ記憶があるのだが、「ブリッコ」キャラに反して、実はロックっぽい声質と歌唱法に特徴があった。「風立ちぬ」(大瀧詠一)、「ガラスの林檎」(細野晴臣)、「赤いスイートピー」「渚のバルコニー」(松任谷由実)などニューミュージックのアーティストによる楽曲提供も多く、CDには今剛、松原正樹らロック、フュージョン色が強い凄腕のサポートギタリストが参画している。

男性アイドルでは、田原俊彦は都会的なディスコ・ダンス調、近藤真彦は武骨なHRという色分けがあった。野村義男は歌謡曲時代には目立たなかったが、ギタリストとして成長し、小泉今日子や浜崎あゆみのバックバンドを務め、WEBギター番組(野村ギター商会)を持つまでになっていく。

聖飢魔Ⅱ、X-Japanがお茶の間に登場したのもこの時代だ。さすがに、洗練の度を高めていく「ニューミュージック」の枠内には入らなかったみたいで、NWOBHMやスラッシュメタルなんて知らないお茶の間では、歌の世界にド派手でちょっと笑える新ジャンル「ヘビメタ」というものが登場した!という認識だったと思う。

つかの間のヘビメタブームが終息した90年代には、TVの音楽番組が減り、従来の歌謡曲歌手には「氷河期」と呼ばれた。もはや歌謡曲という古風な語感は「日本語で歌っている」という意味だけになり、J-POPと名前が変わった。

当時デビュー/ヒットしたアーティストは、小室哲哉(TRF、GLOBE)、浜崎あゆみ、宇多田ヒカル、平井堅、チャラ、MISHA、倖田來未など、洋楽の影響としては、EDMからR&B、ジャズ、ゴスペルまで全体的に“黒っぽい”感じだが、それぞれが個性的で、前代に比べて歌唱力やダンス力は格段にレベルアップした。

Every Little Thing、Dreams Come True、Mr.Children、スピッツ、槇原敬之、「イカ天」出身のたまといったニューミュージック色の強いアーティストや、サザン・オールスターズを筆頭にした日本語ロックも隆盛し、The Blue Hearts、、B’z、米米CLUB、WANDS、GLAY、L’arc~en~Ciel、T-BOLANらもヒットチャートをにぎわすようになる。

アイドル系も、SMAPは大人っぽいアーバンR&B+ダンス楽曲だし、TOKIOは楽器を演奏するロックバンドだった。安室奈美恵、Speed、DA PUMPは沖縄アクターズスクール出身で、ダンス、歌唱力に優れ、その実力は「アイドル離れ」していた。

歌謡曲とフォークとロックとダンスミュージックの境目は溶解し、邦楽は、日本語ロックを含むJ-POPと演歌という区分になり、ジャンルよりも、まだ売れてないインディーズか、売れてるメジャーかという状況がアーティストの立ち位置を示すようになった。

以上見てきたように、もともと日本の商業音楽は、アメリカのジャズ&ポップスと演歌が統合されて歌謡曲になり、GSからロック・フィーリングやエレキ・ギターが歌謡曲に導入され、フォークが「反体制」の軛を外してニューミュージックとなり、そのニューミュージックと日本語ロックやEDM、ブラックミュージックまでもが歌謡曲に統合されて、J-POPになったという「融合」の歴史なのだ。

だから、BABYMETALの「アイドルとメタルの融合」は、KOBAMETALがある日思いついたものではない。それは歌謡曲の歴史の延長上にあり、正常な進化なのである。

あらゆるジャンルが「融合」されてきた中で、メタルだけが「融合」されていなかった唯一のフロンティアだったのだから。

しかし、それがアイドル界の「突然変異」というふうに見えるのはなぜだろう。

ぼくの考えでは、2000年代に入って、つんく♂によるモーニング娘、秋元康によるAKB48グループが、「素人っぽさ」をタレントプロモーションに導入したことで、アイドル=歌謡曲の女性歌手の音楽性の進化が止まってしまい、十数年間、新しい「融合」が起こらなかったからだ。

つんくはロックバンド、シャ乱Qのボーカル、作詞作曲者である。だが、シャ乱Qのコンセプト自体、「70年代歌謡曲のエッセンスを導入したロック」だった。それをアイドルに適用したので、モー娘。の楽曲は70年代歌謡曲に揺り戻ったといえる。「ラブマシーン」は、クインシー・ジョーンズとか70年代ディスコの雰囲気がする。ベースラインはロッド・スチュワートの「アイム・セクシー」かな。

AKB48の楽曲は、秋元康の歌詞を乗せるキャッチーなメロディであればいいという感じで作曲されているように思える。大ブレイクした「へビーローテーション」にはディストーションをかけたギターのリフがあるものの、メロディ部分のコード進行は、かつてのロカビリーをオマージュした70年代イギリスのルーベッツ(「シュガーベイビーラブ」)や、日本でも大人気になったベイシティローラーズ(「バイバイベイビー」)の曲想に似ていて、「新しさ」よりも「懐かしさ」を感じる。そういえばあのギンガムチェックのコスチュームもベイシティローラーズや、そのオマージュたるチェッカーズへのさらなるオマージュ。オマージュの三段重ねに思える。

オマージュが悪いというのではない。それが「時代の何を表現しているか」がポピュラー=大衆音楽の評価対象だと思うのだ。

モー娘。とAKBグループの新しさと本質は、アーティストとしての音楽性や表現力ではなく、集団ダンスと半素人の女の子たちのイノセントな魅力を、TV媒体で「売る」ことだったと思う。だから楽曲はキャッチーで明るく「どこかで聴いたことのある感じ」の方がいい。そして、そのコンセプトは見事に成功した。だから、モー娘。やAKBグループ以降の女性グループは、J-POPから切り離され、ジャンル名として「アイドル」と呼ばれるようになった。

芸能産業なのだから「売れる」ことはちっとも悪くないが、その訴求ポイントとして、音楽性について重点を置かれていないことは明らかだ。

ももクロの楽曲には、独創的なメロディライン、コード進行に特色がある前山田健一の初期楽曲や、マーティ・フリードマン(元メガデス)や和嶋慎治(人間椅子)が参加したメタル色の強いものもあり、アイドル=歌謡曲として、「なんでもあり」の実験・冒険をしているように思う。

しかし、プロモーションの力点は、笑顔いっぱいの元気さ、ダンスの激しさ、コミカルな受け答えといったタレント性、ライブでのサプライズ発表のたびに感じるメンバーの「成長」などに置かれていた。「アイドル戦国時代」を勝ち抜き、「みんなを笑顔にするという部分で、天下を取りたい」(2014年国立競技場、百田夏菜子)と宣言したように、音楽で「何か」を表現するアーティストではなく、「アイドルとして何ができるか」の自己規定にこだわっているように思う。

 

2011年、Kawaiiをキーワードにした「アイドルとファッションの融合」きゃりーぱみゅぱみゅの「PONPONPON」MV(2011年7月16日公開)がYouTubeで1千万PV(現在は1億PVを突破)を記録した。

同時期、BABYMETALの「ド・キ・ド・キ☆モーニング」MV(2011年10月12日公開)も、芝居じみた骨バンドのバックとCGを駆使したKawaii Metalとして海外で話題になり、100万PVを突破した。当時、海外公演へのオファーを受けたが、KOBAMETALはそれを断ったという。

2007年にPerfumeが「アイドルとテクノの融合」でブレイクしたのを参考に、バラエティ班に異動となったKOBAMETALは、BABYMETALを「アイドルとメタルの融合」としてプロデュースした(2012年日経トレンディインタビュー)のだが、Kawaiiという話題性だけで売ることはせず、パフォーマンスのクオリティを上げることを優先した。

2012年の「ヘドバンギャー!!!!!」リリースとヘドバ行脚、Legend ”I,D,Z“、2013年の神バンドとの全国フェス席捲を経て、ようやく2014年からの欧米進出が始まった。

「イジメ、ダメ、ゼッタイ」「メギツネ」リリース当初こそ頻繁にTV出演を行ったが、その音楽性が広く認知された2015年以降は、極端なまでに露出を抑えている。

それは、Perfume同様、日本においては、2000年代「アイドル」のTVベッタリの売り方を排除し、音楽性に焦点を当てたいというアミューズないしKOBAMETALのプロモーション上の意向によるものだと思う。

長いロス期間を経て、ようやく2017年最初のBABYMETAL単独ライブが、6月16日ロサンゼルスのThe Palladiumで実施されることが発表されたが、ウェンブリーや東京ドーム同様、国内で報道されるとしたら、数十秒間のライブ風景だけだろう。

そして、こうしたプロモーションの手法は、60-70年代の日本の音楽界、すなわち歌謡曲-J-POPのありようを否定するものではなく、むしろ「融合の歴史」という正常な流れの延長にあるとぼくは考える。

1973年に「危険なふたり」で日本歌謡大賞を受賞した沢田研二は、翌1974年から海外進出に挑戦した。イギリスでは「愛の逃亡者 THE FUGITIVE」(英語版)、フランスでは「MON AMOURE JE VIENS DU BOUT DU MONDE」(フランス語版、日本語タイトル「巴里にひとり」)を同時リリース。フランスではラジオチャートで第4位に入り、20万枚以上を売り上げ、日本人として初めてゴールデンディスク賞に輝く。以降、1978年にかけてフランス、イギリス、ドイツ、ベルギー等でシングルをリリースした。また、1974年にハワイ、1977年・1978年にグアム、1979年にシンガポール、1980年・1982年に香港でライブを行っている。だが、日本で「時に過ぎゆくままに」が大ヒットしたことにより、国内での活動に専念するようになった。

西城秀樹は、1975年に「傷だらけのローラ」フランス語版(「LOLA」)をレコーディングし、世界4か国(カナダ、フランス、スイス、ベルギー)で同時リリースした。カナダではヒットチャート第2位にランクイン。日本国内でもフランス語版の「LOLA」がリリースされている。そして1975年秋には、日本人のソロ歌手として史上初となる日本武道館でのライブを行った。

ピンク・レディーは、国内での人気に陰りが出てきた1979年、「Kiss in the Dark」で全米デビュー。同曲は、ビルボードホット100(シングル総合)37位となり、全米三大ネットワークの一つNBCのゴールデンタイムで冠番組を持つにいたった。しかし、日本では、紅白歌合戦への出場辞退やメンバーのプライバシーに対するバッシングが強くなり、アメリカでの契約も単年度だったため、帰国後の1980年に解散を発表した。

他にも、郷ひろみ、松田聖子など海外進出を目指した歌謡曲の歌手は多い。

70年代~80年代に海外進出に挑戦したのは、サディスティック・ミカ・バンド、YMO、Loudness、X-Japanなどロックバンドだけではない。

BABYMETALは、2016年の「Metal Resistance」の世界同時リリースで、アルバム総合部門のビルボード200で39位となったが、シングルは配信の「KARATE」のみである。時代が違うからCDの売り上げ枚数では比較できない。だが、3年連続ワールドツアー、1万人超えの単独ライブ、各会場で数万人を動員するフェスでの訴求力、複数の大物バンドのサポートツアー帯同など、日本人アーティストとして、最も欧米音楽市場に食い込んだアーティストであることは間違いない。

もともとJ-POPは「融合」であり、歌謡曲の歌手が海外で活躍することは、“見果てぬ夢”だった。その歴史を今、BABYMETALが更新しつつある。それが「アイドルとメタルの融合」の大きな意義だとぼくは考えている。

(この項終わり)