歌謡曲の正常進化(1) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ

本日、3月29日は、2015年、さくら学院2014年度の卒業式。水野由結、菊地最愛が、野津友那乃、田口華とともに卒業し、それぞれの道へ歩き始めた日DEATH。

 

団塊の世代の方々とは一回り違うので、1950年代の石原裕次郎や「三人娘」(美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみ)、1960年代の「御三家」(舟木一夫、橋幸夫、西郷輝彦)、加山雄三やGSブームも知らない。

その当時、ぼくはまだ「ウルトラマン」に夢中だったのだ。

1970年代に入って、ようやくぼくの関心が音楽に向いたときにTVの中にいたのは、歌謡曲黄金時代の歌手たちだった。

1971年のレコード大賞は「また逢う日まで」の尾崎紀世彦、最優秀歌唱賞「おふくろさん」森進一、最優秀新人賞「わたしの城下町」小柳ルミ子、歌唱賞「よこはま・たそがれ」五木ひろし、「知床旅情」加藤登紀子、「さいはて慕情」渚ゆう子、大衆賞「傷だらけの人生」鶴田浩二、「さらば恋人」堺正章、新人賞「17才」南沙織。

1972年のレコード大賞は「喝采」のちあきなおみ、最優秀歌唱賞「あの鐘を鳴らすのはあなた」和田アキ子、最優秀新人賞「芽ばえ」麻丘めぐみ、歌唱賞「瀬戸の花嫁」小柳ルミ子、「夜汽車の女」五木ひろし、「許されない愛」沢田研二、大衆賞「子連れ狼」橋幸夫、「ひとりじゃないの」天地真理、新人賞「太陽がくれた季節」青い三角定規、「男の子女の子」郷ひろみ、「雨」三善英史、「せんせい」森昌子、作曲賞「どうにもとまらない」山本リンダというラインナップ。

このほかに「青いリンゴ」の野口五郎、「空に太陽がある限り」のにしきのあきら、天地真理の妹分で、歌はヘタクソだけどめっちゃ可愛い「赤い風船」の浅田美代子、香港出身の「ひなげしの花」アグネス・チャン、美しいハーモニーの女性デュオ、「恋人もいないのに」シモンズなんてのもいた。

当時は歌番組が多く、こういうちょっとフォーク調あるいはウェスタン調のポップスが主流だった。ぼくは父親のガットギターを借りて、おこづかいで「平凡」「明星」を買い、付録の歌本でコード弾きを始めていた。そうすると、歌謡曲とは別に“フォーク”という世界があって、「戦争を知らない子供たち」(ジローズ)とか「友よ」(岡林信康)とかが、易しいコードで弾けることを知った。

あるとき歌番組を見ていたら、ぴんからトリオ「女のみち」(♪わーたしィがァァァ捧げェたァそーのォひとォに~)というのが第1位になったことがあって仰天した。もう「古い音楽」だと思い込んでいた演歌というジャンルに根強い人気があることを、その時初めて知ったのだった。

 

1960年代から70年代にかけて、アメリカを中心に、音楽、文学、映画、演劇、ファッション、食べ物に至るまで、戦後生まれの若者の大衆文化が一斉に花開き、その動きを既存の文化「ハイカルチャー」に対して、対抗文化「カウンターカルチャー」と呼んだ。

七三分けに対する長髪。アイビールック&革靴に対するジーパンTシャツ&スニーカー。

伝統料理に対するファストフード。ハリウッドに対する自主製作のニューシネマ。ブロードウェーに対するオフブロードウェー/アングラ演劇。

キャデラックに対してバイクを乗り回すヘルズエンジェルス。

「健全な精神は健全な肉体に宿る」という格言を疑う麻薬やドラッグによる意識の変容実験。保守的なプロテスタントの教えを離れ、神智学や禅やヒンズー教に影響を受けたスピリチュアリズム。愛と自由と平和を訴え、自然に帰れと呼びかけるヒッピー・ムーヴメントや、伝統的な家族制度を否定して、仲間と共同生活するコミューン主義。

戦後、豊かな社会になったのに、若者たちはあらゆる分野で、既存の価値観を疑い、エスタブリッシュメントを嫌悪し、新しいライフスタイルを模索した。

自作自演のフォークやロックは、プロの作曲家・演奏家によるクラシックやポップスが支配的だった音楽業界に対するアンチテーゼだった。

こうした動きは、アメリカでは公民権運動やベトナム反戦運動、日本では全学連や全共闘の学生運動といった「反体制運動」と重なっていた。

しかし、1970年代も中盤になると、若者たちは大人になって政治運動も沈静化し、カウンターカルチャーは、社会に受け入れられて“定番”になるものと、ハイカルチャーの一部に取り込まれるもの、支持を得られず廃れたものに分かれた。

ジーパンTシャツスニーカーは、反体制の象徴だった過去は消え去り、今や、誰でも持っているものになった。ファストフードは、もともとカウンターカルチャーのひとつだったはずだが、その利便性から今や外食産業の中心となり、逆に伝統料理=スローフード運動の方が、オルタナティブとみなされるようになった。

長髪は多数派ではなくなったが、個性を表現する「髪型のひとつ」として定着した。

ハリウッドの商業主義に抗したトリュフォーやゴダールのヌーヴェルヴァーグ映画は、いわば低予算の自主製作映画だった。現在では、すぐれた作品を生み出す監督や個性的な俳優を世界規模でスカウトする、ハリウッドの新人発掘システムに組み込まれている。

オフブロードウェー、オフオフブロードウェー(アンダーグラウンド演劇)も、ブロードウェーやハリウッドスターの登竜門である。

LSDなどの向精神薬は、服用者の犯罪が社会問題となり、医学目的以外の使用・所持が禁じられた。スピリチュアル志向と連動したコミューン運動は、同志のはずだった仲間のエゴのぶつかり合いや、性的放恣、カルト教団の集団自殺などの事件により、反社会的だとみなされるようになった。

スティーブ・ジョブスはヒッピー・ムーヴメントの信奉者だったが、インド放浪の費用を捻出するためにアタリ社に入社、その後、友達のスティーブ・ウォズニアックとともに1976年に自宅のガレージでパソコン「AppleⅠ」「AppleⅡ」を開発した。

音楽界では、反体制色が強かったフォーク&ロックが、商業主義に組み込まれていき、「ジャンルのひとつ」となった。レコードやライブのチケットが売れなければ食えないのだからしかたない。もっとも、それに抗い、社会的なメッセージ性や自己主張を保持しようとする動きも、パンク、ハードコア、スラッシュメタル、ファンク、グランジ、Nu-Metalなど、形を変えながら継承され、それが「ロックの本質」だとみなされている。

しかし、日本に限定すれば、フォークとロックは、同じ出自ではない。

ベンチャーズ、ビートルズに触発されたロック(=エレキ)という音楽は、元々60年代の「エレキの若大将」加山雄三(わが軍でもある)、GS(ザ・スパイダース、タイガース、テンプターズなど多数)といった派手な商業音楽の色が強かった。

フォークの方は、50年代後半の歌声喫茶や60年代のカレッジフォークの時代から学生が中心だっただけに、「山谷ブルース」「友よ」の“和製ボブディラン”岡林信康、高石ともやら、アコギを抱えてシンプルなコード弾きでメッセージソングを歌うシンガーソングライターが学生運動の象徴になった。

60年代には、商業音楽のエレキ=ロックに対して、反体制のメッセージ性を持ったフォークという図式だったのだ。

一方、既存の音楽である日本のポップス=流行歌にも、2つの流れがあった。

戦後間もない1940年代後半、並木路子「リンゴの唄」、笠置シズ子「東京ブギウギ」、岡晴夫「憧れのハワイ航路」、藤山一郎「青い山脈」など、現在の感覚では哀愁を帯びて聴こえるものもあるが、アメリカナイズされた戦後の新生活を夢見る歌が流れた。

そして進駐軍への慰問という音楽ビジネスから始まった、アメリカのジャズ、ポップスのコピー、受容という流れ。その系譜が、1963年にビルボード200の14位(日本人最高位)に入った坂本九、中村八大・永六輔コンビ、クレイジーキャッツ、ザ・ピーナッツ、中尾ミエ・園まり・伊東ゆかりなど、ナベプロを中心としたポップス陣営だ。

もう一つの流れは、近江俊郎「湯の町エレジー」など、いわゆる古賀メロディに代表される日本的なヨナ抜き音階の演歌のグループ。1950年代から春日八郎、三橋美智也、三波春夫、村田秀雄、島倉千代子ら浪曲や民謡出身の歌手が続々と登場した。

バタ臭いポップスに対して、演歌は和風だった。

しかし、正反対に見える両陣営は、1960年代になると奇妙なまとまり方をしてくる。それが例の「御三家」「三人娘」というくくりである。

「御三家」は、舟木一夫・橋幸夫・西郷輝彦、「三人娘」は、美空ひばり・江利チエミ・雪村いづみ。舟木一夫、西郷輝彦はポップス、橋幸夫は演歌色が強いが、GSの影響を受けた「メキシカンロック」なんてのもある。

美空ひばりは、子ども時代は「東京キッド」のような4ビートのジャズ・ポップスを歌っていたが、「リンゴ追分」などの演歌色が強いものから、「真っ赤な太陽」のようなGSものまで万能の天才歌手だった。江利チエミ、雪村いづみは、子どもの頃から進駐軍の慰問をやっていた。

1970年代、ようやくぼくが音楽に目覚めた頃、郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎、天地真理・小柳ルミ子・南沙織のいわゆる「新御三家」「新三人娘」が登場し、アイドル歌手と呼ばれるようになる。

ここでも、野口五郎、小柳ルミ子が演歌っぽく、残りがポップスだが、野口五郎「私鉄沿線」、小柳ルミ子「瀬戸の花嫁」のように、フォーク色が強い曲もある。白いギターを弾き語りする天地真理は、相当フォーク色が強かった。

GSブームが終了し、ピンになった堺正章、井上順之(スパイダース)、沢田研二(タイガース)、萩原健一(テンプターズ)らが歌謡曲に参入してくると、ロックのカラーが楽曲の中に導入されるようになる。

GS時代に失神者が続出するほどの大人気だった元タイガースの沢田研二はソロになり、1973年に「危険なふたり」で歌謡大賞を受賞。以降「勝手にしやがれ」「時の過ぎゆくままに」など盟友元スパイダースの井上堯之のギターの名演とともに歌謡曲ロックに金字塔を残した。

同じ年、「情熱の嵐」のダイナミックなアクションと絶唱で熱狂的なファンがついた西城秀樹は、エルヴィス・プレスリーのコスチューム、マイクスタンドパフォーマンスはロッド・スチュワートから。1974年に日本人ソロ歌手として初となる大阪球場での野外コンサートを行い、曲中のコール&レスポンス(♪「君が望むなら」「ヒデキ!」)、観客の懐中電灯振り(サイリウムの原型)、クレーンにつりさげたゴンドラからの歌唱(横アリの原型)など、日本に現在のロック・ライブの原型を導入したのは誰あろう西城秀樹である。

当時の二人のコスチュームやメイク、演出は、今考えると「歌謡曲とグラムロックの融合」をやっていたのだと思う。

野口五郎は、自らロック・ギターを弾き、自宅にスタジオまで持っているのだが、歌謡曲時代には披露されていなかった。

つまり、70年代になると、ジャンルの「融合」が起こり、ポップスとフォークとロックが「歌謡曲」というものに統合されていくのだ。

70年代中盤、日本のロックバンドは、ブリティッシュロックの影響を受けて、GSのような商業音楽ではなくなり、フォークより「不良」なジャンルとみなされるようになった。中には赤軍派と共闘して暴力革命を歌った頭脳警察なんていうバンドもあったが、大勢は、政治性というより、演奏技術や表現力、生き様の過激さが評価基準となり、外道、めんたんぴん、クリエーション、四人囃子、カルメンマキ&オズなど演奏力の高いバンドが次々と誕生した。

同じく70年代中盤のフォーク界では、吉田拓郎「結婚しようよ」、井上陽水「傘がない」、南こうせつとかぐや姫「神田川」など、政治性の薄いシンガーソングライターが、前代のフォーク陣営から批判を浴びつつも大人気になる。

ヤマハのポプコンで優勝し、「時代」でメジャーデビューした中島みゆきは、新左翼シンパだったらしいが、楽曲に政治性はほとんどなく、荒井由実(のちの松任谷由実、ユーミン、「翳りゆく部屋」「ひこうき雲」「中央フリーウェイ」)にいたっては「お嬢様」っぽいのに、コード進行が独特で、バックを務めたキャラメルママ→ティンパンアレイやはっぴいえんどのギタリスト鈴木茂も、ロックバンドというより西海岸のスタジオミュージシャンみたいだった。

もはや反体制的で素朴なフォークという名称はそぐわなくなり、これ以降のシンガーソングライターのジャンルは、ニューミュージックという名前に変わった。

1979年メジャーデビューのサザン・オールスターズは、アメリカのサザンロックの影響を感じるテクニシャンの集まりだったが、政治性は皆無、下世話な日本語を英語のように歌うという色物扱いで、ロックというより、ニューミュージックのジャンルと見做された。

フォークシンガー色を最も色濃く残していた福岡出身の長渕剛も、開拓民の心を歌う北海道の松山千春も、ニューミュージックだった。

つまり、統合された歌謡曲、演歌以外のフォーク&ロックはすべてニューミュージックとなったのである。

そして、ニューミュージックのアーティストは、歌謡曲の歌手に楽曲を提供するようになる。森進一「襟裳岬」、キャンディーズ「やさしい悪魔」は吉田拓郎の作詞作曲。森進一の「冬のリヴィエラ」、小林旭の「さらばシベリア鉄道」は松本隆作詞、大瀧詠一作曲である。

ニューミュージックのアーティストはTVに出ないと頑張っていたのだが、アリス、海援隊、ダウンタウンブギウギバンド、THE ALFEE、Charなど、そんなこと全然気にしないで歌番組に出演するアーティストも多かった。

(つづく)