祝!2017年初単独ライブ/ひるね姫 | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
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★今日のベビメタ

本日3月26日は、2016年、5月4日にWOWOWで「BABYMETAL Road to WEMBLEY ~Live & Interview~」が放送されるとアナウンスされた日DEATH。

 

昨日、今年初のBABYMETAL単独ライブが、6月16日(金)にロサンゼルスで行われることが公式サイトから発表されました。

 

■BABYMETAL US TOUR 2017 SPECIAL HEADLINE SHOW IN LA

6/16 (FRI) ロサンゼルス, CA / The Palladium

SPECIAL GUEST:Hellyeah

 

数日前に、6月4日(日)に幕張メッセで開催される「Amuse Fes in MAKUHARI 2017 -rediscover-」の出演者が発表され、さくら学院は出演するのに、BABYMETALはリストに入っていませんでした。アミューズ主催のフェスだけど、やっぱりベビメタは無理だよな、と思っていたらこの発表。

パラディウムは、収容人員スタンディングで4000人、ロサンゼルス国際空港から車で40分~1時間とのこと。チケット発売は、現地時間3月31日午前10時(日本時間4月1日(土)午前2時)からDEATH。

BABYMETALの単独ライブに初めて前座がつきます。元パンテラのヴィニー・ポール(D)が2006年に結成したへヴィメタルバンド、ヘルイェーです。何度か書きましたが、「ド・キ・ド・キ☆モーニング」のリフはパンテラへの“オマージュ”。パンテラ解散後、ダメージプランとして活動していた2004年、ヴィニーの実弟であったギタリストのダイムバッグ・ダレルがライブ会場で殺され、そこから立ち直って2006年に結成されたのが、このヘルイェーです。いつかは、海外のバンドを前座にしてBABYMETALがヘッドライナーを取る日が来ると思っていましたが、まさかこのタイミングで。

 

ひさしぶりのアニメ記事です。

この間の連休初日、二女と面会できたので、施設から連れ出し、アニメ映画『ひるね姫』を二人で見た。

まだロードショウ中で、ネタバレになってはいけないので、感想だけ書く。

『君の名は』と同じく、現実と夢の二重のストーリーが同時進行し、徐々に隠されていた真実が明らかになるというプロット構造。

美しく天才的な頭脳を持つ母が早逝し、武骨な父が男手ひとつで娘を育てているという設定からして、ぼくにはグッとくるものがあるが、活発で意志の強い主人公の娘が、ピンチに陥った父を助けに行くというところ、母の遺志が現実となって父娘の最大の危機を助けに“戻ってくる”というシーンには、「ふぐう」と思わず声を出して泣いてしまった。

基本的に、アニメというのは、「設定」されたドラマ環境の中で、現実にはあり得ない映像を楽しみ、ストーリー展開と登場人物の心情を味わいつつ、そこに秘められた制作者の意図や寓意を読み取るものだと思う。

しかし、『君の名は』と『ひるね姫』に共通しているのは、ストーリーが二重に絡み合って、「夢」の寓意が、「現実」(という設定)に反映している関連性を読み取ることに精いっぱいで、「現実」(という設定)そのものに込められた制作者の寓意や意図までは頭が回らないという構造になっていることだ。

それでも『君の名は』では、時間のずれ、大切な記憶があいまいになっていくというテーマがあって、物語の二重性を堪能した後、「今、あなたのそばにいる彼氏/彼女、夫/妻とは、どこでどう出会ったか覚えていますか?忘れている運命の人はいませんか?」と問いかけられるような日常生活への侵犯性があったように思う。

しかし『ひるね姫』には、それがなかった。「現実」の方の「設定」は、2020年オリンピックと自動運転技術をめぐる、現実にありそうな話であって、そこに制作者が何らかの寓意や意図を込めたようには思えない。

生まれた頃に亡くなったと聞かされてきた「母」は実在しなかったとか、「父」は天才科学者の母が残したロボットだったとか、実は夢見る「私」自身がアンドロイドだったとか、そういう観る者の日常生活の基盤を揺さぶるような侵犯性をもったストーリーではない。

終了後のロールバックで、母と父との出会い、結婚式が描かれるが、なぜ母が亡くなったのかが明らかにされないことを除けば、「謎」はない。複雑そうに見えて、実は非常に理解しやすい勧善懲悪のハッピーエンドになっている。

その意味で深みはないが、それだけに、父、母、主人公、協力者たちの純情が伝わってきて、泣ける度合いは『ひるね姫』の方が強い。

二女の反応は、「うん、面白かったよ」というもの。「後半ちょっとわけがわからなくなったけど、最後には全部説明がついたね」とのこと。

ぼくは性格がヒネクレテいるので、アニメにはSense of Wonderな世界観にもとづく美しい映像と、主人公の「自立の瞬間」なり「成長」と、謎が解けていくスカッとするストーリー展開と、価値観を揺さぶられるような哲学的な問いかけが欲しい。

ディズニーの『ピノキオ』が「良心」を学んだなら人間に成れるというテーマだったのに対して、手塚治虫の『鉄腕アトム』は、天馬博士が、亡くなったトビオという息子の代わりに造ったアトムが、「優秀すぎ」て可愛げがないと言って捨てられるところから話が始まる。

お茶の水博士はそんなアトムを拾って学校に通わせ、人間としての教育を施すのだが、ロボットが人間に対して反乱を起こしたときのリーダー、敵役のプルートーは、「アトムは悪を知らないから完全ではないのだ」と宣告する。つまり、ピノキオとは逆に、「悪」を内面化することが人間と同等になる条件なのだと言っているのだ。

アニメだから、人形・ロボットという形態を借りて「人間とは何か」「大人になることとは何か」という寓意を表現しているのだが、両者を比べると、『鉄腕アトム』の方がはるかに深い問いかけをしていると思う。

『風の谷のナウシカ』も、TVで度々放映される劇場版では、ナウシカが「王蟲と心を通わせる自然児」みたいに描かれるが、「アニメージュ」に長期連載された原作者宮崎駿の漫画版では、まったく違う結末が待っている。

腐海が瘴気の原因なのではなく、腐海が瘴気を放つのは、核戦争で汚染された地球が清浄化されるプロセスであったことまでは、劇場版で明らかになっている。だが、漫画版はさらに踏み込んで、「火の7日間」戦争を起こした旧世界の文明人たちが、長期的な地球清浄化計画=除染のために腐海を造ったのであり、ナウシカもまた王蟲のように瘴気の環境下で生きられるよう改造された“つなぎ”の人造人間だったことが明らかになる。

だからナウシカは腐海に生きる王蟲たちと心を通じさせることができたのであり、ナウシカも王蟲も、清浄化=除染されたあとの地球には住めないのだ。

ずっとナウシカに感情移入してきた読者には、「じゃあ、ぼくらが求めるピュアな自然とか除染って何?」という深い問いかけが残る。ナウシカが最後にどんな決断をするかは、『風の谷のナウシカ』全7巻(アニメージュコミックス)をお読みください。

このストーリーには、印刷物、TV、映画、ネット配信とメディアは違っても、大量の電気エネルギーを食い、近代工業の粋を尽くした化学物質(セル、インク)などの技術に依存するアニメという表現手段を使うアニメーター、宮崎駿自身もまた、「無垢な自然児」ではいられないという自戒が内包されているように思う。

こんなふうに、アニメやマンガというメディアは、自由な表現形式であるがゆえに「思考実験」のメディアでもあるとぼくは思っている。その意味では、ディズニーアニメは、発達心理学的な寓意はあるものの底が浅いし、同じ理由で、『ひるね姫』も、ちょっと物足りなかったな。

『攻殻機動隊S.A.C』『東のエデン』の神山健治監督なのだから、「夢」というメタ構造を、映画に描かれる「現実」もまた観客の「夢」ではないか、あるいは観客の「現実」もまた「夢」ではないかというような問いかけをする終わり方に持っていけなかったのかな、と思ったりした。タイトルバックに流れる高畑充希の「デイドリームビリーバー」はとってもよかった。

ぼくと二女は、『君の名は』を見たときと同様、モール内でローストビーフ丼の特盛を食べ、今回は洋服ではなくヴィレッジ・ヴァンガードで科学おもちゃを大量購入し、施設へ戻った。

今回、例のMINI-ARROWとVOXの小型アンプを持参して、施設の一室を借りて、二女に弾かせてみた。弦は010-046のセットのまま。ストリングリテイナーも、まだつけていない。案の定、彼女の手でもセーハできるサイズで、弦の太さも、指が痛くならないテンションになっている。4弦2フレットを押さえて5-4弦を弾くパワーコードA、3弦2フレットを押さえて4-3弦を弾くパワーコードD、5弦2フレットを押さえて6-5弦を弾くパワーコードEの3コードを教え、やらせてみたが、やはり限られた時間の中では、すぐにはできない。

ギターとアンプを置いていこうとしたのだが、アンプで音を出すと他の子の迷惑になるのと、限定モデルのため、万が一他の子が壊したりしたら大変だということで、担当者に施設には置けないと言われてしまった。

次回、自宅に連れて来られるチャンスがあったら、再チャレンジすることにした。

二女を児相に拉致され、いまだに施設に収容されたままというぼくの「現実」も、「夢」だったらいいな。

しかしそうなると、変なオジサンがほぼ毎日長文を書き続けているこのブログも、ネット上に現れた「夢」ってことになっちゃうのか?