BABYMETALはモスラである(1) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ

本日3月18日は、2012年、BABYMETALがスポニチ“なでしこメタル特集”で初めて新聞記事になりました。また、2016年には、「KARATE」のフルMVが公開され、THE ONE 限定イベント2DAYS(4/20、21)開催決定が発表された日DEATH。

 

3月15日、東京ドームBD・DVDの公式トレイラ―がYouTubeにアップされた。わずか1日で視聴件数は20万回を超え、1,000を超えるコメントのほとんどが海外から(英語、スペイン語、ロシア語など)の書き込みである。

実際に東京ドームに行き、そのあとのLVにも足を運び、WOWOWでも見られたぼくら日本人は、東京ドームの映像にもう驚かなくなっているが、海外でBABYMETALのツアーを待ち続けているThe Oneのみなさんは、プロショットで見るのが初めてで、「やっぱりとんでもないライブだったんだ」という驚きがあるんだと思う。日本人に生まれてよかった。

というか、BABYMETALはマジで世界のアーティストなのだなあ。

同時に、全国のCDショップで旧譜キャンペーンというのが始まった。アルバムまたはDVD、BD1枚、シングル2枚同時お買い上げで、東京ドームのスペシャルポスタープレゼントというもの。CD買って友達に配れと、そういうことだな。単独ライブも新譜も出ない中で、映画館ツアーに続き、これまでに制作したコンテンツで売り上げを確保しようという作戦らしい。ううむ。

 

ベビメタロスの徒然なるままに記す学術的?妄想ベビメタ論シリーズ。

続いてのテーマは、サブカルチャーとしてのBABYMETALであります。

BABYMETALは、これまでの日本のアイドル/アーティストの枠を大きく超えて、海外へ発信するサブカルチャーとなった。

ということは、海外でウケる日本の映画、TV番組、アニメのヒーローの系譜を引き継ぐ、なにがしかの共通要素があるはずなのだ。

タイトルでネタバレしちゃっているが、戦後日本のサブカルチャー・アイコンを巡りながら、BABYMETALが今後、海外において訴求すべきポイントを探っていきたい。

太平洋戦争後、欧米人が日本発のサブカルチャーとしてまず初めに認識したのは、1954年に公開された東宝映画『ゴジラ』であろう。

1946年から実施されていたアメリカによるビキニ環礁の核実験と第五福竜丸被ばく事件を契機に、水爆実験によって太古の眠りから目覚めた伝説の怪獣が蘇るというプロットだが、これは前年の1953年に、ワーナー・ブラザースで制作され公開されたユージーン・ルーリー監督、レイ・ハリーハウゼン特撮作品『The Beast from 20,000 Fathoms』(邦題:「原子怪獣現る」、原作レイ・ブラッドベリ「霧笛」(1951年、短編集「太陽の黄金の林檎」早川SF文庫に収録)の明らかなパクリ。

当時はもちろんインターネットなどなく、海外情報も限られているから、影響を受けたわけではなく、同時発生したのだと強弁する評論家もいるが、『ゴジラ』企画時の仮タイトルは「海底二万哩から来た大怪獣」であり、原題の直訳である。

原子爆弾の実験によって蘇る太古の恐竜、漁船を襲うがなかなか姿を見せないホラー仕立て、科学者の娘と主人公の関係、主要都市(NYおよび東京)に上陸して破壊の限りを尽くす怪獣に軍隊が無力、放射能を持った血による感染症を引き起こすというのは『ゴジラ』にない設定だが、倒すことができるのは究極の化学兵器(アイソトープ弾)であるなど、プロットのほとんどが、丸パクリである。おそらく、関係ないと強弁する評論家は、本家のストーリーを知らないのだろう。

いくら1954年とはいえ、ハリウッドの流行に敏感な映画関係者なら、大ヒットした作品を知らないわけはなく、第五福竜丸事件で、核実験に神経を逆なでされた国民にウケるという直感にもとづいて、制作されたパクリ作品であることはほぼ間違いない。

しかし、今では、本家の原子怪獣リドサウルスよりもゴジラの方が圧倒的に有名になってしまった。それは、第一作の『ゴジラ』が961万人もの動員を成し遂げ、最新の「シン・ゴジラ」に至るまで合計29作が制作され、ハリウッド版「Godzilla」は2回もリメークされているためである。NYヤンキースの松井秀喜の「ゴジラ」というニックネームもジャイアンツ時代のまま、アメリカでも通用した。2017年のグラミー賞にノミネートされたフランスのへヴィメタルバンドGojira(結成時はGodzilla)も、当然日本版ゴジラからきている。

なぜ、本家の『原子怪獣』よりも『ゴジラ』の方が有名になったのか。

2つの映画のプロット上の違いは、リドサウルスが北極海(バフィン湾)に眠っていたのに対して、ゴジラは南洋に眠っていた点。もうひとつは、リドサウルスを倒したアイソトープ弾の狙撃手は生き残って英雄になるが、オキシジェン・デストロイヤーを撃った天才科学者芹沢博士は、ゴジラもろとも海底に沈み、亡くなってしまうという点。

この2つの違いが、『ゴジラ』を日本の戦後サブカルチャーのアイコンにしたことに重大な関係があると思う。

もちろん、特撮監督としての円谷英二の腕、ゴジラの着ぐるみの造形、あの咆哮のSE、作曲家伊福部昭による音楽など、本家をはるかにしのぐ完成度があったことが、大ヒットの主要な要因ではあろう。

しかし、戦勝国のアメリカよりはるかに人口も少なく、娯楽にさける経済力も乏しかった当時の日本で、961万人も動員した理由は、それだけではない。

核実験によって巨大化した怪獣の上陸という事態は、原爆を落とした側のアメリカと、落とされた側の日本ではまったく意味が異なる。

加えて、ゴジラが南洋から蘇り、一路東京目指して泳いでくるというプロットに、当時の観客は言いようのない戦慄を覚えた。

ゴジラは、南洋で散華した旧日本軍兵士の象徴であるという解釈をしたのは、映画評論家川本三郎である。

――引用――

『ゴジラ』は「戦災映画」「戦禍映画」である以上に、第二次世界大戦で死んでいった死者、とりわけ海で死んでいった兵士たちへの「鎮魂歌」ではないのかと思い当たる。“海へ消えていったゴジラ”は戦没兵士たちの象徴ではないか。

(「ゴジラはなぜ<暗い>のか」『今ひとたびの戦後日本映画』岩波現代文庫、P.86-87)

――引用終わり――

その証拠として、ゴジラは品川沖から東京に上陸するや、銀座を火の海にし、東京タワーや国会議事堂を破壊したのち、皇居へやってくるが、なぜかそこでくるりとUターンして、また海に帰っていくというシーンがある。

――引用――

戦争で死んでいった者たちがいままだ海の底で日本天皇制の呪縛のなかにいる。ゴジラはついに皇居だけは破壊できない。これをゴジラの思想的不徹底と批判する者は、天皇制の「暗い」呪縛力を知らぬ者でしかないだろう。

(前掲書、P.88)

―引用終わり―

早稲田大学教授の加藤典洋は、近代戦争では、国が敗れるとその大義が「悪いもの」になってしまうという。

太平洋戦争は、米英仏蘭の白人帝国主義からアジアを解放して、大東亜共栄圏を確立するための戦いであったはずだが、戦後は一転して「日本によるアジア侵略戦争」だったとされた。国体のため、大義のため、そして家族を守るために戦って死んでいった「英霊」たちは、「悪の侵略者」になってしまった。だが、「鬼畜米英」であったはずのアメリカの影響を受けて繁栄している戦後の日本国民は、死者たちから見れば、裏切り者以外の何物でもない。

その後ろめたさや慰霊の心情が、ほかならぬアメリカの核実験によって蘇り、巨大化したゴジラ=亡霊に投影されたのだという。

――引用――

観客はそう意識せずとも、ゴジラという表象に対し、愛憎をまじえた錯綜した感情を喚起される。長々と続く深夜の東京市街を破壊しつくすシーンでゴジラが闇に向けて咆哮するさまは、「俺たちが命をかけて守ろうとした故国は、どこに行ったのだ?俺たちはどこに帰ればいいのだ?」と叫ぶようですらあるだろう。

こうして、ゴジラがオキシジェン・デストロイヤーにより芹沢もろとも死んだ後、おだやかな海に向けて船上の乗組員が示す最後のシーンの哀悼は、死をもってゴジラを排除した戦中世代の芹沢に向けられたものであるにもかかわらず、観客には、それがゴジラにも向かってなされていると感じられる。観客はそこに、悲哀の感情をおぼえ、かすかなとまどいを味わう。

(「ゴジラとアトム~一対性のゆくえ」『ゴジラとアトム』慶應義塾大学アート・センターBooklet 20、2014年、P.16)

-引用終わり―

オキシジェンデストロイヤーを開発した、若き天才科学者芹沢博士は、戦時中、片目をなくすという大けがを負い、戦後は世捨て人となってひっそりと暮らしていた。彼は、確実にゴジラに新兵器を撃ちこむために、ゴジラと共に海底に沈む。ゴジラは退治されるが、同時に博士も亡くなる。彼は自分の命を捧げものとして、ゴジラの霊鎮めを行ったのだ。

『ゴジラ』が、961万人もの観客を動員し得たのは、ハリウッドの『原子怪獣』とは全く異なる深い意味を日本人に与えたからだというのだ。

ところが、この大ヒットに勇気づけられた東宝は、『ゴジラ』をシリーズ化し、ゴジラはやがて外敵(例えばキングギドラ)から日本ないし地球を守る正義の怪獣となっていく。

これは、どう考えるべきか。

そして、今のところまったく関連性の見えないBABYMETALがどう関係するのか。

ちゃんとつながるというのか。ほんとにもう。

(つづく)