女性ロックスターBABYMETAL(5) | 私、BABYMETALの味方です。

私、BABYMETALの味方です。

アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ

本日3月17日は、BABYMETAL関連では大きなイベントのなかった日DEATH。

 

BABYMETALが、欧米のメタル市場で広範なファンを勝ち得たのは、Perfumeのようなテクノオリエンタリズムへの憧憬と、デスティニーチャイルドのような野性味のあるライブバンドとしての実力を兼ね備えていたことに加え、歌舞伎に由来する「親目線」で成長を応援するアイドル文化の力が働いたからだ、というのが前回の議論。

しかし、和光大学教授の上野俊哉氏(文化研究、メディア論、以下、敬称略)は、テクノオリエンタリズムの視線とは、西洋社会の文化帝国主義にほかならず、それを肯定的に承認し、オタク文化があたかも日本文化の先進性や優位性を表わしているという言説(岡田斗司夫)を手厳しく批判する。

上野は、日本人を非人間(inhuman)である“ジャパノイド”と見做し、西洋文化に従属させようとする“準帝国”の意図を、なぜポストモダンなどとほめそやすのか。それなら自分は物わかりの悪い左翼とみなされても構わないという。

つまり、クールジャパンという言葉に象徴される、日本のサブカルチャーが欧米の文化に侵入し、影響を与えているかのようなイメージは誤りで、現在進行しているのは、日本の大衆文化が、欧米文化と商業資本に取り込まれ、その一部として組み込まれていく過程だというのが上野の見方なのだ。

そして上野は、日本人自身による「セルフオリエンタリズム」が起こっているとし、その表現として、ジャパニメーション(日本のアニメ)において、敵のラスボスとなる人工知能が女性といて描かれるという重要な指摘をしている。

――引用――

映画『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』には「人形使いパペットマスター」という情報ネットのなかの「人工生命」が登場する。「人形使い」は株価操作、情報収集、政治テロを通じて国家間の政治、経済に介入する。不特定多数の人間をゴーストハックして人形として使う(アニメートする)ところから、この名前で呼ばれている。「人形使い」はただの人工知能ではなく、自らを「情報の海で発生した生命体」と主張する。「生命とは情報の流れのなかに生まれた結節点のようなものだ」、「記憶が幻の同義語であったとしても人は記憶によって生きるものだ」、そう語る「人形使い」が女のかたちをした義体(サイボーグ体)魂=ゴーストとして入りこんでいた点に、サイボーグ・フェミニズムの問題系が現われている(コンピュータのなかの「人工生命」がいつも女であるという奇妙なルールは、『メガゾーン23』の"バハムート"内部の時祭イヴや、『マクロス・プラス』の仮想アイドル、シャロン・アップルにも共通する。「命を吹き込まれた(アニメイテッド)女神像」という設定が、ギリシア神話の『ピグマリオン』から続いていることに注意しよう)。

(「ジャパノイド・オートマトン」表徴の準帝国)

http://www.yidff.jp/docbox/9/box9-1.html

-引用終わり―

上野のこの論評は、ジャパニメーション(日本のアニメ)についてのもので、三次元のアイドル/アーティストとはとりあえず関係ないと思われるかもしれない。

しかし、キツネ様や「メギツネ」「KARATE」のオリエンタリズムと、Metal Resistanceを戦うアニメのヒロインのようなコスチュームを着て、テクノオリエンタリズムの視線をも否応なく引きつけつつ海外で活躍する女性アーティストであるBABYMETALの物語性を考えるとき、日本および海外のアニメーションで女性ないしヒロインがどのように描かれてきたかを考えることは、非常に重要である。

ちなみに『攻殻機動隊』のパペットマスターというのはMaster of Puppets、明らかにメタリカの影響だろう。

上野が指摘しているように、日本のアニメやマンガ、SFでは、敵役である人工知能やミュータントがしばしば女性として描かれる。

古いところでは手塚治虫の「火の鳥・未来篇」で、世界最終戦争を引き起こす各都市国家のサイバネティックス中央コンピュータが、いずれも女性であった。

「銀河鉄道999」で、機械の体を手に入れようと旅してきた鉄郎がたどり着いたのは、機械帝国惑星“ラーメタル”で、その支配者はメーテルの母であるプロメシュームという巨大な機械の頭脳であった。

新しいところでは、日本アニメ史上最高傑作ともいわれる「エルフェンリート」で、人類を瞬時に抹殺できる能力を持った新しい種、ディクロニウスたちがみな少女であった。

http://ameblo.jp/jaytc/entry-12133582978.html

映画やコミックス化、ゲーム化もされたホラーSF小説「パラサイト・イヴ」(瀬名秀明)の怪物細胞も、女系にのみ遺伝するミトコンドリアDNA=女性であった。

確かに、敵役である人工知能やミュータントが女性として描かれるというのは、日本特有のことかもしれない。

いくつかの事実を踏まえて検証していこう。

日本のアニメやSFでも、敵役がすべて女性であったわけではなく、強大なラスボスは、男性として描かれることの方が圧倒的に多い。上野のいう「コンピュータのなかの「人工生命」がいつも女であるという奇妙なルール」は、「人工知能やオートマトン、ミュータントが人間に対して反乱を起こすプロットでは」という限定をつけるべきものだ。

というのは、「人工の女性」というテーマは、確かにギリシア神話のピグマリオンや、近代SFの走りである「未来のイヴ」からの援用であるが、西洋の原作では、彼女たちは決して反乱しないからである。

キプロス王ピュグマリオンは、現実の女性に満足できず、自分が彫刻した理想の女ガラテアに恋をし、衰弱してしまう。それを哀れんだアフロディテが、ガラテアを人間にしてくれ、二人は結ばれたというのがギリシア神話の原作である。

これを下敷きに、フランスの小説家リラダンによって、1886年に発表された「未来のイヴ」のあらすじはこうだ。

美しい外見だが、知性のない歌姫アリシアに恋した地方領主エドワルド卿が、科学者エディソン博士に、彼女の容姿に知性を兼ね備えた人造人間の開発を依頼する。完成した理想の女性=アンドロイドはハダリーと名づけられる。エドワルド卿は歓喜し、ハダリーをともなって帰郷の途につくが、船が難破し、ハダリーは永遠に失われてしまった…。

西洋文学で「理想の女性」を人工的に創るというプロットは、ロマンチックであり、被造物は反乱しないのだ。

被造物が反乱を起こすというプロットは、チェコの作家カレル・チャペックの「ロボット」が嚆矢とされるが、ロボットたちは男性の労働者である。

テクノオリエンタリズムをもとに、日本化した2020年の社会を描いたSF映画「ブレードランナー」でも、反乱を起こすレプリカントのリーダーは男性であり、体制側で育てられ、ハリソン・フォードと恋に落ちる美しいアンドロイドは女性である。

猿が人間を支配する未来の地球を描く「猿の惑星」も、続編で、未来のある時点で、人間の労働を代替させるために、猿を言葉が話せるように改造したという事実が明らかになる。もっともこの物語は戦時中に日本軍の捕虜になった作者が、日本人=猿のアレゴリーとして書いたという説もある。

どの場合も、反乱する被造物(ロボット・レプリカント・改造された猿)は男性である。

つまり、日本においてのみ、男=人間が創り育てた人工知能・アンドロイド・ミュータントが人間に対して牙をむくとき、それらはなぜか強大な力を持つ女性であり、しばしば“マザー”コンピュータとして描かれるという現象が起こるのだ。

しかし、この現象を、上野のいうように、作者たちが、敵役である人工知能なりミュータントなりをマイナー・ジェンダーである女性として描くことで、テクノオリエンタルなマイノリティ=日本が、西洋文化においては、克服され、従属されるべきだという内面化(=セルフ・オリエンタリズム)をしているからだ、という屈折した解釈は、はたして妥当なのか?

ぼくは、そうではなく、もっと単純に説明できると思う。

アメリカのアニメで、恐ろしい敵役の女性とはどんなものか。

アメリカでは、アニメは子ども向けのカートゥーンだから、主人公が成長する子どもであることが多い。

その代表であるディズニーアニメには、「白雪姫」「シンデレラ」「眠れる森の美女」「美女と野獣」「人魚姫(リトルマーメイド)」から「ラプンツェル」「アナと雪の女王」まで、成長する女の子を主人公とするものが多い。

「王子様と結婚する」ことが女性の目標であり、シンデレラ・ストーリーこそ理想というフェミニスト陣営からは唾棄すべきプロットになるのだが、そこに登場する敵役はズバリ「悪い魔女」である。

「白雪姫」では継母、実は魔女。「鏡よ鏡…」とやって白雪姫を毒リンゴで殺そうとする。

「シンデレラ」も継母。魔女ではないが悪女であり、シンデレラを虐める。ここではよい魔女がシンデレラを助け、カボチャの馬車でお城に連れていき、王子様と出会わせてくれる。

「眠れる森の美女」も、悪い魔女とよい魔女が登場する。「美女と野獣」には直接登場はしないが、王子が野獣にされてしまったのは魔女の呪いによるものである。「人魚姫」には、グロテスクな蛸の格好をした海の魔女が登場し、人魚姫に人間の足を与えるが、声を出せないようにしてしまう。「ラプンツェル」は実母が魔女で、娘を塔の中に閉じ込める。

このように、ディズニーアニメの成長する主人公の女の子の前に立ちはだかるのは、明らかに両義性を持った魔女、発達心理学でいえば、乗り越えるべき同性としての母の比喩である。

では成長する男の子が主人公のアニメではどうか。

「ピノキオ」には、彼を導く妖精は登場するが、魔女は登場しない。敵役と言えるとすれば、擬人化されたバッタの「良心」の忠告に反して、ピノキオを誘惑するキツネ一派である。

「ライオンキング」には、父をだまし討ちにした敵役の叔父スカーが登場するが、母は常に優しい。「アラジン」の敵役は、国を牛耳り、アラジンたち庶民に貧しい暮らしを強いる悪い大臣ジャファー。「トイ・ストーリー」の悪役は、おもちゃを虐待する隣の家の悪ガキだが、ご主人様である男の子の寵愛を失ったウッディの嫉妬心や、自分がおもちゃであることを認めないバズ・ライトイヤーの自尊心こそ、本当の敵役なのだろう。

男の子が主人公の場合、「魔女」は登場しない。敵役となるのは良心を裏切る誘惑だったり、父の仇だったり、悪い大臣であったり、子どもじみた嫉妬心や自尊心、つまり「立派な大人になるために立ち向かうべき内面的・社会的な悪」である。

それらはいずれも、子どもが成長する際の心理的な障壁の比喩である。女の子はマイナージェンダーを受け入れるために、同性であるライバルとしての母=魔女を乗り越えねばならず、男の子は同じくメジャージェンダー=社会性を身につけた一人前の男として、悪と向き合い、克服しなければならない。ある意味非常にわかりやすい。

では先ほどの問題に立ち返ってみる。日本のアニメ作品で、理想の被造物として創られ育てられた人工知能なりミュータントなりが反乱を起こすとき、しばしば強大な力を持った女性として描かれるというのはどう考えればいいのか。

それは、テクノオリエンタリズムを内面化した作者が、マイノリティである日本の比喩として敵役を女性に描いたからではなく、ドラマツルギー上、その方が観客に届くリアリティがあると考えたからだろう。そしてそのリアリティとは、作者や観客が育った日本における幼児期の育て方に起因するのだと思う。

日本では、乳幼児の間は、母はとことん優しく献身的に接してくれる。幼児から見れば、母はなんでも言うことを聞いてくれる「理想の女性」である。しかし、日本では父親が育児に積極的に参加することは稀であるから、母親は、いわゆる第一次反抗期になると、社会性に関しても父親に代わって子どもを躾けねばならない。子どもから見ると、ある時を境に、母親は自分の言うことを聞いてくれなくなる。その時点でも依然として母の力は子どもから見て強大であるから、子どもには「母=反乱した強大な敵」のイメージが生まれる。そして、彼にとって、それを克服し社会性を身につけること、すなわち新しい秩序を確立することが自立の課題となる。こういう日本の家庭のありようが、理想の女性だった人工知能の反乱と鎮圧というプロットを生んだのではないか。

その証拠に、日本では、「女性人工知能の反乱」というテーマ以上に、思春期の男の子向けアニメーションで、「戦闘美少女」つまり、美しく、強く、しかも正義の味方であるという女性の描かれ方、つまり二度と戻らぬ「理想の女性」像の投影が数多く見られる。

「キューティハニー」から「フリージング」「セキレイ」「そらのおとしもの」「CRAYMORE」「百花繚乱サムライガール」「極黒のブリュンヒルデ」といったグラマラスなヒロインから、「ビビッドレッドオペレーション」「ノブナガン」「サクラ大戦」「最終兵器彼女」「イリヤの空UFOの夏」「境界の彼方」のような少女体形、軍艦・潜水艦を人格化した「艦隊これくしょん」「蒼き鋼のアルペジオ」まで、正義のために戦う美少女のイメージは、ジャパニメーションに多数ある。

日本で保守的なジェンダー観が緩くなった1990年代以降は「美少女戦士セーラームーン」や水野由結がインナーのCMをやった「プリキュア」シリーズなど、女の子向けアニメにも「戦闘美少女」が増えていく。もっともこれは、1970年代の「リボンの騎士」(手塚治虫)「魔法使いサリー」(横山光輝)「ひみつのアッコちゃん」(赤塚不二夫)の延長と考えるべきなのかもしれないが。

いずれにしても「反乱する女性人工知能」は、「戦闘少女」の反転であって、上野のいう、テクノオリエンタリズムの内面化と保守的なジェンダー観の卑屈なアマルガムであるという説明は、ぼくには無理筋であるように思えてならない。

そして、三次元において、同様に幼児期に失われてしまった「理想の女性」を、「疑似恋人」として育てようとする心理的動機をもっているのが、日本特有の「親目線」で成長を見守る「アイドル」なのではないか。

つまりアイドルへの「親目線」と、「戦闘少女」および「女性人工知能の反乱」というジャパニメーションのプロットは、同じ淵源から発したものなのだ。

BABYMETALのキャッチフレーズは「メタルは正義。Kawaiiも正義」である。

となれば、ですよ。

「アイドル」であるBABYMETALへの「親目線」は、創り育てた「戦闘美少女」の反乱、すなわちBABYMETALがいつか「怒った時のママ」(Copyright©菊池最愛)に反転する可能性を秘めていることになる。うわあ。確かNYLONのインタビュアーは「Me, too.」といったよな。

つまり、「アイドル」であるBABYMETALが「成長」したときのイメージは、日本人にとっては「強大な母」、アメリカ人にとっては「魔女」になるということだ。

その傾向は、現在でも巨大な「魔法陣」、ドSなメタルクイーンSU-の煽りで発生するモッシュッシュ=オルギアというイメージに、すでに表れ始めている。

メタル・クイーンだと陳腐、メタル・プリーステスだと、プラズマティックスのウェンディ・O・ウィリアムズになっちゃうから、メタル・マスターの女性形、メタル・ミストレス。

このイメージは、女性ロックスターBABYMETAL(1)で掲載した、LEDA神の愛器E-ⅡArrow7をかき鳴らすマドンナの写真を彷彿とさせる。SU-とYUIとMOAを全部足して金髪に染めたら、マドンナになると思いませんか。ひええ。

でも安心してください。

そこに至るまで、SU-やMOAが徐々に勝気な大人の女性として自己主張を始め、一番おっとりしていたYUIが美しいママになり、やがて強い母となり、ついに三人が世界を征服し、それぞれ魔女と恐れられるようになるまでの間、その「成長」をぼくらはつぶさに見られる。

その頃にはもう、ぼくらは、若いファン=孫たちのおじいちゃんとして、三人に「そんなに厳しく当たらなくてもいいじゃないか」と微笑ましく見られるようになっているんじゃないかと。

(この項、終わり)