女性ロックスターBABYMETAL(2) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ

本日3月14日は、BABYMETAL関連では、これまで大きなイベントのなかった日DEATH。

 

UCLA教授スーザン・マクレアリのジェンダー音楽論に従えば、保守的な欧米のメタル界がBABYMETALをやすやすと受け入れた要因は、男臭いメタルに、ダンスするアイドルという要素を導入したこの類を見ないプロダクトが、マドンナとは違って、男性であるKOBAMETALがプロデュースしたという安心感がベースにあるということになる。

だが、もしそうだとすると、BABYMETALがKOBAMETALから自立し、自分たちのやりたい表現を主体的に追求し始めた途端、猛烈な反動が来る可能性があるともいえる。

男性主体のプロのコントロールの元、「メタルアイドル」としての完成度の高いパフォーマンスをするから圧倒的な支持を受けているが、そこから脱却して「本物のメタルバンド」「主体的なアーティスト」「普通の女性ロッカー」として自己主張し始めたら、中高年男性ファンは離れていくのではないか。

ぼくの中にもそういう感覚がある。孤独なメタル狂のサラリーマンプロデューサーだったKOBAMETALのルサンチマン、「アイドルとメタルの融合」というより両方のパロディのような設定、くだらない「紙芝居」。しかし「召喚」された三人の少女が、キツネ様のお告げ≒「お父さん」の命に従い、過酷な練習やライブで数々のレジェンドを作ってきたというストーリーを丸ごと愛しているからだ。

本当にそうなるのか。たぶん、そうではないと思う。

マクレアリがマドンナをジェンダー論の視点から評論した1990年代からすでに四半世紀が経過している。本当にマクレアリのいうとおり、今でも欧米の音楽業界は、男性中心のジェンダー構造で動いているのだろうか。

ぼくの論点をいくつか挙げてみる。

①少なくともアメリカのポップミュージックの価値観は、マドンナとマイケル・ジャクソン以降、大きく変化した。ヒップホップ、ラップといったダンス音楽、黒人音楽が主流となり、ダンスは「シリアスな音楽評論家の問題外」ではなくなり、アーティストの表現の重要な一部分とみなされるようになっている。

②マクレアリの「西洋音楽の伝統」のジェンダー観は、例えば黒人音楽やアジア・アフリカ・ケルトといったエスニック音楽の受容を考えたとき、かなり一面的である。オリエンタリズム(西洋中心)的理解からは、これら「他者」の音楽は、「女性的」どころか、野蛮で凶暴な「男性的」「超男性的」なものと見做される。それらをもとにした大衆音楽、例えば黒人音楽を淵源とするロックやメタルやヒップホップでは、伝統的な西洋音楽の楽曲構造などとうに無意味化しており、それをジェンダー論でとらえることもまた、あまりにも西洋中心的で時代遅れではないか。

③主張する女性アーティストも、この25年の間に大勢登場した。2017年グラミー賞を争ったのはアデルとビヨンセという二人の妊婦だった。セルフ・プロデュースは、現代のアーティストとして当然であり、バンドという形式をとらずとも、歌唱力や容姿だけではなく、主張やコンセプトがあることが、「本物」であるかどうかの分水嶺になっている。逆にバンドという形式をとっていても「本物」でないとみなされるグループもある。

④「男性の目から見た理想の女性像」そのものも大きく変わったのではないか。1990年代初頭でさえ、アメリカではマクレアリのいう「男に都合のよい慎み深い女性」などすでに少数派だったはずであり、マドンナがそうした女性像をパロディとして演じて拍手喝さいを得たのも、まさにそれが「時代遅れ」だったからである。むしろBABYMETALを論じる際に重要なのは、日本の「アイドル」という概念であり、テクノオリエンタリズムとしての日本、そこに生きる女性のイメージなのである。それは「時代遅れ」どころか、アメリカ社会にとって「未来」である。

最後の論点について、もう少し掘り下げてみる。

シカゴ大学のエドワード・サイードによって提起されたオリエンタリズムという言葉は、西洋社会が自分たちのアイデンティティを確認するために、アジアやアフリカをオリエント=風景画のような異国として見る固定観念をさす。白人の知識人がアジアやアフリカの素朴で美しい風景を愛で、その開発や近代化(=西洋化)に反対するのは、無意識のオリエンタリズムである。ロンドン大学東洋アフリカ研究学院出身のピーター・バラカンが来日する動機となった「憧れの日本」=1960年代の風景に固執するのも間違いなくオリエンタリズムである。

テクノオリエンタリズムという言葉は、1995年に、ロンドンシティ大学のデヴィッド・モーレイとケヴィン・ロビンズが著書「同一性の空間」の第八章「テクノ=オリエンタリズム、ジャパン・パニック」で提起した概念で、1980年代のYMOや、ソニーの盛田昭夫会長と石原慎太郎の共著「Noと言える日本」を下敷きにした日本論のキーワードである。

驚異的な日本の高度経済成長によって、1980年代に世界第2位の経済大国となったとき、世界は、日本を「侍・フジヤマ・ZEN・芸者」では説明できなくなった。

突如として欧米の音楽市場に登場したYMOは、巨大なシンセサイザーをバックに、マニピュレーター松武秀樹が操作するコンピュータのクリックに合わせて、人民服を着て、無表情なフロントの三人が精度の高いテクノミュージックを演奏するというスタイルで、ワールドツアーを敢行した。

同時期、石原慎太郎は、前掲書において、世界はすでに日本の半導体技術に依拠しており、教育によって優秀な労働者が多い日本と異なり、労働者のレベルが低いくせに、白人優位を疑わないアメリカは、自らの首を絞めるだろうと述べた。

太平洋戦争の敗戦国で、資源もない日本が繁栄したことは、欧米にとって驚異であった。そこから、無表情で勤勉に働くロボットのような日本人とハイテクというイメージが生まれ、10年近く経過したのち、モーリー&ロビンズは、日本は、たんなるアジアのオリエンタリズムの対象ではなく、コンピュータ、ロボット、サイバネティックスなどを表象とするテクノオリエンタリズムの国だと規定したのである。

もちろん、日本の科学技術志向は明治以来の国策であり、維新から26年で中国と、36年でロシアと、72年でアメリカ、イギリスと戦うまでに発達した。太平洋戦争でアメリカの工業力に敗れたという反省から、戦後はさらに科学技術立国を国是として猛烈に経済成長を成し遂げた。だから1980年代の日本人にとってさえ、今更日本の科学技術力に驚かれても、ということなのだが、西洋諸国では、1870年代にフランスで起こったジャポニスムブーム以来、日本をオリエンタリズムの対象、大義のためには命を捨てること(特攻)も辞さないという理解しがたい精神を持つ「侍の国」=異国として見ていたのである。

それがテクノオリエンタリズムに変わったといっても、西洋にとって日本が異国であることは変わらない。モーリー&ロビンズも、テクノオリエンタリズムには、人種差別的な要素、すなわち日本人は長時間労働を黙々とこなすロボットかアンドロイドのような亜人間(サブヒューマン)であるという偏見が含まれていることを認めている。

しかし、西洋がアジア諸国を「下に」「過去に」見るオリエンタリズムとは違って、日本へ向けるテクノオリエンタリズムの視線は、「もしかしたら西洋より上かも」「未来かも」という恐れを含んでいた。

――引用――

「もし未来がテクノロジカルなもので、テクノロジーが日本化しているとすれば、この三段論法でいくと、未来もまた今や日本的なものになっていることになる。ポストモダンの時代は環太平洋の時代となるだろう。日本は未来であり、それは西欧近代をのりこえ、とってかわるように思えるような未来である。」

(「同一性の空間」の第八章「テクノ=オリエンタリズム、ジャパン・パニック」)

-引用終わり―

これは、1982年に公開されたSF映画「ブレードランナー」(原作P.K.ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」)の、高層ビルの巨大なスクリーンに芸者が映り、薄汚いラーメン屋で「一つで十分ですよ」と日本語で話す店主に、ハリソン・フォードが無理やり二杯注文するシーンをほうふつとさせる。

日本が未来だとしたら、アイドルもまた未来なのである。

(つづく)