女性ロックスターBABYMETAL(1) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ

本日3月13日は、2016年、NHK総合で「BABYMETALスペシャル(仮)」が、4月4日に放送されることが発表された日DEATH。

 

スーザン・マクレアリ(カリフォルニア大学ロサンゼルス校教授)は、著書「フェミニン・エンディング-音楽・ジェンダー・セクシュアリティ-」(原著1991年、日本語版1996年新水社)でマドンナを論じて、

「(西洋音楽では)女性は欲望と恐怖の対象として位置づけられている。つまり男に支配されるか、そうでなければ我慢ならないと追放されるか、必ずそのどちらかになるわけだ。男たちがマドンナを激しく攻撃するのも、元をただせば、彼女が男の支配下にないという事実に、彼らが無意識の恐怖を抱いているからである。」(第7章生きて語る―マドンナによる肉体性の復活、P.233)

と述べている。

この本は、音楽学にジェンダーの視点を持ち込み、ひとつの“学派”を生み出した著作で、日本版の出版から20年が経つから、もう古典である。

ジェンダーとは、社会的な性別、性差のことだが、それが音楽と何の関係がある?

マクレアリによれば、西洋音楽の伝統的なオペラの筋書きは、ほとんど男性が主人公であり、女性は補助的な役割しか与えられない。カルメン、ルル、サロメなどの「悪女もの」もあるが、あくまでも劇中の男性の視点から、彼女たちの反社会性や性悪さが浮き彫りにされ、最終的に悪女は追放または殺されて終わる。そしてこうした構造は、オペラはもちろん、クラシック音楽の作曲法にも表れる。第一主題となる調性や旋律に対して、別の調性と旋律をもつ第二主題が現れるが、それは「女性的」なものとされ、「男性的」な第一主題の調性と拮抗しつつ、最後には第一主題に飲み込まれ、大団円を迎える。ベートーベンやロマン派の作曲家にその典型が見られる。

つまり西洋音楽は、政治や社会や文学や美術と同じように、男性中心のジェンダー構造をもつことが「正統」とされる。そしてそれは、現代のポップスやロックにも受け継がれているのだ…。

ぼくの読み方に誤りがなければ、マクレアリの論旨はおおむねそういうことだと思う。

女性解放運動とウーマンリブ、フェミニズムと女性学とジェンダー論の関連性や違いは、よくわからないのだが、女性の社会的不平等を解消し、地位を向上させる政治運動から、文化現象の中に男女の社会的不平等を助長する要素を見出す学術的方法論まで、女性の視点からの“異議申し立て”は、男性であるぼくの無意識の思い込みを覆す知的刺激に満ちている。

お茶の水女子大学の学生とのコラボで、今年1月に開催したぼくの企画による教育関係者向けセミナーのテーマは「言葉とジェンダー」だった。

個人的な考えを言えば、陰陽二元論に始まる男女の観念を簡単にひっくり返すことはできないし、そもそも男女は上下関係ではなく相互補完的なものだと思う。ぼくはどちらかといえば、伝統的な男女の役割差はあった方がいいと考えている方だし、社会的な権利に不平等や不公平があるなら、ラジカルにとらえずとも具体的に解決していけばいいことだと思う。

ただ、マクレアリのジェンダー音楽論は、冒頭にあげたようにマドンナを論じつつ、現代の音楽市場を考えるうえで、刺激的な示唆を与えてくれる。

なぜメタルが男臭いのか、メタルにダンスを持ち込んだBABYMETALがいかに革新的であるか、またなぜそれが男性メタルファンに受け入れられてしまったのかも、前々回書いたようなBABYMETALの自立がいかに困難なことかということも、これである程度説明できる。

前掲書によって、マクレアリの主張を、もう少し詳しくみていこう。

西洋音楽においては、いくつかの例外はあるものの、伝統的に女性の参加が拒まれてきた、と彼女は言う。その理由としてあげられているのは、

①リストの時代から、音楽でスターになるには「カリスマ的要素」が必要だが、男性の演奏家なら、“セクシーさ”を公にしてもよいが、女性の場合はそうした要素を表に出すことは「慎みがない」こととされてきた。

②音楽という表現形態は、身体に直接訴えるため、精神(理性)が男性的で、身体(感性)が女性的という西洋的な価値観の中では、「女々しい営み」とされてきた。そこで、音楽業界は、このメディアを支配するのは男性だと主張するために、女性を排除する。その結果として、作曲家や台本作家や舞台演出や演奏家のほとんどは男性であり、女性スターは必要だが補完的な役割しか与えられず、楽曲においても「女性的」主題は物語上同化されるか、除去されることに決まっている。

1982年にデビューしたマドンナは、ご存知の通り、マリリン・モンローのような「セックス・シンボル」の容姿と、男社会に媚びるような歌詞とダンス、意味深なMVで、1984年の「ライク・ア・ヴァージン」の大ヒット以降、一躍アメリカのポップスターとなった。「マテリアル・ガール」「パパ・ドント・プリーチ」などの楽曲は、今でも耳に残る。

ほとんどすべての楽曲、MVの映像は、完全な自作ではないものの、アーティストとしての彼女の意図に沿ってプロデュースされたものであった。

インタビューで彼女は、

「セクシーで美人で挑発的だったら、あとはからっぽ。他に売りになるものは何もないと思われている。女性にはいつだってそういうイメージがついてまわってるのよね。で、私はステレオタイプどおりにふるまっているようにみえるかもしれないけど、実はちゃんと計画的にやっていたの。自分のすることすべてをコントロールしていたわけ。それに気づいた人たちがまごついてしまったんじゃないかしら。」(ローリングストーン誌508、1987年9月10日)

と述べる。彼女の著作権管理会社は「Boy Toy」(男のおもちゃ)という名前であり、主体的・戦略的に男社会における商品としての女性性を利用していたことは明白である。そうした意図に気づいた男性や女性フェミニスト陣営からも、嫌悪感や非難の表明が相次ぐと同時に、単純に彼女の音楽やダンスに惹かれた男性ファンや、彼女のおかげで女性のセクシュアリティは自分でコントロールできると気づいた少女ファンからは、圧倒的な人気を勝ち得ることとなった。

その結果、米ビルボード誌「チャート史上最も成功したトップ100」第2位、シングルとアルバムの全世界での総セールスは、女性アーティスト最高の3億枚以上。『ギネス・ワールド・レコーズ』では「史上最も成功した女性アーティスト」と認定されている。(以上ウィキペディア)

マクレアリのマドンナ論は、冒頭にあげたように、西洋音楽では女性は欲望と恐怖の対象とされるが、マドンナは屈服や滅亡へ押し戻そうとする構造にはめられまいとする意図を明確に持っている、とする。

そして、その戦術として、マドンナはダンス(=舞踊)を利用した。

マクレアリによれば、1980年代当時、ダンスやディスコ音楽は、音楽批評家から問題にもされず、シリアスなロック評論家もその例に漏れなかった。白人、男性、異性愛者、中産階級の反逆ロック(HR、パンク、へヴィメタル)愛好家たちは、ゲイ、黒人、労働者階級の余暇を描いた「サタデイナイト・フィーバー」を軽蔑しきっていた。つまり、西洋音楽の伝統では、肉体的なものに訴える限り、舞踊の音楽は心を惑わせる、とるに足らないものとされてきたというのである。

少し補足しておくと、メガデスのギタリストになったマーティ・フリードマンは、逆に、そういうディスコミュージックは、外交的なモテる奴の音楽で、むしろ内向的なモテない奴が反動として必死でギターのピロピロを練習したのだと言っているのだが。

それはともかく、マクレアリは、「マドンナの音楽は見かけほど単純ではない」といい、ある面では大変優れたダンス・ミュージックであり、ブラック・ミュージック・チャートにもランキングされるし、商業音楽として伝統的な音楽構造を利用して「大多数の人に耳慣れたもののように聞こえるが、微妙に方向を変え」たのだという。ロックの歌唱法や演技表現を巧みに使い分け、女性のアイロニーや父権社会のパロディを利用しつつ、男の幻想をぶち壊す。つまり、伝統的な男性中心の西洋音楽界にあって、マドンナは明確な意図をもって、軽蔑されていたダンスや、男が女に期待するパロディを導入し、構造を変えてしまったというのである。

ハイ。マドンナの意図はともかく、ダンスやパロディを導入したというところ、2014年、西欧のメタル市場に登場したBABYMETALとオーバーラップしませんか?

メタルとダンスは水と油だった。メタルとは、長髪、髭、タトゥー、鋲付き革ジャンの大男が大音量で叫ぶ音楽であった。反体制的な歌詞をもつ楽曲が多いのに、欧米のメタルライブ会場に黒人の観客は少ない。新しいバンドが登場するたびに「これはメタルではない」というエリートの議論が起こるジャンルであった。

そこへ、楽器演奏の代わりに、ダンスする女子中高生アイドル三人組がフロントマンを務めるBABYMETALが登場した。

アイドルとは「日本版の男性視線による理想の女性像」である。

単独ライブでは、わけのわからない「キツネ様」に召喚され、Metal Resistanceを戦うというミュージカルのようなギミック・ストーリーが演じられていたが、神バンドの演奏、SU-の歌唱、YUI、MOAのダンスは、圧倒的なクオリティをもっていた。

たちまち、「BABYMETALはメタルかJ-POPか」という議論が巻き起こったが、奇妙なことに大物メタルバンドや、メタル音楽雑誌からは嫌悪感や拒否感はほとんど出ず、むしろあっという間に、みんな“BABYMETALの味方”になってしまった。

重要なことは、BABYMETALが、三人の女の子たちのセルフ・プロデュースではなく、キツネ様≒KOBAMETALというプロデューサーの元で、MIKIKO師、神バンドのメンバーをはじめ、さまざまな日本のプロの音楽関係者によって作られたプロダクトであることが、初めから明かされていたということである。そしてそのことが、「BABYMETALは作られたバンドであるが、メタルへのリスペクトが感じられる」「女の子たちの卓越した歌唱力やダンスは過酷な練習の賜物であり、その努力を否定することはできない」といった論調を生み、BABYMETAL肯定論のベースになっていた。

マクレアリの議論に引きつけて言えば、BABYMETALはメタルにダンス、アイドルという新機軸を導入したが、それはあくまでもKOBAMETALという男性プロデューサーが企画、構成、演出したものであり、三人の女の子たちは、それ=キツネ様のお告げに素直に従い、すさまじい努力をしているに過ぎない。彼女たちは「世界征服」と言っているが、マドンナのように主体的、意図的にメタル界の構造を変えてしまうことを目的としていないのは明らかである。それが保守的な西欧メタル界が、安心してBABYMETALを受け入れた大きな要因なのではないか。

(つづく)