西城秀樹の遺伝子 | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

―May the FOX GOD be with You―

★今日のベビメタ

本日5月20日は、2017年、フィルムフェスツアー@福岡がスタートした日であり、2018年には、オハイオ州コロンバス@MAPFRE STADIUMで行われる「Rock on the Range」(日本時間5月21日9:00)に出演する日DEATH。

 

5月16日、西城秀樹(本名木本龍雄氏、以下敬称略)が急性心不全のため逝去された。享年63歳だった。2003年に脳梗塞を発症したが、懸命なリハビリで芸能活動に復帰。2011年に2度目の脳梗塞を発症したがこれも克服し、現役を続行中だった。

このブログでは、何度か西城秀樹の功績について言及してきた。

1971年9月27日、広島県立総合体育館(現グリーンアリーナ)で、Led Zeppelinのチャリティコンサートが行われた。ぼくはこれが、広島県がロック系のアーティストを輩出する原点だと考えている。

広島出身の西城秀樹は、デビュー前にこのコンサートに参加しており、ロック志向の原点になったのではないか。

翌年1972年3月25日、西城秀樹は「恋する季節」でデビュー。3枚目の「チャンスは一度」で、ワイルドな歌唱法、長身、長髪、プレスリー風のコスチュームと大きなアクションが人気となりブレイク。同世代の野口五郎、郷ひろみと共に「新御三家」と称された。

ちなみにぼくが生まれて初めて買ったレコードは、天地真理の「水色の恋」と、西城秀樹の「チャンスは一度」だった。

1973年、ユネスコ村で行われた「情熱の嵐」キャンペーンでは、ヘリコプターから登場。「♪君が望むなら(♡ヒデキー)」というファンとのCall & Responseが話題となり、オリコン6位を記録。おそらくこの曲が、合いの手を想定して作られた初めての歌謡曲だったと思う。続く「ちぎれた愛」が、新御三家の中で初となるオリコン1位を記録。次の「愛の十字架」も連続1位。この年、西城秀樹は「第15回日本レコード大賞歌唱賞」を受賞。

1974年8月3日、大阪球場で、日本初のスタジアム・ワンマン・ライブを行う。以降、球場でのライブは恒例となるが、あるとき、ファンに懐中電灯を持参するよう呼びかけ、日が暮れたコンサートのクライマックスで、一斉に点灯させた。

これがアイドルのライブ会場でファンが振るサイリウムの走りであり、その最新形がBABYMETALの東京ドーム公演や広島公演で使われたコルセットやマスクに仕込まれた赤外線感応型LEDである。

翌年「傷だらけのローラ」で2年連続となる「第16回日本レコード大賞歌唱賞」を受賞し、「第25回NHK紅白歌合戦」に初出場した。

西城秀樹は、ロックをアイドルに融合したパイオニアである。西城秀樹がいなければ、合いの手も、数万人の観客を集めるスタジアムライブも、サイリウムも、日本の音楽文化に定着しなかった。

それだけではない。

1975年2月15日、「傷だらけのローラ」のフランス語バージョン「LOLA」が、カナダ、フランス、スイス、ベルギーで発売される。まったく同時期に、沢田研二も「愛の逃亡者 THE FUGITIVE」をイギリスで、「MON AMOURE JE VIENS DU BOUT DU MONDE」(邦題「巴里にひとり」)をフランスで発売した。

「LOLA」はカナダでヒットチャート2位を記録。「巴里にひとり」はフランスで4位を記録。

西城秀樹と沢田研二は、坂本九以来、10年ぶりに日本人歌手として海外進出=Japanese Invasionを果たした歌手なのだ。

だから、日本の歌謡界・アイドル界がガラパゴス化したのは、遠い昔からではない。1960年代も1970年代も、1980年代も、海外進出に挑戦する歌手、アーティスト、バンドはいた。日本の音楽界が「鎖国」化してしまったように見えるのは、はっきり言って2000年代の「アイドル」ブーム以降であり、広告代理店が牛耳るメディアが、アーティストの海外での活躍をほとんど報じないからに過ぎない。要するに日本人アーティストが海外で人気になっても、国内の売り上げに寄与しないからだ。

西城秀樹は「LOLA」1枚だけ、沢田研二も3年ほどで海外挑戦を断念する。1979年のピンクレディの全米デビューシングル「Kiss in the dark」はビルボード総合37位になったが、事務所はアメリカでのプロモーションを継続せず、結局、解散に追い込まれてしまう。

1980年代のLOUDNESS、E・Z・Oの全米デビューとX-Japanのデビュー未遂、それ以降の日本人アーティストの海外での活躍については、本題から外れるのでやめておく。

BABYMETALが、オールドメディアを使わず、インターネットを基盤として海外進出し、大成功を収めたのは、こうした先輩アーティストの歴史を踏まえている。

もう一度言おう。西城秀樹がいなければ、BABYMETALはなかった。

ロックを歌謡曲に導入し、合いの手や、スタジアムライブでファンがサイリウムを振る光景を生み出し、海外進出のお手本を見せてくれた偉大なジャパニーズロックシンガー、西城秀樹。

ありがとうございました。

天国でやすらかにお休みください。そしてときどき、後輩であるBABYMETALの活躍を見守ってください。