ベビメタ嫌い(4) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

THE ONE NEVER FORGET MIKIO FUJIOKA

★今日のベビメタ

本日、4月4日は、過去BABYMETAL関連で大きなイベントのなかった日DEATH。

 

METALLICA、ジューダスプリースト、レッチリ、KORN、スリップノットに至るまで、錚々たる大物バンドがBABYMETALを認めているのに、未だに「俺はキライだ」と言い続ける理由の一つは、神バンドの演奏の凄さを理解できない、要するに頭デッカチのメタル観念論に陥っているからである。

いや、バックバンドは上手いと思うけど、逆に、あの才能が「アイドル」ごときに用いられていることが気に入らない。「アイドルとメタルの融合」自体がメタルへの冒涜だという人もいる。

今回は、そういう方たちを折伏するための論理を開陳してみよう。

BABYMETALが大方のメタルファンに受け入れられた二つ目の要素として、日本の「アイドル」という存在が、さまざまな音楽や芸能の要素を混合した、ユニークなひとつのジャンルだという文化的理解が、ここ数年急速に世界中に広がったことがあるとぼくは思う。

元MEGADEATHの超絶ギタリスト、マーティ・フリードマンが、日本の歌謡曲には研究すべき価値があると言明し、ももクロやベビメタに肩入れしてくれているのは心強いが、ぼくは、それとは少し論点が違う。

21世紀に入って、それまでの「フジヤマ、サムライ、スシ、ゲイシャ」や「ハイテクジャパン」に代わり、日本のサブカルチャーや伝統的文化の価値観が、いわゆる「クールジャパン」として、世界的に再認識されていった。

「アイドル」は、アニメやコミックスと並んで、日本のサブカルチャーの一大ジャンルである。だから、アメリカやヨーロッパや東南アジアで毎年行われる「ジャパンカルチャーフェスティバル」には、「アイドル」が呼ばれ、口パクのライブを行う。AKB48も、ももクロも海外公演を行っているし、わがBABYMETALも、AFAシンガポール2012&2013、AFAインドネシア2013に招かれた。AFAおよびLive in SingaporeのBABYMETALは一部を除いて口パクだった。

オタク系サブカルチャーであるアニメやコミックが、遠く浮世絵や鳥獣戯画にさかのぼれるように、「アイドル」という存在も、日本の文化的伝統に源流を持つ。

このブログでも時々とりあげているが、1990年代後半~2000年代のカッコつき「アイドル」は、1980年代のアイドルや1960~1970年代の歌謡曲にルーツがあり、それは1960年代後半のGSブーム、1950年代の日劇ウェスタンカーニバルにさかのぼり、明治維新の西洋音楽導入、戦国末期の出雲阿国、江戸時代の歌舞伎役者や花魁の浮世絵、平安時代末期の伏見稲荷祭と猿楽、田楽、催馬楽、今様(『梁塵秘抄』)、歩き巫女にまでたどり着く1000年の歴史性を背負った存在である。

1970年代から、民俗学、社会史といった分野では、それまでの歴史学では扱ってこなかった文化史や民衆社会史の一環として、日本の伝統芸能や放浪芸人の発祥、系譜、伝播の研究があった。ポストモダンと同時期の一種の流行だった。

ぼくも一時期、黒川能や神楽を勉強しようと思って、東北地方に通った。暗黒舞踏の系譜をひくギリヤーク尼崎という孤高の舞踏家を大学に呼び、興行をやったこともあった。乞食人群(ほかいびとぐん)という小劇団について、下北半島の睦奥関根浜で合宿し、恐山での公演に参加したこともあった。佐渡の鬼太鼓座やバリ島のケチャにハマったのもその時期だった。

経済システムの変遷と権力闘争の過程としてしか歴史を見ないマルクス主義史観はどうも馴染めなくて、大文字の歴史では語られない民衆の暮らしや営みの中に「真の歴史」を見ようとしたのである。

日本の芸能の源流は神道・仏教が混交した宗教であり、その中心に天皇がいる。

誰でも中学・高校で習ったと思うが、『古今集』、『新古今和歌集』、『懐風藻』、『梁塵秘抄』といった平安・鎌倉時代の和歌や漢詩や今様などの形式を持つ「歌」は、勅撰、すなわち天皇や上皇が編集したものである。日本では天皇が歌会を主宰して秀歌を選び、時には庶民に混じって流行歌を採譜した。天皇こそ日本文化のプロデューサーだったのである。

その歌や芸は、宗教者を装った放浪芸人によって全国に広がり、近世社会では宗教から切り離されて芸能者が独立し、裕福な勧進元や町人によって支えられるようになった。江戸時代には、常設小屋が生まれ、スターシステムが存在し、ブロマイドにあたるのが浮世絵だった。

明治時代に西洋化するとともに、俳優と歌手、舞踏家、演奏家、落語家、漫才師、手品師が細分化された。戦後、テレビが普及すると、歌番組は主要コンテンツとなり、スポンサーがつき、歌手はレコードの売り上げを競い合い、「スター」になった。

しかし、テレビでの人気や、レコード・CDの売り上げの鍵は、歌の上手さや芸の巧みさや美しさではなく、視聴者が参加できる親しみやすさにある、と喝破した天才プロデューサーがいた。秋元康である。

1980年代に、彼はすでにこうした企画意図のもとにアイドルグループをいくつか手掛けていたが、2005年に、オタクが集まる秋葉原に常設小屋を設け、「会いに行けるアイドル」をキャッチコピーにしたグループを作った。それがAKB48であり、カッコつきの「アイドル」の大成功事例となった。

80年代のアイドルと、90年代後半以降の「アイドル」の違いは、グループであることと、踊りながら歌うこと、コメディやリアクション対応もするところにある。

80年代のアイドルの振り付けは、せいぜい手ぶりであった。しかしモーニング娘。以降の「アイドル」は激しく踊りながら歌う。

80年代のアイドルも幕間にコメディをやらされたが、トーク番組でのリアクションは求められなかった。

つまり、「アイドル」とは、明治期以降、歌手と俳優と芸人が分化していたのが、「未熟」をキーワードとして、再度未分化の形に戻された芸能者である。疑似恋愛対象であるということも含めて、女芸能者の先祖返りだから、ポストモダン的だと言えなくもない。

しかし、「アイドル」の未熟さの価値は、「芸」の質を捨象したがゆえに発生するのであり、ぼくらがそれに金を出すかどうかとは無関係だ。

BABYMETALは、逆に、さくら学院時代にやっていた「アイドル」としてのコメディ、リアクション対応をやめ、鑑賞に堪えうる「芸」としての歌唱、ダンス、メタルパフォーマンスに集中している。

だから、BABYMETALは「アイドル」出身だが、それを超えた、いわばポスト・ポストモダン的存在だと言える。

そう思うと、「メギツネ」には伏見稲荷信仰と歩き巫女の面影が、「紅月-アカツキ-」には放浪の門付女芸人のかすかな記憶が含まれているような気がしてくる。安易に疑似恋愛対象にならず、そうした「過去世」のイメージをも楽曲表現に高めているのがBABYMETALなのだ。

こういう話だけで一冊の本が出来上がるほど、「アイドル」論は奥が深い。

海外では、そこまで理解されているとは思わないが、少なくとも「アイドル」という存在が、日本文化特有の現象であることは、カルチャースノッブの「教養」となっており、多分にオリエンタリズム、あるいはテクノ・オリエンタリズム的な視線でありつつも、サブカルチャーのみならず、日本人の性格や伝統的な価値観が、西洋文化に対するオルタナティブなライフスタイルや「アート」として称賛されているわけである。

しかし、「アイドル」を軽蔑し、ベビメタを拒否するメタラーさんは、こういう背景をまったく知らないか、知った上で嫌悪する。

「アイドル」の価値を知らないメタラーさんには、次の手順で教えてあげればよい。

 

1.日本の芸能の歴史は、平安時代にまでさかのぼる伝統を持っている。

2.例えば江戸時代の浮世絵は、歌舞伎役者や芸者のブロマイドだったし、全国を巡業する巫女や旅芸人もいた。

3.明治時代に西洋音楽を取り入れ、戦後はアメリカ音楽の影響を受け、さまざまな要素がミックスされたのが日本の歌謡曲である。マーティ・フリードマンも称賛している。

4.ある時、お客さんの人気を得るには、「芸」や「美しさ」よりも「未熟」で「親しみやすく」「参加できること」の方が重要だということに気づいた天才プロデューサーがいた。

5.2005年に彼によって作られたAKB48を筆頭とする今の「アイドル」は、明治時代に分化した、歌手・俳優・芸人を再度統合したという点で、ポストモダン的な意味を持つ。

6.BABYMETALも、さくら学院という「アイドル」フォーマットの中で結成されたが、メタルダンスユニットを標榜し、歌唱、ダンスという「芸」で勝負するアーティストである。

7.「アイドル」がポストモダン的だとすれば、「アイドルとメタルの融合」というコンセプトそのものが、ポスト・ポストモダン的だといえる。

8.日本の「アイドル」には、こういう文化史的な意味があるので、「アイドル」出身だからキライとか言ってると、無教養なバカだと思われるぞ。

 

こういうことを知った上で「アイドル」やBABYMETALを嫌悪するメタラーさん、いわば確信犯には、また別の論法が必要だ。

(つづく)